1-3 データアース


     ◆


 国連の超巨大なデータベースは、データアースとも呼ばれる。

「亡霊は最強の情報防壁だぜ」

 装備を次々と有機コードで繋ぎつつ、思わず言葉にしていた。

「俺も一度、不正アクセスしたが、死にかけたよ」

「なんだって?」

 自分の席で、接触端子の様子を確かめていたニールがこちらを振り返る。

「十年は前だよ。昔は劫火と呼ばれる防壁だった」

「なんでデータアースにアクセスしたんだ?」

「小遣い欲しさに、イラズラでね。大学を卒業したばかりで、会社員が退屈だったんだろう」

 ニールが呆れたように首を振る。

 事実、十年前、大学を卒業して、表向きはコンテンツライターとして真っ当な仕事をしていた頃、気まぐれでデータアースを攻撃したのだ。

 防壁をすり抜けた、と思った時には、情報迷路に組み込まれていて、脱出に手間取っているうちに、現実世界で生活していた古いアパートの部屋に並べておいた身代わり装置が、次々と崩壊した。

 最初の一撃で六台が弾けとび、さすがに必死になって逃げた。

 どうにかこうにか逃げ帰った時には、全身が冷や汗でぐっしょり濡れていた。現実ではほんの数秒なのに。

 ついでに身代わり装置が火を吹いていて、危うくアパートを燃やすところだった。

 十年を経て、そんな無様な真似はしないで済みそうだ。

 装置の準備が終わり、全部を起動させる。自分の席に座り、接触端子に触れる。

 思考に全部の周辺機器との接続状態がモニタリングされる。情報防壁が五台、身代わり装置は十五台が稼働状態。コンディションは問題ない。その他諸々、大掛かりだが、どこにも問題はない。

 テストで信号を流す。反応は上々。ここでも、どこも違和感はない。

 オーケー、万全だ。

「準備できたか? エドワード」

「こっちは問題ない。そっちはどうだ?」

「いつでも為替市場に介入できる。準備はできているよ」

 俺は意識的に深呼吸を繰り返し、肩の力を抜く。

 一度、接触端子から手を離し、指をほぐした。

「頼むぜ、リライター」

「じゃ、始めよう。ワイルドに、そしてスマートに」

 接触端子に十本の指を押し当て、目を閉じる。

 思考に情報が流れこんでくる。事前に設定した国連職員の偽装身分で個人認証をパス。

 国連の最大のデータの集合体、データアースへ接触。

 閲覧制限のない情報をすり抜け、不可侵領域に近づき、接続。

 パスワードを求められる。三重五連円筒暗号方式、というやたら長い名前の、複雑な鍵のパスを暴き出すために、超高速での計算が始まる。

 毎秒四○○アタック。計算を続行。

 はるか昔、第二次大戦でドイツ軍が使ったというエニグマを発展させたこの方式は、現代の超高速計算を弾き飛ばし続ける、最高の暗号方式とされる。それが今、俺の目の前にある暗号方式だった。

