第5章「白紙の手帳」その11


「ただいま」



お腹をすかせた僕に出迎える人など当然いるはずもなく、



それどころか「おかえり」の返事さえ聞こえてこない。



誰もいないのかと思ったが、鍵が開いていたのでその可能性はなかった。



それにニュースのコメンテーターが何かを解説している声が聞こえてくる。



これで誰もいなかった場合、



僕は今日枕を高くして寝ることは到底不可能だろう。



廊下をわたり、誰かがいることを心から願いながら僕は引き戸をそっと引いた。




母でも父でもない人物がリビングにいた。



僕の妹、羽塚彩(はねづかさい)だ。



今年中学三年生であり、受験生でもある。



それなのに今はテレビを見ている真っ最中のようだ。



ちなみに僕は去年、受験生だった時にはテレビを見ていると、母親に注意された。



それなのに妹にはテレビを見ていようが、ゲームをしていようが



何のおとがめもないのだ。



これは僕よりも妹の方が可愛く見えるからだろうか。



しかし、僕は妹を可愛いと思ったことは一度もない。



それは子への愛情が少し偏りがあるのではないか、



という父と母に対するわずかな不満と



それをいいことに僕への口調が兄という年長者に対するものとは思えないほど、



辛口なのが、僕を妹嫌いにさせる大きな要素だ。





「お前、来年、僕の高校に受験するんだってな」



だからこそ、僕もこういう風についつい喧嘩腰に話しかけてしまう。



妹は帰宅してきた僕を一度も見ていなかったのに、



僕が言葉を発した瞬間、顔をこわばらせ、



「ハァ?その高校に通っているからって自分の所有物みたいに話しているの?」



ほれ見たことか、いや言ったことか。



年長者を敬うという考えを教わらなかったか、いや知らないらしい。



この通り、僕らはつねに戦争状態なのだ。



同じ屋根の下で暮らす限り、休戦することはありえない。



戦火を鎮める方法はただ一つ、それは人類が知恵と経験を積み重ね、



自らのプライドをバッキバキにへし折ることで成し得る偉大な行為だ。



僕は大きく息を吐き、姿勢をただした。



「悪かった」



そう、謝ることだ。



それもただ謝るだけではない。



気持ちがこもっていないと気づかれないように、



姿勢をただし、今にも泣きそうな顔をする。



僕はこれでどんな困難も乗り越えてきた。





妹は呆れたのか、こわばっていた顔がゆるみ、



別の要件を思い出したようだった。



「言い忘れてたけど、去年の過去問渡してくれない?」



「悪い、とうの昔に捨てたんだ」



あきらかに不機嫌になっていたが、



それを無視して僕は二階へとかけあがった。



僕はあえて捨てたことにした自分を情けなくは感じなかった。



それは今、かけあがっていたからもしれない。

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