マナーは何のため?『マナーフリー』という提案

すでおに

マナーは何のため?『マナーフリー』という提案

 マナーに関する問題がネットを騒がすことも多い今日ですが、そもそもマナーとは何でしょうか?ネット検索すると「礼儀作法」や「思いやり」といったことが出てきます。


「マナーとはみんなが心地よく過ごすためのもの」


 多少のニュアンスの違いはあれど、概ねこのように定義できるのではないでしょうか。


 現在マナーはその役目を果たしているでしょうか。むしろストレスを生むことも多いでしょう。マナーにことさら神経質になり、目を見張らせ、違反者に攻撃的になる。存在意義とは反対の効果を生み出しているように思えます。


 ストレスを生む最大の原因は、マナー違反者です。そこには、自分は守っているのに破る人がいる不公平感もあるのでしょうが、自分は本当に守れているでしょうか。「マナー違反は他人がするもの」でしょうか。

 マナーは体臭や口臭と同じで、自分には鈍感で他人には敏感なもの。「私はマナー違反をしません」というのは「私に口臭はありません」と言っているのと同じで、「あくまでも個人の感想」に過ぎない。どんなに気を使っていても、その日の体調や精神状態に左右され、意識せずに発してしまうもの、そして自覚するのが難しいものでもあるのです。


「マナー違反はお互い様」ではないでしょうか。


 心地よく過ごすためのものなら、多少の違反には目を瞑ることこそマナーといえるでしょう。過敏になって軋轢を生むのでは本末転倒。

 自分が少し我慢をすることで、他人が幸せになれるならそうしても良いのではないか。僅かな我慢も拒否して、厳守することがマナーとは思えません。


 ひいてはマナーの存在により、違反者は攻撃しても構わないという、バッシングの正当化をも引き起こし、ネット攻撃の習慣さえも招いているように思えます。ラインを踏み込えてしまった者に対する容赦のない批難。マナーが他者を攻撃するための口実になっている。これは「マナーの悪用」です。


 図書館ほど雑音が気になるのと同じで、マナーを意識する人ほど「マナーの囚人」と化している。


「コナンがいるから事件が起きる」ではないけれど、「マナーがあるからマナー違反が起き、ストレスを生む」ならマナーなどない方がよっぽどいい。


 マナーには縛られるより、寛容でいる。少なくとも他人にはマナーを求めない『マナーフリー』である方が心地よく過ごせるのではないでしょうか。『マナーフリー』によって、マナー本来の目的が実現される。矛盾しているように思えるのは、やはり現在のマナーの運用が間違っているせいかもしれません。


 それでも、マナーは大切だ、と主張するなら、厳守を課すべきは自分自身に他ならないでしょう。


 令和2年1月7日

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