 コンテンツタイムがカウントされ、解読開始からシックスティ・セカンド。現実世界では一秒も経っていない。

 計算速度を上げる、毎秒四五〇アタック。脳がピリピリと焼ける錯覚。

 複雑な数列が次々と組み替えられ、速度比べになる。

 瞬間的に毎秒四八〇アタックまで加速。

 まだ足りない。限界の淵を覗き込むような心地で、毎秒五〇〇アタック。

 背筋が震える。寒気が遅れて走る。

 ガチリと一瞬で数字が定まり、ロックが解除された。

 目の前に巨大な情報の塊が現れる。素早く検索し、電子マネー評価指数を決めるための、国家に関する諸データに向かう。

 辿り着いた情報を書き換え始める。攻撃速度を調整しつつ、隠蔽も同時進行。

 見つかったら終わりだ。

「まずはイスラエルだ」

 俺の現実の言葉に、ニールが頷く気配。

 イスラエルは常に政情が安定しないし、経済も誤魔化しやすい。

 今頃、ニールは手持ちの電子マネーの一部を、暴落し始めたイスラエルの銘柄に置き換えているだろう。

「ポーランド、東カナダ、西ロシア、チュニジア、チリと行くぜ」

 やはり返事はない。

 銘柄を暴落させる一方で、どこかの国の国力を高く評価させ、暴騰する銘柄も作り出す。もちろん、イスラエルの電子マネーもすぐに急騰する。

 ニールは安い銘柄を買い、その銘柄が高騰すると売り抜ける、ということを今も、超高速でやっているだろう。

 この為替市場の銘柄の乗り換えが、前代未聞の儲けを生みつつあった。

 順調に進んでいるが、世界中の為替を監視している人間や人工知能は、そろそろ異常に気づくだろう。ニールがやりすぎなければいいんだが。

 現実時間で十五分が過ぎ、俺は一度、接触端子から手を離した。組んだプログラムが自動でデータアースを書き換え続けている。

 タバコが吸いたくなり、目を閉じて接触端子に触れているニールの懐から箱を拝借する。ライターも抜き取った。

 煙を吸い込み、吐く。

 自分が刑務所から出たという実感が、不意にやってくる。

 見ると、ニールは額に汗の粒を浮かばせ、汗の滴がこめかみや鼻筋を滑っている。

 俺はといえば、平然としている。その辺りに、俺が、リライターが、やや異質だと思う要素がある。

 さて、俺も仕事に戻るか。

 そう思った途端、それが起こった。

 身代わり装置が二つ、同時に吹っ飛ぶ。端末の上の立体映像では、俺の実行していた自動プログラムが焼き払われている。バラバラにされ、消滅。

 同時にこちらの装備が攻撃を受けている。実際には、俺のメイン端末だが、防御の装置が健気に耐えている段階。

 要は、緊急事態だった。

 素早く物理的に、壊れた身代わり装置を切り離し、予備の一つを接続。飛びつくように接触端子に指を当てる。

 意識が一瞬で情報空間に飛び込む。

 データアースが閉鎖モードになっている。俺のアカウントが拘束されつつある。

 防壁である亡霊からは、人間の限界を超える、人工知能水準の毎秒五〇〇アタックで攻撃を受けている。身代わり装置が二つ、さらに消失。こちらも毎秒四八〇アタックで拮抗、緩慢な後退。

 これは人間の思考速度の常識をはるかに超えているが、人工知能相手では形無しだ。

「ニール! ここまでだ、脱出するぞ!」

 声で話す余地はない、情報通信での呼びかけ。

 しかし、俺の隠蔽は完璧だったはずだ、どうなっている?

 視界を情報の全域に広げ、解読する。

 おいおい、データアースの一部が、為替市場の取引履歴を全速力で解読している。

 このままだと俺もニールも捕捉されてしまう。

「ニール、取引のデータをこちらへよこせ! 今すぐ!」

 罵り声をあげて、ニールが操作し、こちらへ奴が扱った電子マネーの取引データがやってくる。それを俺は素早く、自在に書き換えていく。

 思考が不意に別の事に及んだ。そもそも、どこでバレた?

 並列思考で、国連の情報攻撃への対処を受け持つ部署を走査。

 密告がある。どこからだ?

 最初の通報だ……。

 そこは、南米、ペルー……。

 その先を読んで、なるほど、と腑に落ちた。

 仕返ししてやる。

 俺はニールからやってきたデータの一部を強引に、超高速で無理やりに書き換え、その俺の作った為替の取引データをごっそり、データアースの管理部門の調査結果とすり替える。

 亡霊が出力を上げる。毎秒五五〇アタック。身代わり装置、一個を残して沈黙。まだ加速する。毎秒六八〇アタック。人間の意識を焼き払ってもお釣りの来る出力。

 直撃されれば一撃必殺で、逃げるが勝ち。

 脱出だ。

 撤退しつつ、追撃の攻撃を情報迷路に放り込み、もしくは鏡像防壁と呼ばれる相手の攻撃を反転する欺瞞で切り抜けた。現実時間では一秒しか稼げないが、それだけあれば十分。

 パッと接触端子から手を離すと、目の前の端末が煙を噴き上げ、接触端子が爆ぜて、ちょっとだけ宙に浮いた。

 椅子の背もたれに体重を預ける。

 とりあえずは、無事に帰れたらしい。

「なんてこった……」

 髪の毛をかき回しつつ、ニールも椅子の背もたれにぐったりと寄りかかる。服の袖で額を拭っている。気づくと俺も汗をかいていた。

「一時的には一千万ドルはあったぞ、それが全部、パー、か」

「そうでもないぜ」

 俺は咥えたままだったタバコから、危うく落ちそうになっていた灰を灰皿に落とし、新鮮な煙を吸った。ニールがこちらを見るのに、片方の眉を持ち上げてやる。

「金を避難させた。一部だがな。百二十万ドルだ」

「どこに避難させた? 追跡されないのか?」

「それは金を受け取った奴次第だ」

 わからんな、と言うニールに、俺は笑って見せた。

「金を回収に行くか」

「どこにある?」

 ペルーだよ、と俺が言うと、ニールは心底から不思議そうな顔をした。



(つづく)

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