第4話
「しくじったわ。池に落ちるなんて」
臍を噛みながら、倭は廊下を歩いていた。今日は非番で、倭は部屋を出て庭を――というよりは屋外の野山を――散策していた。和泉は出勤しており、流石に会うことはかなわない。
オイドクシアの部屋の外庭、そこを流れる細い滝の裏に窪みを見つけたのは、以前の非番での散策中だった。そのときは刻限が迫っていたので、その奥を確認するまでには至らなかった――しかし見たのだ、しとどに濡れた岩肌と木葉の奥、暗く落ちくぼんだ陰の先に小さく、けれども確かに白い陽の光があったのを。
(秘密の園ね……いつか、行ってみたいわ)
誰にも知られない一人きりの場所。そんなところでほっと息をつきたいと思うたび、倭は変な思いに苛まれる。
——だって、ここへ来たのは、和泉を追いかけてきたのは、誰でもない倭自身の意思だったというのに——。
同僚であるものの、倭とオイドクシアの部屋は近くはなかった。水分を含んで重くなった布を頭の上から垂らしながら、倭はとぼとぼと自室へ向かう。物思いに耽ったまま、部屋を出てまっすぐの廊下を通り抜け、階段を降りて別の棟に入った。
回廊を一度折れると、兵舎となっている建物全体の正面玄関にあたる。建物の中央にこしらえられた部屋の前を通り過ぎようとしたとき、多くの人が部屋の中で塊となって騒いでいることに気づき、倭はふとそちらを覗きこんだ。
「今度も紅だ」
「俺は白だよ。今までずっと紅だったのになぁ」
「レーヌは誰だ?」
壁の一箇所を見つめながら口々に言っているのは、倭よりも先輩の儀仗兵たちだ。訓練を終えてきたあとなのだろう、近寄ると熱気と汗の匂いがした。その中に和泉の姿がないことに消沈しつつ、倭も気になるまま人だかりに混じる。
周囲の者たちは倭とほぼ同い年とはいえ、儀仗に選ばれるだけあって上背があった。倭は少しばかり爪先を使いながら前へにじり出る。
「第三十二回……紅白攻守戦……」
倭は壁に貼られた紙の文字をそのまま読む。見ただけではよくわからない文言だ。いつもと同じ訓練の一つのようなのに、先輩達は確かにこれを見て騒いでいる。
「あ、おい和泉」
誰かがそう口にして、倭は思わず振り向いた。目線の先で一人の兵士が、彼もまたこちらを変に見つめている。
「レーヌ、あれお前の弟だろ?」
彼は倭を見つめたままそう言った。周りからも、倭のほうこそ見ないものの「木賀倭って書いてあるもんな」と同意のような声が続く。
倭は何も言わないままぱちくりと目をしばたかせて、もう一度壁に向きなおった。とっくりと紙を見ていくと、下の方に長く文字列が続いている。すぐにそれが全て人の名だとわかった。紅、白、と大きく二つにくくられて書かれる名前のさらに下に、ぽつねんと、枠組みに属さないものが一つある。
——レーヌ・木賀倭。
「いいよなぁ。レーヌになれば訓練はナシだ」
「ばか言え、一番見込みなしってことだぞ」
「よかった。これで三年間全部レーヌは回避できたんだ」
ぼやきはざわめきの中に消えていき、そうして倭の――彼らからすれば和泉の――ことを気にする者はいなくなった。これからの特別練習がどうとか、攻守どちらになるかだとか、のんびりと言い合う兵士らの間をゆっくりと抜けて、倭は踵を返す。
足早に廊下を進んでいって、気づけば和泉の部屋の前だった。扉を開けようとし、ガチ、と堅い施錠に妨げられて足もとから崩れ落ちる。
「……なんで……」
どうしてこんなに苦しくなるのかがわからない。自分が和泉の弟であることも、自分の技能が長けていないことも、全部正しい。彼らの言うことは合っている。それでも恐ろしい。あの場にいたのがもし本当に和泉だったら。和泉は何と言ってくれたのだろう。こんなこと、何も言えなかった自分が思うなんて、違っているはずなのに。
倭は、自分の体が男であることに感謝したことさえある。それが本当に厭で、それでも確かに心の底から思ってしまう。
――もし自分が男でなかったら、和泉の近くにいることすら叶わなかったんだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます