第2話 カエサルの遺言
ローマ軍は伝統的に、市民権を持つローマ市民による
ローマは、かつて幾度となくパルティア攻略を試みた。だがそれはことごとく失敗し、かの三頭政治の一角であったクラッススもこの戦役で命を落としている。
もはやローマ共和国においてパルティア進攻はタブーと言ってもよかった。
だがローマ市民は今回のパルティア遠征の成功を疑っていなかった。なぜなら、今次の遠征軍を率いるのは、あのカエサルだったからだ。
ガリアの大軍を何度も野戦で打ち破り、ついに広大なガリアをローマの属州とする事に成功したカエサルである。
だがそれゆえに、元老院内部からの彼に対する警戒と反感は大きかった。
ガリア戦役終結後、一部の議員が主導し、些細な落ち度によりカエサルを単身、元老院に召喚しようとした。議場において彼の権威を失墜させ、あわよくば断罪しようとしたのだ。
そんな元老院の姑息な陰謀を察知したカエサルは、軍を解散することなく、ローマへと向かった。
古来、ローマ郊外を流れるルビコン川を、軍を保持したまま越える事は許されていない。それはローマ共和国への重大な反逆と見なされるのだ。
「すでに賽は投げられた」
そう宣言したカエサルは麾下の軍団とともにルビコンを渡り、その軍事力を背景に国政の実権を握った。
名将ポンペイウスを擁した元老院の反カエサル派との内戦にも勝利し、ついにカエサルはローマの絶対権力者となった。
こうして、戦えば必ず勝つという不敗神話とともにカエサルは生きながら神格化されていった。必ずパルティアへの復仇を果たしてくれると、ローマ市民の誰もが信じたのも当然である。
ガイウスはその正規軍の一部と共に先発。ギリシャのアポロニアへ駐屯して、補助軍との演習に明け暮れていた。
勝利を確信しつつカエサル本隊の到着を待つ、そんなある日のことだった。
届いたのは、彼らが畏敬するカエサルが暗殺されたという凶報だった。
☆
「ガイウス、何をやっている。軍はもう暴動を起こす寸前だぞ。分かるだろ、これを鎮められるのはお前だけなんだ!」
扉の前で精悍な表情の若者が叫んでいた。
部屋の中では何か、もぞもぞと動く気配だけがあった。やがて、か細い声が聞こえて来た。
「分かってるよ、アグリッパ。でも、僕いま体調が悪くて……」
ちっ、とアグリッパは舌打ちした。
「ふざけるな、おまえの大伯父、カエサル閣下が殺されたんだ。暴動が変な方向に行ったらお前も危ないのだぞ!」
「だって……」
話にならん、とばかりにアグリッパは強引にドアを開けた。
「きゃっ」
小さな悲鳴とともに、下着姿の娘が服を抱えて走り出て行った。
「おい、ガイウス。今のはなんだ」
すうっと目を細め、アグリッパは訊いた。
「さ、さあ。仔猫ちゃん、じゃないかな」
ガイウスは端正ながら、どこか気弱げな表情で頭をかいた。
アグリッパは腰に手を当て天を仰いだ。まったく、このガイウスという男。軍事的な才能はさっぱりのくせに、こういう所だけはカエサルにそっくりだった。
「ほら、ネコって寒いと布団に入ってくるじゃないか。あれと同じだよ」
まだ言い訳している。アグリッパは自分の額に青筋が立つのが分かった。
「下着姿のネコがいるかっ。さっさと来い!」
「う、うう」
アグリッパはガイウスの首根っこを掴み、広場へ引き出した。
広場を埋めた兵士たちの視線は、壇上に立つガイウスに集中する。
「え、えーと」
ガイウスは困ったように目を泳がせた。
☆
カエサルの血縁ということで、軍内で一目置かれているガイウスだったが、実際の軍隊経験はまだまだ乏しい。
何度か小隊長として前線に出た事はあるけれども、その無能さは同行したアグリッパを嘆かせるに十分だった。
「お前は性格的に軍事に向かない。
