第3話 The Eucharist(聖餐)


 纏わりつくような生暖かい空気の中、私は蝋燭に灯をともした。換気のされていない部屋にはさすがの私も不快感を覚える。カーテンが閉めきられた薄暗い部屋に蝋燭の明かりだけがゆらゆらと影を作りだす。


『さあ、人を造ろう。我々のかたちとして、我々に似せて…』――創世記1章26節


 聖書によると主は自らに似せて人を創造したという。骨を、血を、肉を、そして魂を創造した。


 私は床に無造作に置かれた2対の大きな黒い袋に目を向けた。凝固した血だまりに思わず嫌悪感を覚える。


「私だけが狂気か?この、私だけが……」


 違う。そんなことは無い。



『神は自分の造ったすべてのものをご覧になったが、見よ、それは非常に良かった』

 ――創世記 1章31節


 あぁ素晴らしい出来だったのだろうな。成程確かに大地や海、森や花々、そこに生きる動物たち。美しい。


 だが人の子はどうだろうか。もはや禁断の果実すら生易しく感じるほどの”罪”を犯しているのではなかろうか。


「あぁ主よ。ならば何故“私”を創り出した……」


 私は少しの間手を合わせ、祈りを捧げてから部屋を後にした。







 あれから5日が経過した。ある程度の計画は立てることが出来た。とはいえ、1日で出来る準備などたかが知れている。建物の間取りや近隣の様子。車の準備や道具の購入。結局のところ、いきあたりばったりの犯行と大差は無い。知識や経験のない我々が愚策を弄したところで足元を掬われるのは目に見えている……


 そんなことを考えながら私は303号室の玄関を開けた。玄関には弁当の容器やペットボトルなどが詰め込まれたごみ袋が無造作に置かれている――ごみ袋に入っているだけマシか。意外とマメな大野木が片付けてくれたのだろうか。


 時刻は13時頃。すでに靴は4足。どうやら”明日のこと”もあり、皆はもう集まっていた。


「――うーっす」


 リビングの椅子に腰かけていた大野木が相変わらずの様子で挨拶をする。


「あぁ」


 簡素な挨拶で返す。


「明日が確か、あれの日だよな?」


 大野木が珍しく言葉を濁しながら尋ねてきた。


「あぁ」


「そういえば順番は変わりないか?」


「無論、変更なしだ」


「つまりは……」


 大野木が言い終わる前にリビングに彼がやってきた。


「――おはよう」


 田原浩二――”その人”だ。大野木と私が軽く会釈を返す。


「この1週間ちょっとで僕にも何か、その、君たちが言う”覚悟”みたいなものが決ま

 ったよ」


 田原が少し照れ臭そうに言う。


「おっさん、一応応援してるぜ」


「大野木、悪いが田原と二人で話していいか?」


 私には田原と話すべきことがあった。


「ん?――あぁ、おかまいなく」


 大野木はそう言うと以前ホームセンターで買ってきた道具類の手入れを始めた。


 私は田原を連れて部屋を後にし、アパートの屋上へと向かった。




 5階建てとは言えなかなかの眺めの良い場所だった。眼下には大通りが一直線に走っており、忙しなく通り過ぎる車、歩道を少し早めのペースで歩くサラリーマンや自転車に乗った主婦など、街の日常を見渡すことができた。


 柵に寄りかかり、景色を楽しみつつ、田原へと声を掛ける。


「田原浩二。明日の夜、君は死ぬ」


 田原は無言で軽く頷く。


「要らんお節介かも知れないが、遺書のような物でもあれば、明日、遺体のそばに置

 いておくぞ」


 田原の表情が少し暗くなるのを感じた。


「遺書か……。悪いけど僕には遺書を書くような相手はいない……。両親はすでに他

 界してるし、友人と呼べる人はいない。まぁ、だからこんなおっさんになってしま

 ったのかな」


 田原が自虐的な笑みを浮かべる。


 自殺願望者の多くは孤独だ。相談やプライベートな会話を出来る相手が居らず、自身の中で負の感情が渦を巻き続ける。仮に周りに家族などが居る場合でも疎遠であったり、相談ができる状態ではなく、ただただ一人で抱え込んでしまう傾向がある。


