2-10

 赤坂駅に到着して帰路を辿る美夜は赤坂二丁目と六丁目の狭間の傾斜道に入った。

緩やかな登り坂の途中には行き付けのイタリア料理店mughettoムゲットがあるが、夕食はコンビニのパンで済ませてしまった。

それにラストオーダーが近い今から入っては園美達の迷惑になる。


 ムゲットが入るビルの前を通過しようとした時、ビルの地下から男が這い出てきた。

暗闇に浮かぶ男の横顔に見覚えがある。奇しくもまた雨の日。

前に会ったあの日も春の雨が降っていた。


「あの……! 4月の夜にムゲットで相席になった者です。覚えていますか?」


 いつか会えると期待していた心が外に漏れた瞬間、男に声をかけていた。木崎愁は傘の隙間から美夜を数秒見つめ、表情を変えずに口を開いた。


『……多分』


二人ともそれ以上言葉が続かない。赤い傘の女と黒い傘の男は顔を見合わせたまま沈黙していた。

先に動いたのは愁だ。


『酒飲める?』

たしなむ程度には」

『今から付き合って』


 アスファルトを打ち付ける雨に紛れて聞こえる彼の声が不思議と心地いい。導かれるように先ほど歩いてきた傾斜道を今度は下り、先を歩く愁が赤坂氷川公園の交差点を右折した。