以前、アグリッパは言ったことがある。この当時、軍人として無能な者がローマ政界で飛躍するのは難しい。文武を兼ね備える事が、元老院で最高指導者『執政官』として認められるための条件でもあったからだ。
するとガイウスは不思議そうな顔を彼に向けたのだ。
「何を言うんだ、アグリッパ。確かに僕は剣の持ち方も知らないし、敵味方を識別するのも苦手だよ。だから君がいるんじゃないか」
そうだな、アグリッパはため息をついた。
(俺も、別に好き好んでこいつの傍にいるんじゃないんだけどな……)
心の中で呟く。
アグリッパがまだ訓練兵だった頃、カエサルに呼ばれた日の事を彼は決して忘れない。
正式な軍装のカエサルの横には、自分と同じ年頃の、痩せて背の高い少年が立っていた。
「これはガイウス・オクタヴィアヌス。私の一族の者だ」
そう少年を紹介したあと、カエサルは彼に歩み寄り肩に手を置いた。
「この者を、生涯、援けてやってくれ。アグリッパ」
「なぜ私なのです、閣下」
感動に震えながら彼は問いかけた。自分はただの一兵士でしかないのに。
ふうん、とカエサルは首を捻った。
「なぜだろうな。だが私の勘は外れた事がないのだよ。……きっとお前はこのガイウスとともにローマを背負うことになるだろう」
何の疑いもない表情で、カエサルは彼に頷きかけたのだった。
「あの時のカエサル閣下は眩しかったな」
アグリッパは目を細めた。……あ、いや違うんです!
(生え際の後退したおでこが、という意味じゃないですからっ)
あわてて自分の中で訂正する。
☆
え、えへん。とガイウスは咳払いした。広場のざわめきは一層大きくなる。
アグリッパは気が気ではない。
「えー。ここに集まった戦友の諸君」
思いのほか低く、よく通る声でガイウスは話し始めた。
その瞬間、ぴたりとざわめきが止んだ。
「皆も知っての通り、我が大伯父ユリウス・カエサルはこの世を去った」
緊張感を伴った静寂が広場を包んだ。
誰もが彼の次の言葉を待っていた。このまま軍をローマへ向け、復讐に立ち上がるのだろう、誰もがそう思った。
「復讐はしない」
だが、ガイウスの言葉は全く意外なものだった。
「ローマは法治国家である。この暗殺者たちはローマ法によって裁かれるだろう。私はそれを信じる」
彼は一通の手紙を取り出した。
「これはカエサルが書き遺したもの、つまり遺言状の内容である」
ガイウスはそれを拡げ、兵たちに示した。
ローマにおいて、カエサルの死後すぐに彼の遺言状が公開された。そしてそれはつい昨日、ガイウスの許にも届けられたのだった。
それには、もちろん後継者の名が記されている。
『ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌス』
カエサルがガイウスを養子として迎え、自らの後継となす。そのためにユリウスの姓を与えるというものだ。
「ユリウス・カエサル……オクタヴィアヌス」
アグリッパは何度もその名前を呟いた。何故だか涙があふれ出て来た。そうか、昨日から部屋に引き籠っていたのはこの手紙が届いたからだったのか、アグリッパはやっと納得した。この男はずっと、どうすべきかを考え続けていたのだ。
女を連れ込んでいた意味は分からないにしても。
「私はローマへ戻り、カエサルの葬儀を主宰しなければならない。よってパルティア遠征軍は、ここで解散する」
宣言した後、ガイウスは早足で壇を降りた。
「じゃあ、ローマへ戻るよアグリッパ。一緒に来てくれるだろう?」
「もちろんだ。だって、お前は……」
放っておいたら道に迷って、インド辺りに辿り着きそうじゃないか。
ガイウスとアグリッパは旅装を整えると、揃ってギリシャを発った。目指すのは、反カエサル派が待ち構えるローマである。
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