「田原……」


 田原へ掛ける言葉が見当たらなかった。



 しばらくの沈黙の後、田原が再び口を開いた。


「名塚君はこれからやることで何かが変わると信じてるかい?」


 不意の質問だった。


「あぁ。勿論、社会の何かが大きく変わることはあり得ない。だが、少しでも――少

 しだけでも人々の気持ちに変化を与えられればそれでいい。たとえ――」


「――悪い方向へ、でも?」


 田原の目はぼんやりとビル街を眺めていた。


「そうだ。だが、もう正攻法で我々が救われないのは証明済みだろう?」


 田原はビル街を見据えたまま話し出した。


「若い時の僕なら、間違いなく否定する。でも今は――


『なんで自分だけこんなに仕事ができないのか』

『一生懸命やっているのになぜ怠け者扱いされるのか』

『なぜみんなはそんなにも”普通”に生きるのが上手いのか』

『いっそ自分は消えてしまった方が良いのではないか』

 

 こんな考えばかりが頭を埋め尽くすんだ。もう何のために生きているのかすら分か

 らないんだよ、僕は。


 それでいて一人で静かに死んでればいいのに、どうしても羨ましいんだ、他の奴ら

 が!嫉妬――僕には烏滸がましい感情だけど、羨ましくて羨ましくて仕方がないん

 だ。なんでみんなはそんなに幸福なんだ、って……」


 田原は下を眺めながら小さな溜息を洩らした。それからはお互い静かに街を眺め続けた。


 少しして、私が部屋に戻ろうとしたとき、


「――名塚君。僕は君に感謝しているよ。遺書の件、夜までに書いておくよ」


「――あぁ」


 片手で了解の合図を送りその場を後にした。


 田原の声が妙に爽やかに感じられた……






 部屋へと戻るとリビングで知立恵が読書をしていた。


「――あなたも”こんな本”読むのね」


 そう言ってテーブルに置かれたのはマルクス・アウレリウスの『自省録』の翻訳版。恐らく部屋の本棚にあったのを見つけたのだろう。


「こういうのは寧ろ嫌いかと思ってたわ」


 知立は『自省録』を一瞥して言った。


「あぁ、私が思うに哲学者なんて扱われている者たちはそう大した事を言ってはいな

 い。あたりまえに、誰でも考えそうなことを小難しく言っているにすぎん」


「そう、安心した」


 知立が笑みを零しながら言った。

 

「高校と大学の時、私もこういうのは触ったわ。でも所詮は心に余裕のある人の考え

 る理想論ね。特に昔になればなるほどその傾向は強い。貧しいひとたちは明日のパ

 ンすら食べれるかどうかわからないという状態だったのに……。こんな物を文書と

 して残せるような生活をしていた。所詮は”そっち側”の人間の話よね」


 知立の表情には若干の苛立ちが見られる。


「理想論か……。たとえ理想論だとしても、私は誰かが唱え続けることに意味がある

 と考えている。本当にすべての人々が理想すら持たなくなってしまえば世の中は崩

 壊するより他はないだろう」


 知立が椅子に座ったまま横目で私を見る。


「”この本”は無いよりはマシって訳ね」


「ただ、理想を語るだけでは何も変わらない。何も……な」


 皮肉を返すと暫し静寂が流れた。



「ところで、もし暇だったらコンビニに夕飯を買いに行くんだが、付いてきてくれな

 いか?」


 少し居心地の悪さを感じた私の不意な提案だった。が、知立は快諾した。


「あ、そうだ。部屋に白山さんも居るから誘ってみるわね」


「あぁ」


 白山はこの部屋で生活し始めてから殆ど外出をしていない。彼女に気を使って、だろうか。私が行うべきだったか……。


 しばらくすると白山が部屋から出てきた。


「それじゃあ行くとするか」


 私は二人を連れてアパートを出た。




 夕暮れの街中をのんびりと歩く。学生時代や社会人のときは感じなかったが、最近になって思う。


「――景色が美しいな」


 今までに何度も見た何の変哲の無い自然現象による街並みのライティング。なぜか今の私にはそこに美を感じた。橙色の光がビルを照らし、道路に影を作る。明暗のコントラストと暖かな色使いが心地よい。


