神様の時間

杪図南-Suwae Tonan

第1話

 やまとは雲を眺めていた。天上を白く覆う雲は厚く、東の空へ垂れかかっている。白と灰、そして青の冷たいばかりの色に混じりながら、雲は遠く切り立つ山の岩肌へと姿を変え、その下にはうっすらとみどりが続く。

 きっと山の向こうでは朝日が昇っているのだろう。しかし高く遠く天を突く山脈に東を阻まれたこの地では、日が昇るまでにはまだもうしばらくかかる。


「神様の時間というらしいですね」


 高くもなく、低くもない声が、宙に向かって伸びていく。


「朝日が昇らないので、人々はまだ休む時間。だからこの時間の世界を知っているのは、神様と——すこし悪い人間だけ」

木賀下武きがかぶ


 低い声が真後ろからかけられる。

 人がのんびりしているのに、と心の中で軽く悪態をついて、「わかっています」そうとだけ返して振り向いた。


「神様しか知ってはいけない時間。素敵じゃありませんか?」

「……時間ですよ」


 憮然とした顔で佇むばかりの同僚に、倭はふと笑み溢れた。


「はい、ちゃんと行きます」

「では」


 倭が言うなりさっさと踵を返して大股に歩き始める兵士に、倭はなおも苦笑してから一歩を踏み出した。心地よい風が平野を吹き抜けて、倭は鉄帽を外す。その下から現れた髪は黒く長い。




       *




「新入り? あぁ、もうそんな時期か」

「今年は二人だって。武術学校と士官学校のがさ。まあいちだんと少ないことだ」

「僻地だからしょうがないね」


 朝の兵舎は、大抵時間に追われる兵士たちの慌ただしく駆け回る足音が響いているものだが、ここガザニア県にある儀仗第二訓練隊は違っていた。国の北東に位置し、面するものは東に山脈、西に街道、北に海、南に森。県の中心部にそびえるガザニア山の一角に小さな離宮があって、儀仗隊の訓練兵たちはその離宮に駐屯しながら宮廷儀礼を身につけたり訓練に励んだりするのだ。

 和泉いずみは武術学校に在籍しながら、一昨年十四歳で儀仗兵の訓練隊に配属された。見目がよく、文武ともにある程度の好成績だったため選ばれたのだった。規定通り今年三年目の任期を終えれば、訓練隊を卒業し三等武官に任官されて王都で本格的に業務を行うことになる。ただ、卒業するまでは駐屯地も、大まかな任務もとくに変わらないと知っていたため、和泉もとくに気を張ることもなくいつも通りに朝食を済ませた。


「——朝食中失礼します!」


 和泉の同僚が食堂に入ってくる。和泉はカトラリーを置きながら、あぁ、あいつ新入兵の世話係になったのかな、とその細面に目を遣った。同僚の視線もこちらを捉え、その瞬間ぎょっと見開かれる。


(……人の顔を見て失礼なやつだな)


 そう思いながら見つめた同僚は、眉根を寄せまるで困惑したような表情で和泉から視線を逸らしていた。正面まで来ると、姿勢を正し、咳払いをしてから口を開く。


「新入兵の紹介をさせていただきます! ——入れ!」


 室内がざわめいて、和泉はやっと同僚から目を離した。入室してくる、女と男。その男の方に見覚えがある。ざわめく同僚や後輩が、部屋の中を見回し、和泉に目を留めると驚いたようにまた正面を振り返る。

 ただ、和泉だけは目が離せなかった。正面まで来てぴしりと姿勢を正し、僅かに口角を上げて前を見据える顔を。——自分と瓜二つの美しい顔を。


「……やまとちゃん……?」


 喉に引っかかって掠れた声が、ぽつりとこぼれ落ちた。

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