 愁の足が止まった場所はデンタルクリニックやオフィスが入る七階建ての雑居ビル。ビルの看板には地下一階にBarの表示がある。

地下から現れた男はまた地下に潜っていく。美夜も彼の後を追って地下に続く階段を降りた。


 誘われたバーはまるで洞窟だ。照明を暗く落とした店内のそこかしこに並ぶ赤色に色付くランプ、見た目や質感を岩に似せた壁と天井に囲まれている。


客は数名。独りで飲む女もいれば男の二人組もいる。カップルと思われる男女は人目もはばからず顔を寄せて見つめ合っていた。


 迷いのない歩みで愁は店内最奥のソファー席に腰を降ろした。美夜は彼と少し間隔を空けてソファーの端に自分の居場所を確保した。


 この男が何を考えているのか全く読めない。

たった一度相席になっただけの初対面に近い女をバーに誘う男の考えなどわかるわけがない。

でもそれなら美夜も、偶然相席になった男になぜ声をかけたのだろう。


 美夜はホーセズネック、愁はグランドスラムを注文した。彼女は酒の種類や味にこだわりはないが、理性を奪う強すぎる酒は選ばないようにしている。


『そういや、名前……』

「神田美夜です。神田川の神田に美しい夜」

『神田川と月夜か。名付けた人間も風流な名前を付けたものだな』


 名前は父方の祖父が名付けた。その亡き祖父との穏やかな思い出も今となっては忌まわしい記憶に感じられて、思い出したくもない。


美夜が母方の神田姓になったのは両親が離婚した二十歳の時。それまでは父方の姓の松本を名乗っていた。

松本美夜の名も人生も8年前に捨てている。


「そちらは木崎……」

『愁。シュウは哀愁の愁。秋生まれでもないのに秋の心だ。風流もクソもない』


 秋の心と名付けられた男の誕生日は秋ではないらしい。


『どうして俺の苗字を知っていた?』

「オーナーの奥さんの園美さんから教えてもらいました。よく予約をされるお客さんの名前は覚えているみたいですよ」

『ああ、そう』


 返ってきた言葉は気のない返事。自己紹介の会話が途切れた頃にバーテンが2つのカクテルを運んできた。


ホーセズネックとグランドスラムのグラスを軽く合わせて乾杯する。

ホーセズネックにはレモンの皮がグラスに入っている。ホーセズネックとは馬の首のこと。グラスにかけたレモンの皮が馬の首に見えたことから名がついたカクテルだ。


「お仕事はなにを?」

『ただのサラリーマン。そっちは?』

「ただの……公務員です」


 迂闊に警察の身分は明かせない。警視庁捜査一課の刑事のみに与えられるバッジも勤務時間外は外していた。


「ご出身は?」

『見合いみたいだな。見合いしたことねぇけど』

「私もしたことありません」


愁の言う通りこれでは見合いだ。初対面に近い男とこんな地下に潜ったバーで酒を飲みながらする適当な話題が思い付かない。


『生まれも育ちも東京。そっちは?』

「地元は埼玉のわらび市です」

『蕨市か。昔、仕事で川口に行ったついでに寄ったことがある。その一度きりだが』

「小さい街でしょう?」

『ああ。駅の近くに陸橋があったな』


 陸橋の単語にドクンと美夜の心臓が反応した。蕨駅の近くには川口蕨陸橋と呼ばれる陸橋がある。

10年前の3月29日、そこで殺人事件が起きた。


『どうした?』

「……いえ。駅前のファミレスでよく勉強したなぁって思い出していたんです」


美夜が同級生を見殺しにした瞬間を陸橋の上から見ていた人間がいる。あの黒い傘の男だけが美夜の本性を知る唯一の人間だ。


 ホーセズネックのグラスをテーブルに戻したタイミングで美夜の頬に愁の手が触れた。驚く美夜に構わずに愁は顔を近付ける。

唇と唇が触れる数秒前に彼女は愁の顔をかわしてうつむいた。


「いきなり何を……」

『なんだ。そのつもりじゃないのか?』

「自惚れないでください」

『女から声かけてくるなら、目的はこれしかないだろ?』


愁は肩を震わせて笑っている。キスを拒まれて不機嫌になるどころか彼は美夜の反応を面白がっているようだった。


「……私がそのつもりだと思ったから誘ったんですか?」

『怒った?』

「怒ってはいません。その可能性は頭に入れておくべきでした」


 顔が熱いのをアルコールのせいにして、美夜はホーセズネックで唇を湿らせた。すっきりとした後味の酒が全身の動揺を鎮めてくれる。


『そっちも自惚れんなよ。飯食ってこのまま家に帰りたくなかっただけだ。ちょうど話し相手になりそうな奴が通りかかったから酒に付き合わせた』


グランドスラムのグラスを傾ける愁の手には煙草とライター。酒を飲んで煙草を吸う、口が忙しくならないのか、酒と煙草の同時摂取が未経験の美夜にはわからない。


 心地いい沈黙が続く。紫煙を吐き出す愁の吐息、酒を飲み込む美夜の喉の音、グラスの氷が触れ合う涼しげな音に他の客達のひそひそ話。


どれもが地下にいる者とだけの秘密の共有。

隣の席のカップルは堂々とキスをしていた。女の左手薬指には綺麗に磨かれた指輪があり、男の左手に指輪はいない。


あれも秘密のキスなのだろう。

そう思うことにした。


        *


 交差点で分離する黒い傘と赤い傘。黒い傘は角を曲がって赤い傘は直進する。

離れていく黒い傘に背を向けた美夜は今夜二度目の帰路を辿った。


 夢見心地の不思議な夜。頭と身体がふわふわして熱いのはきっとアルコールのせい。

わざと傘を傾けて黒い空から落ちる雨を頬に受け止めた。火照った頬にひやりと冷たい雨粒が触れて気持ちがいい。


この気持ちに名前を付けるとすれば戸惑いが適切だ。名前のない気持ちの存在が気持ち悪い。

手を伸ばしても掴めない雨雲から漏れる感情の雫が美夜を濡らす。


 帰宅した美夜は着替えも入浴も放棄してベッドに寝そべった。手繰りよせたバッグから取り出したスマートフォンのブルーライトが目に眩しい。


 トークアプリを開いて真っ先に目に入る[新しい友だち]の項目。そもそもこの[友だち]のくくりで統一された呼び方が好きではないが、アプリに文句を言っても仕方ない。


友だち一覧に加わった友達ではない人。

次に会う機会があるかわからない男の名前は木崎愁。冷たい雨の夜が似合う男だった。



Act2.END

→Act3.恋蛍と少女 に続く

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