「うん……」


 私の少し後ろを歩いている白山が消え入りそうな声で相槌を打つ。


「――なら、ちょっと”あそこ”寄っていかない?」


 知立が指さしていたのは自然をテーマにした公園とミュージアムの複合施設だ。アスファルトとコンクリートの街並みの中に存在する”森”をイメージした大きな公園。平日でも家族連れなどが多く利用しているのを見かける。


「少し寛いでいくか」



 公園内にはヨーロッパ風のレンガ造りの建造物などが建っていた。草木が生え、小川が流れ、外国の公園をイメージして作られたのだろうか。夕日に照らされて水面は美しく輝き、木々は幻想的ですらある。


 我々は開けた場所のベンチに座り休むことにした。3人とも特に何かをしゃべるわけでもなく、ただ夕暮れの公園に何か思いを馳せていた。



「――こんにちは」


 突然のことだった。目の前には20代くらいの私服の女性が立っていた。


「ん?こんにちは」


 突然の挨拶に若干戸惑いながらも私は挨拶を返した。知立はというと怪訝そうな顔をしている。実際、私も苦手だがな。”こういう”のは。


 いまどき珍しいタイプの人間だ。かつて公園はコミュニケーションの場として地域の人に利用されてきたのだろう――いや、今でも年配の方たちはそうなのかもしれない――が、現代の若者となれば話は別だ。


「――良い夕焼けですよね」


「あぁ」


 女の不意の言葉に適当な返答しか浮かんでこない。


「なんか夕焼けって懐かしい気持ちになっていいですよね?私、小さいころによく兄

 と門限ギリギリまで遊んでて親に怒られましたよ」


 ――興味など無い。が、私も本音を剥き出しにするほど幼くは無い。


「あぁ。私もよく怒られたものです。夕焼けには皆、懐かしき思い出があるのでしょ

 うね」


 話をとりあえず合わせておく。


「今日はここへは観光?」


「いや、この辺りに住んでいる。寄り道です。」


 ――知立が軽く私の足を小突く。迂闊だったか?まぁ、いい。この女が今後のニュースや何かで私たちの顔を見たとしても、具体的なアパートまで特定をするのに数日間の猶予はある。


「そうなんですか。私もこのあたりに住んでて、名前は弥富凛(やとみ りん)って言

 います」


 随分とフランクなお方だ。


「名塚、名塚悟(なづか さとる)。私の名です。」


「名塚さん、ね。じゃあ、私はそろそろ夕飯の支度があるので……――あ、そうだ」


 弥富凛は数歩進んだところで何かを思い出したように振り向いた。


 そして妙な笑顔で私に向かってこう問いかけた。



「――人の命について、どう考えてます?」



 それだけ言うと弥富は私たちを置き去りにして夕焼けに染まる街に消えていった。


 知立がため息をつく。その意図は分かる。


「私も、私も定かじゃないけど、一番最初にあなたと会ったオフ会のとき、彼女、居

 た気がする……」


 知立の言葉に背中を嫌な汗が伝うのを感じた。


 それからは少し背後に気を配りながら、後を付けられてないかを確認しつつコンビニへと向かった。3人でコンビニ弁当を買い、アパートへと戻った。道中ほとんど会話は無かった。


 このことは不安を煽るため確かな事が分かるまで2人、特に大野木には黙っておくことにした。血の気の多い彼だ、何を言い出すか分からない……。






 時刻は午後7時。田原にとっては最後の晩餐である――あいにくコンビニ弁当なのだが……。



 食事の終わり際、田原が急に立ち上がった。


「――聞いてくれ」


 何かを察したように皆が真剣な眼差しを田原へと向ける。


「明日の晩はいよいよ僕の番だ」


「ええ」


 知立は紅茶の入ったグラスを静かにテーブルに置きながらひどく冷静な様子で答える。


「まず、殺す相手だが中学校時代のクラスメイトだ」


 淡々とした口調の田原の目には確かな覚悟があるように見えた。


「誰を殺すか、いろいろ僕なりに悩んだ。

 

