第5話「異変」
翌日から通常授業が始まった。一限目から古典だ。案の定生徒達は眉を垂れ下げた。石井先生は新品の教科書を段ボールから出し、教壇に置く。やけに分厚い。三年生となると、学ぶことも格段に多くなるらしい。
「いつまでも貰ってばかりと思わないように。大学に出たら、教科書代は自分達で出さないとダメだぞ~」
石井先生の何気ない発言に、伊織は考え込む。卒業後の進路……自分は一体どこを目指すべきなのか。未だに答えは見出だせていない。そもそも、学校生活自体生きた心地がまるでしていないというのに、進路のことを考える余裕なんて生まれるはずもない。
「さてと……あっ、青樹さんは今日休みか」
ハルの席に教科書の束を置こうとした石井先生の手が止まる。伊織もハルが座っていない空席の存在に気がつく。いきなり転校初日の翌日から欠席とは、何か余程の用事でもあるのだろうか。
伊織は昨日の彼女オドオドとした様子と、何か関係があるような気がした。色々心に引っかかることがあるが、何とか一日の授業に意識を向けた。
翌日、ハルの席はまたもや空席となっていた。今日もハルは学校を休んだのだ。
「また青樹さん休みだよ。あの人一体何なんだろう?」
「私初日に話しかけてみたんだけど、あの人なんか全然話に乗り気じゃないように感じたからつまらなかった」
「このまま不登校になるんじゃない?(笑)」
「かもね~、そのまま不登校系YouTuberになったりして(笑)」
「何それ、今年もそういうのがトレンドになんの?(笑)」
女子の間で黒い話がささやかれていた。そして翌日も、そのまた翌日も、やはりハルが学校に来ることはなく、この一週間初日以外の日にハルの席に人が座られることはなかった。
「結局初日以外来なかったわね、あの子」
「うん。なんか心配だ……」
伊織と麻衣子は下校の支度を終え、教室を出た。廊下に出ると、何やら騒がしい声が二人の耳に飛び込んできた。
「先生! 俺に体育委員をやらせてください!」
廊下では一人の男子が、石井先生と立ち話をしていた。
「役員決めは来週だよ。その時に言いな」
「でも、今のうちに予約しておかないとダメなんすよ!」
「何をそんなに慌ててるんだい?」
「体育委員って思ったより人気なんすよ!」
自分を体育委員に指名にするよう頼んでいるのは、伊織のクラスメイトだった。伊織はすぐさま気がついた。
「出男君じゃん。どうしたの?」
気合出男……何度読んでも衝撃を覚える名前だ。彼は早くもクラスのムードメーカーとなりつつあった。運動が大好きな彼は、3年2組の体育委員に自分を指名するよう、石井先生に頭を下げているところだ。
「伊織か。お前からも頼んでくれよ! 俺、どうしても体育委員になりてぇんだ」
「うーん……」
「ダメよ。体育委員になるのは私なんだから」
厄介なことに話に首を突っ込み、更にややこしくしてくる麻衣子。
「ちょっと麻衣子……」
「おい鶴宮、そこは一緒に頼んでくれるところだろ!」
「私だって体育委員になりたいもの!」
「お前は去年やってただろ! 俺は去年決める時に風邪で休んでたから、できなかったんだよ!」
麻衣子は二年間の体育委員経験を経て、すっかり自クラスを勝利へ導くリーダーに目覚めた。高校生活最後の一年も、体育委員として悔いのない活躍をしたいと渇望いるようだ。
「ふん♪ 委員たるもの、運も味方につけなきゃダメなのよ」
「何だよそれ……とにかく、今年は俺に譲ってくれよ! 俺は今年の球技大会や体育大会に全力をかけて(うるさいので以下略)……」
「嫌よ! 私だって運動イベントに命懸けてんのよ! これが私の生き様で(やかましいので以下略)……」
二人の言い争いが無駄にヒートアップしていく。伊織と石井先生は燃え盛る空気に耐えられず、その場から逃げるように……いや、「ように」ではなく、逃げた。二人の熱に取り込まれぬよう避難した。
「はぁ……はぁ……心から青春しようとしてるのはいいんだけど、付き合ってられないよ」
「ですね……」
伊織と石井先生は職員室前まで逃げてきた。三年生の昇降口も近い。伊織はもうこのまま一人で帰ってしまおうと考えた。
「あ、そうだ伊織君」
石井先生が伊織を呼び止めた。伊織は彼女の方へ足を向け直した。
「はい?」
「君に頼みがあるんだけど」
石井先生は肩にかけたトートバッグに手を入れて漁る。ここに来て一体何の用だろう。
「頼み?」
「これを青樹ハルさんの家まで届けてくれないかな?」
ハルの名前が口に出た。伊織は身構える。石井先生はトートバッグから、何枚かのプリントの束を取り出した。ハルがずっと欠席していたため、この一週間で彼女に配る分の学級通信などのプリント類が、たくさん溜まっているのだ。
「いいですけど……どうして僕に?」
当然伊織には自分が頼まれる理由がまるで分からない。数ある3年2組の生徒の中から、なぜわざわざ自分を選んだのだろうか。
自分はまだハルと会話したこともない。彼女に積極的に話しかけに行った女子にでも、頼めばいいのではないか。自分よりかは少しはハルと交流がある女子に、異性である自分よりかは同性である女子に。伊織はそんなことを考えていた。
「ん~? まぁその場の成り行きさ」
「えぇ……」
確固とした理由などなかった。ただ単に同じクラスの生徒に頼もうとした時、偶然そばにいた者が伊織だったからのようだ。
「本当は自分で行こうと思ったんだが、今日は職員会議とか色々用事があって忙しいからね。だから頼まれてくれよ」
「まぁ、いいですけど」
伊織は渋々とプリントの束を受け取り、自分の学校鞄の中にあるファイルに入れる。彼は気が弱いため、頼み事を断れない。断る理由を探す前に、勝手に手が伸びて依頼を承ってしまうのだ。
「ありがとう」
石井先生は職員室の扉に手をかける。むしろ掴み所のない性格をした彼女だからこそ、頼みを断りにくいというものだろう。
「あ、そうだ」
石井先生は最後に何かを思い出し、伊織ににやつきながら一言添える。
「この機会に、彼女と友達になれるかもしれないね♪」
「え?」
バタンッ
職員室の扉が閉められた。伊織はその場で固まり、2,3分程動けないでいた。この頼み事は、ハルと距離を近づける最大の好機だという。
「友達……」
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