人狼の帝国
杉浦ヒナタ
第1話 三月十五日の暗殺
アルバロンガの王族として生まれた双生児、ロムルスとレムス。
伝説によれば、まだ幼児であった彼らは、王位簒奪者によりテヴェレ川へと流された。凍え死ぬのを待つばかりであった彼らを救ったのは一頭の雌狼であったとされる。
狼はこの二人の幼児に乳を与え育んだ。
やがて彼らは成人し人間の世界へ戻った。そして軍を率いて簒奪者を追い、新たな王国を建設したのだという。
創始者の名を取り、その国の名は「ローマ」と名付けられた。
☆
その後、王国は拡大を続け、ついには地中海全域を支配する大帝国となる。
これが「古代ローマ帝国」である。
王国に語り伝えられている物語に謂う。
『狼の血を受け継ぎし者、必ずや国の王とならん』
これはロムルスとレムスの伝説を基にしたものである事は言うまでもない。
そして、これはのちにローマ帝国の初代皇帝となったアウグストゥスと、その姉オクタヴィアの物語でもあるのだった。
☆
半ば崩れかけた壁の隙間から冷たい風が吹き込んでくる。
姉と弟は身を寄せ合い、互いの身体を温めようとするが、間もなく冬を迎えようとする北イタリアの気候はそれを許さなかった。
暖炉の前には数本の薪が転がっている。だが、二人は暖炉に火を点そうとはしなかった。姉弟が部屋の隅で物陰に隠れているのは、寒さをしのぐのが目的ではなかったからだ。
「姉さま、……寒い」
少年は紫色の唇で呟くように言った。
薄い布を体に巻き付けているが、その下は
「我慢して、ガイウス。いま火を使ったら、追手に気付かれてしまう」
少女は弟の身体を抱きしめた。そういう少女の身体も
ローマは王政から共和政へと移行していた。統治の中心は、有力家門から選ばれた数百名が合議のうえ意思を決定する元老院である。
だがそれも現在では形骸化し、機能不全に陥っていた。その証が、市中で延々と続く内乱だった。
ローマの七つの丘に囲まれた王都では、主流派と反主流派が入れ替わりつつ、激しい抗争が続いている。連日のように処刑が行われ、その首が広場に晒された。
オクタヴィアたちが属する家門は現在、反主流派と目され、彼女らのような子供にまで厳しい追及が行われていた。
日が落ちると、山中は更に気温が下がった。
いつの間にか、ガイウスの身体の震えは止まっていた。どこか穏やかな表情で姉を見上げた。そっと目を閉じる。
「そうか……もう寝る時間だね……。お休み、姉さま」
「眠っては駄目、ガイウス。目を開けなさいっ!」
姉は慌てて少年の身体を揺さぶる。
「変だな、……姉さまは、いつもは早く寝なさいって、言うのに……」
弟は少し笑った。
「駄目よ……、お願いだから目を閉じないで」
「あれ。姉さま、何かが光ってる……」
少しだけ目を開けたガイウスが姉の胸元に目をやった。
「これは、まさか。……そうだ」
姉、オクタヴィアは長衣の結び目を緩め肩脱ぎになった。真っ白な肌と細い腕。だが少年の眼を捉えたのは鎖骨の下の膨らみだった。彼の知る母や他の大人の女たちと比べれば、まだまだささやかな丘の先端は、寒さの為だろう固く尖っている。
「姉さま、何を?」
思わず寒さも忘れ目を逸らそうとした少年の頭を、少女は押えた。
「見て」
「ど、どこをですか、姉さま」
オクタヴィアは長衣の襟元をもう少し横にずらす。そこで少年も気付いた。
「……光ってる」
少女の乳房の間に、逆三角形の紋章のようなものが浮かびあがり輝いていた。
「これは人狼の紋章。一族で、わたしだけが受け継いだ秘密の……」
そういうとオクタヴィアは弟の顔を、みずから裸の胸に押し当てた。
「ね、姉さま……」
開いたその口は姉の膨らみを咥えることになった。
「そのまま吸って」
少年は何かに操られるように、それを強く吸った。
