プロローグ

プロローグ

 ずいぶん遠くまで走った気がする。スマートフォンの位置情報は荒川区、表示された住所も景色もまったく知らない場所だった。

途中で寄ったコンビニで購入したメロンソーダは自転車の振動で泡立っていて、蓋を空ければ爆発を起こしそうだ。


明日も明後日も休みだからできる夜のサイクリングは帰宅が何時になっても、帰らなくても何も言われない。

少女は姿は見えても実在しない、幽霊も同然の存在だから。


 日付が変わって間もなく1時間。辺りにあるのは鉄塔と古いアパートとさびれた工場、そして空き地。東京もここまで来れば地方と大差ないのかもしれない。


もっとも地方暮らしの経験がない少女には本当の現実はわからない。少女が以前住んでいた街は二十三区外ながらも新宿駅まで電車で15分程度で行ける場所にあり、少女は物流の面でも交通の面でも不便の経験がなかった。


 でもここにはえるものはひとつもない。

せっかくだから未開封のメロンソーダを空にかざしてスマートフォンのカメラを向けた。シャッター音とフラッシュの後に表示された写真は映えとは無縁の闇に浮かぶただのペットボトル。やっぱりここにキラキラはない。


蓋を回すと予想通り、発泡音と同時にシュワシュワと泡が溢れてくる。

服が濡れないように手に持つペットボトルと身体の距離を少し離す。ポタポタと溢れたメロンソーダはアスファルトに飲ませて、生き残った分を少女は飲み込んだ。

鼻に近付いた手はメロンソーダの匂いがする。この甘い匂いは幼い頃の風呂上がりの匂いに似ていた。


 夏の夜の生暖かい風が額に張り付いた前髪を揺らす。

どこかで話し声がした。こんな夜中のこんな映えない場所に誰かいるのか?


自転車をその場に置いて少女は歩き始めた。ペダルに散々いじめられた脚はなまりをくくりつけているように重たく疲れていたが、心に生まれた小さな好奇心が少女の歩を速くさせる。


 話し声は工場から聞こえた。少女が歩く細道に沿ってコンクリートの塀があり、工場は塀の向こう側だ。


 途中で塀は姿を消した。代わりに背の高い雑草に覆われた簡素な門扉が闇の中で口を半分開けている。

少女の目の高さと同じくらいの鉄門はサビだらけだ。触れるとざらざらとして、手に鉄の臭いが染み付いた。

さっきのメロンソーダの匂いの方がマシに思える。


話し声はもう聞こえなかった。

聞こえたのは何かが弾ける音。

メロンソーダの音に似ている。

見えたのは真っ黒な男の背中。


 門越しに少女と男、二人の視線が交わった。真っ黒な男は真っ黒な塊を手にしている。

それは少女が生まれて初めて目にした本物の拳銃だった。



プロローグ END

→Act1.玉響と幽霊 に続く

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