第2話

「矢を三本取ったら戻る! 三本ですよ、戻ったらすぐ弓につがえなさい!」


 高い声が秋晴れに突き抜けて、訓練場を取り巻く背の高い木々の向こうで何羽かの鳥が飛び立った。

 ガザニア山には平坦な二つの頂があり、そのうち西の高いほうにはアングレカム武術学校が、東の低いほうには小さな湖がある。西麓のゆったりとした斜面には、大都からまっすぐ繋がる一番街道終着の都市が広がり、穏やかな西日をよく受け、静かで平穏なその街は「常葉とこは」と呼ばれていた。いっぽう東麓の斜面は急峻で、時折広がる平坦な土地に館を築き、その館を道や廊下で繋げて整備したのがガザニア宮殿と呼ばれる離宮だった。

 王族が立ち入らない間も広範囲に広がる離宮に常駐し、その美しさを保つのが儀仗第二訓練隊の役目でもある。しかし、主たる職分はやはり兵務であるため、日々の訓練も欠かせない。今はちょうどその訓練の時間で、ひし形に似た競技場に訓練兵が五対五で分かれ、短距離弓術訓練の一種である試合を行なっている最中だった。


「弓を引くときは体をしならせる! もっと引いて、矢は背中で撃つのですよ——こらそこ、ちゃんと撃ち合いなさい!」


 やじりに綿をつけ衝撃を格段に減らした矢を撃ち合い、撃たれた者は退がるという単純な殲滅戦だが、攻撃にはいちいち弓を引かなければならないので体力が要る。中央の陣地線を挟んで至近距離で睨み合いながら密かに休息を取っていた二人は、教官の鋭い指摘に慌てて矢を放った。

 ちょうどそのとき、カン! と別のほうから鋭い音がする。弾いたかな、見込みのあるやつかもしれない、と和泉いずみはそちらを見やった。


「レーヌか……」


 弓ではじいたばかりの矢をつがえるのは、赤い上衣を腰で締めた女王レーヌと呼ばれる陣営の主将だ。防具で覆われた顔はよくわからないが、すらりと細長い手足が印象的な細腰の兵士だった。女王レーヌはそのままぐんと弓を引き、放つ。矢が宙を突き抜けて、避けようとした敵方の腕に当たった。


「当たり!」


 撃たれた兵が手を挙げて叫ぶ。同じ陣営の者が落胆したような声を上げて、ひらりと手を挙げた。


「白、女王レーヌ取られました」

「——試合終了! 整列!」


 撃たれたのが確かに女王レーヌだと確認して、和泉は号令を出す。


女王レーヌ撃破により赤の勝ち! 訓練は一旦ここまで。休憩にします」


 やった、と潜められた声を聞きながら、和泉は訓練場を出て岩陰に向かう。置いてあった竹筒から水を飲んで、ふと木陰へ向かっていく影を認め、そちらへ足を向かせた。


「けっこう疲れたでしょう」


 木陰に座り、ふぅ、と息をついて防具を取った赤の女王レーヌに、竹筒を差し出す。


「……ありがとうございます」


 呟いて受け取ったのは、茶髪とそばかすが目立つ女だった。やまとちゃんと一緒に入ってきた子だ、とそのとき認識する。


「名前はなんていうんだっけ?」

「クレベール……オイドクシア」


 女にしては低い、ぶっきらぼうな声だった。それが姓の響きに似合わなくて和泉は片目を閉じる。新入兵はそんな和泉を一度も見上げることはなく、ただぼうっと目の前の地面を見ているようだった。

 結局和泉は「そう」とだけうなずいて、竹筒を受け取り踵を返す。ほぼ空になったそれに眉をはね上げていると、「木賀きがやまと下等武民のこと」と背後で新入兵が呟いた。


「追い返さないんですか」

「……なに?」


 和泉は首だけ振り向かせて女を見る。相変わらず彼女はこちらを見なかった。


「合いませんよ。いくら身体が男だからって」

「……そうかもしれないね」


 和泉はほほえんで、前に向き直る。まだ青々と茂る草を踏みながら、地面に落とすようにつぶやいた。


「でも君には関係ないことだ」




 訓練を終え、夕餉の時間までに着替えを済まそうと自室の扉を開けた瞬間、ぼすんと首元に何かが突進してくる。

 何か見なくてもわかるなぁと思いつつ、閉じていた目を開けると、首に抱きついていた倭が今度は勢いよく離れて手をぎゅうと握った。


「お兄ちゃん!」

「やまとちゃん」

「訓練お疲れさま! あの、今日は楊梅やまももの宮のお掃除をしたのよ、そうしたら、きれいな栞が落ちていて、きっと誰かの落とし物だろうし構わないってね、キース上等武民がくださってね」


 ぱあぁと頬を紅潮させてまくしたてる倭はかわいい。「栞?」和泉が聞いてやると、倭は懐から大事そうに手拭いで包んだ細いものを取り出した。


「これなの。かわいらしいでしょう」


 手拭いを払って現れたそれは、白い菊を押し花にして作られた栞だった。押し花であるためやや稚拙には見えるが、栞の周囲を縁取る金の透かし彫りはどうしても精巧に作られた品に他ならない。きっと高価なものだろうに、キース上武は適当だなと思いながらも、倭のうれしそうな顔を前にそんな邪念は吹き飛んだ。


「うん……すごく綺麗だ。よかったね、やまとちゃん」

「うふふ。早くお兄ちゃんに見せたかったの」

「だからって兄ちゃんの部屋で待つのはいけないよ。勝手に先輩の部屋に入ってるって、見られたらどうするの」

「だって、先輩だとかの前に兄妹だもの。大丈夫だわ」

「ここは軍隊だから、関係ないんだよ。みんなやまとちゃんを一人の兵士だと思って見てるし、僕も軍隊にいる間はそう見なきゃいけない。妹としてじゃなくて」

「そうなの……」


 倭は沈んだように言うが、その顔にはそれほど消沈した様子がない。おおかた妹として見ないという和泉の台詞に歓喜しているのだろう。

 ——あたりまえだ。なぜならやまとちゃんは、双子の兄である僕のことを大好きなんだから。

 兄妹じゃなければもっと楽なのにって、ずっと言っていた。だからこそこの環境は、倭にとって心底うれしいはずだ。


(……そしてそれは、僕も同じ)


 なんでも顔に出ちゃうやまとちゃんはかわいいなぁと思いながら、そんな気持ちなど一切出さないように和泉は自然な微笑みを貼りつけていた。

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