「あ、……う、んっ」
オクタヴィアが小さく声をあげる。
次の瞬間、ガイウスの口腔の中に暖かなものが流れ込む。少年は赤ん坊のように呑み込んだ。それは決して母親の出す乳ではなかったが、優しくガイウスの体中に浸透していった。
「ああ。身体が暖かい」
ガイウスの頬に赤みがさした。寒さも少しだけ和らいだ気がする。
「姉さま、これはどうして?」
「分からないけど。こうしなさいと、声がしたの。……って、そんなに見ないで」
オクタヴィアは長衣を直すために襟に手をかける。
その繊手を少年の手が強く押えた。
「え、どうしたの。ガイウス」
咎める姉の唇を少年の唇が塞いだ。呼吸が早くなっている。
「僕だって分からない。だけど今はこうしなきゃいけないって、そんな気がするんだ」
ガイウスは姉の長衣の裾を捲りあげ、ほっそりとした両脚の間に身体を割り入れた。
「止めて、ガイウス!」
少女の押し殺した声は、鋭い悲鳴に変わる。
壊れた窓から差し込む月の光に、二人の吐息が白く反射した。
間もなく、二人は彼らの大伯父にあたる男に救出された。
名前をユリウス・カエサルという。
☆
カエサルとは後世アウグストゥスと並び、皇帝に与えられる称号になる。
ユリウス・カエサル。英語読みではジュリアス・シーザー。
この男がローマ帝国初代皇帝のように思われている節もあるが、彼は帝位に就いた事はない。
これは中国の三国時代で言えば、魏の曹操に当たるだろう。皇帝となったのは彼の嫡子の曹丕であり、曹操はその死後に武帝という
やがてローマは内乱の時代を乗り越え、カエサル、クラッススそしてポンペイウスによる第一次三頭政治の時代を迎える。
ローマ市中の不動産はすべてこの男の持ち物、とまで言われる桁違いの大富豪クラッスス。
跋扈していた地中海の海賊を撲滅した天才将軍ポンペイウス。彼はこの功績からポンペイウス・マーニュス(偉大なるポンペイウス)の称号を持っていた。
そんな二人に対してカエサルの評価は低い。というより壊滅的だった。
曰く、国家予算級の借金王。女たらし。(元老院の高官の妻女は多くカエサルに寝取られていたという噂もある)
政治的には大神祇官であったため、多少の影響力は持っていたが、およその所はその他二人の調整役と思われていたのではないだろうか。
そのカエサルがこの数年後、クラッスス亡き後、ポンペイウスを下しローマの「第一人者」になるのである。これにはガリア(現フランス、ベルギー付近)地方の征討により莫大な資産を得た事が大きいだろう。
(このガリア戦役については、カエサル自著『ガリア戦記』に詳しい)
カエサルの急速な台頭に不安を抱いた元老院議員が多かったのも不思議ではない。
「カエサルは元老院体制を解体し、かつての王政に戻そうとしているのだ」
そう周囲に説きまわり、カエサル排除の陰謀がめぐらされた。
共和制ローマにおいて、王制への回帰は絶対に認められない事だった。
☆
紀元前 四四年 三月 十五日
元老院議会が行われる「ポンペイウス議事堂」において、カエサルは暗殺された。短剣を手にした十人以上の元老院議員や配下の軍人に襲われたのだ。
「ブルータス、お前もか」
とは、カエサルの最期の言葉として有名である。それはカエサルの恋人の息子だったマルクス・ブルータスだとも、信頼する部下だったデキムス・ブルータスの事だとも言われるが、今となっては定かではない。
だがこれによって、オクタヴィアとガイウスの姉弟は突然、最大の保護者を失う事になった。
そして指導者を失ったローマ共和国も、再び内乱の雲に覆われようとしていた。
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