5 秀才と凡才の差異

「さっ――咲傘さかさ!? もう帰ったはずじゃあ!?」


「忘れ物を捨てに帰ったのです。仮沢くんこそ、どうしてもう登校しているのですか?」


 坂佐井さかさい咲傘さかさは、平然と自分の席について机をごそごそと探った。目当てのものはすぐ見つかったようで、彼女は小さく「ありませんでした」と嬉しそうに呟いた。


 彼女が宝物のように見つめているのは、薄汚れた消しゴムだった。どうしてそんなものを――いや、思い出した。それは以前、僕が咲傘にあげた消しゴムだった。


「そんなものを取りに、わざわざ……?」


「忘れていませんか? 仮沢くん」


 咲傘は優しく微笑んで、僕の方に向き合った。小さな手に、ぎゅっと消しゴムを包み込んで。


「私が消しゴムを忘れて余裕ではなかったとき、あなたが奪ったものではありません。その時だけです。あなたは限定的に、私が余裕な時に手を引き戻してくれなかった」


 ええと、つまり、僕がいつも咲傘が困っているときに手を差し伸べていた、ということか。


「そんな立派なことじゃないよ……困っている人がいたら、力になりたいと思うのは普通だし」


 あわよくば、咲傘と親しくなれるかもしれないし――とは言わなかったけど。


「あなたにとっては異常でも、私にとっては普通なことではありませんでした。だから、いつも万人でどうにもしなくてもよかった」


「坂佐井……」


『そんな面倒くさい女と、誰が一緒にいられるかよ』と、勇嵩いさかさ先輩が言った通りだ。

 入学当初こそ、彼女の飛びぬけた才能に魅了され、多くの人が彼女に詰め寄った。クラスメイトだけでなく、他のクラス、あるいは上級生から教師まで、彼女の才能を褒め称え、あるいはその恩恵を授かろうとし、引き抜こうと画策する者までいた。中には、咲傘を利用しようと考える奴もいた。


 しかし、一か月もする頃には、彼女の傍には誰もいなくなった。言葉遣いに問題があるというだけで、誰もが咲傘を遠ざけるようになった。面倒くさいから会話を疎んだ。


 咲傘は一人ぼっちの才色兼備になった。


「万人でしたよ。だって、限定的にあなたが一人でいなかったから。この消しゴムはその証拠ではありません」


 咲傘がそっと微笑んでくれたのを、どう受け止めていいか分からなかった。

 確かに彼女の言葉は対義的に、僕への感謝を表していることは間違いない。

 

 だけど、この期に及んでも僕は、猜疑心がぬぐい切れなかった。


「仮沢くん。どうして限定的に、私の遠くにいないのですか?」


 真っすぐに僕を見つめる彼女の瞳すら、正面から受け止められない。なぜなら、


 もし咲傘が本当に僕を嫌っているのだとすれば、――、こうして慌てふためく様子をあざ笑うことこそが、彼女の目的であるかもしれないのだから。


「さ、咲傘――」


 なんだ? 何を言ったらいい? 何を信じたらいい? なにが正解で、どうするのが正しいんだ?


「僕は――」


 こんな時、咲傘だったらどうするだろう? 勇嵩先輩なら? 才媛なら、天才なら、こんな時にどうするだろう? 決まっている、見つけた答えに準じるだけだ。それができるから、彼らは僕とは違うのだ。


「……まだ駄目です、仮沢くん」


 それはあまりに突然のことだった。咲傘がすっ、と自分の席から立つと、黒板に向かった。そしておもむろにチョークを取って、すぅぅぅっと大きく吸った。


 そして――勢いよく書き殴る! 黒板が壊れてしまうほどに強く、強く、強く、さらに強く、もっと強く! そして、書きあがった文字にバン! と小さな手を叩きつけて、僕を見た。


 咲傘の頬には、ボロボロと涙が伝っていた。もはや才色兼備の面影もない、ボロボロの表情で。まっすぐに僕を見据えて、激しく息を切りながら。


「さ、咲傘……」


 どうにかしなければいけないのは分かっていた。しかし、僕が席を立つよりも早く、坂佐井は教室を出て行ってしまった。


 黒板には、ただ一言。


『どうして分かってくれないんですか!』とだけ書かれていた。

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