 会社の嫌味な上司、同僚、無茶な要求ばかりしてくる取引先。でも誰も殺すほどじ

 ゃなかった。みんなそれなりに苦労して生きている。両親も既に他界した。今の僕

 に激情を起こせるような相手は居ない。


 そもそも、僕が死を考えた理由は自分に原因があるんだ。勉強、スポーツ、そして

 仕事。どれも自分はダメだった。小さいころから、僕という人間は何もできない人

 間なんだって、薄々は感じていた。でも、社会に出てから本当に痛感させられた。


 自分という人間の能力が、いかに人より劣っているのかということを。


 周りの人間からも疎まれ、陰口、そしてそれらが表面化していった。でもこれは、

 自分に原因があるんだっていうのは分かってた。だから彼らを殺してしまったら僕

 は本当に、本当にダメになってしまう」


「田原さん……」


 白山の瞳には涙が滲んでいた。


「じゃあ、なぜ僕はここにいるのか?本来であれば僕は静かに人知れず死ぬべきだっ

 たんだろう。だけど僕の心の中でどうしたものか、嫉妬の炎が確かに燃えていたん

 だ。常に、常に心のどこかで思ってた。


 なんで僕ばかりがこんな思いをしなきゃいけないのか。


 因果応報なんて嘘もいいとこだよ。僕は別に不真面目に生きてるわけじゃない。僕

 の、僕なりの努力をしてきたし、悪いこともやっていない。なのになんでこんな仕

 打ちを受けているのか理不尽でならない。


 僕は別段子供の頃に虐められていた訳じゃ無い。


 小中学校が同じだった男にスズキという男が居るんだ。学校という狭いコミュニテ

 ィでやりたい放題やっていた奴、所謂クラスの中心にいるようなタイプの奴だった

 よ。顔立ちも良くて運動神経も十分に良い、おまけに勉学も上位。何もかも持って

 いるような奴だった。


 だが、性格は嫌な奴だったよ。人の気持ちも考えないで――いや、考えたうえでか

 も知れない。学校という狭いコミュニティの中で弱者を嬲って悦に浸っていた。ク

 ラスのみんなもその”いじめ”をエンターテインメントとして楽しんでいたのだろ

 う。


 ありがちな子供同士の戯れと軽く流すべきなのかもしれない。だがその犠牲者が、

 成人式や同窓会に一切姿を見せないことを知りつつも、上品なスーツに身を包み、

 笑顔を浮かべて談笑していることがどうにも許せないんだ。


 そんな奴が、順風満帆な人生を送り、のうのうと生きている。可笑しいだろ!


 なぜ、奴は幸せの絶頂に居て、僕は!」


 田原の怒号が部屋に響く。


「僕にとっての人生は、ただただ延々と辛いことが続くだけの拷問みたいなものだっ

 た。死んだら楽になれる。もう耐えなくてよくなると、思ってた。


 でもそんな勇気すら僕には無かった。


 そんな勇気があったらもっと早い段階でなにか、何か良い方向に行動出来てたと思

 う。そして僕はここまで来てしまった……


 名塚君に初めて会った日から、いろいろ考えた。そして僕は久々に、いや、初めて

 かも知れない。勇気を出して、自分で選んで、行動した。


 明日死ぬ自分が言うのもおかしいけど、久々に生きてる心地がしたんだ。綺麗事じ

 ゃない生の怒りの感情に従って、行動する。これが世間に狂気と映ろうが気にしな

 いよ。


 正義感とかじゃない。ただ単に僕の怒りの感情に従って行動する。そこにメッセー

 ジ性は求めて無いし、影響力も僕には関係無い。この世界の理不尽を構成する1パ

 ーツとしての本能を実行するにすぎないよ」


 皆が田原の話に耳を傾けていた。田原は「ありがとう」と一言残し部屋を出ていっ

た。リビングに残された我々は、無言のまましばし静寂に思いを巡らせた。



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