3-7
闇夜を切り裂く赤いサイレンが鶴川街道を抜けて脇道にそれた。調布市の多摩川三丁目エリアに入ったところでハンドルの動きを止めた杉浦誠は車のナビを一瞥する。
『この辺りですよ』
「この道を真っ直ぐ行って……ここね」
川島が経営していた製紙工場の位置を確認した真紀と杉浦は車を降りた。戸建てや背の低いマンションとアパートが建ち並ぶ町はすっかり夜の帳が降りていて静かだった。
川島の会社は住宅街の一角に無造作に放置されていた。壊れかけの戸や窓が、湿った夜風に軋む様はさながら幽霊屋敷だ。
いずれは跡形もなく取り壊されてここにも誰かの家が建つのかもしれない。
現在の土地の管理者に借りた鍵を使って扉を解錠する。埃っぽい室内を懐中電灯で照らした真紀は床の足跡に目を留めた。
「足跡だよね。それも最近のもの」
『この埃の擦りきれ方だと、足跡は複数……少なくとも二人分はありますね』
ひとまず杉浦のスマートフォンで床の足跡を撮影し、先に進む。真紀は一階を、杉浦は二階に別れて工場内を調べ回った。
一階は事務員が常駐する事務室と工場社員用の休憩室があった。デスクが取り払われて無限の空間が広がるだけの事務室に転がる埃まみれのボールペンは、かつてここにいた社員の忘れ物だろう。
幽霊屋敷と言うよりは廃校になった学校のようだ。3年前までここには多くの社員が働いていた。
社会に出たばかりの緊張の面持ちの新入社員、手際が良くなってきた中堅社員、面倒見の良いお局様やベテラン社員、パートタイマーに派遣社員、外国人就労者。
様々な性格の様々な境遇を背負う人間がひとつの会社に集まり、始業から終業までの時間を共にする。
怒声や笑い声の幻聴。
機械を動かし、データを入力する社員の幻影。
あくせく働くサラリーマンの幽霊は今も成仏できないままここに存在していた。
事務室と休憩室の間に扉を見つけた。軽く押しただけで開いた扉の奥に潜むものに真紀は眉をひそめる。
「杉浦さん。こっち来て」
階段の下から杉浦を呼ぶ。足元を照らして慎重に階段を降りてきた杉浦も扉の奥の空間に目を凝らした。
『地下への階段ですね』
懐中電灯の灯りを頼りに二人は鉄骨の階段を一段ずつ下る。折り返してさらに下ると、地下に辿り着いた。
地下室は天井の近くに小さな高窓がついているのみで床も壁も剥き出しのコンクリートに覆われている。
『小山さん、この臭いは……』
「……血の臭い」
殺人現場を見慣れている刑事の鼻はすぐさま血の臭いに反応した。臭いの先をライトで追いかける。
「……間違いない。ここが現場だったのね」
床に凝固した大量の赤黒い血痕、ナイフ、手錠、血がこびりついたゴム手袋とガムテープ、ビニール袋、さらには段ボールに入った寝袋が二つ。
懐中電灯が照らし出した光景は真紀や杉浦がこれまで目にしてきたどんな殺人現場よりも凄惨な、地獄絵図だった。
*
川島の製紙工場の地下倉庫から血痕が発見されたことで川島への任意同行の指令を受けた美夜と九条は川島の自宅に急いだ。
六号棟の五○七号室は明かりがついている。呼び鈴を鳴らして数秒待っても扉は開かず、物音ひとつ聞こえなかった。
「留守ってことはないよね?」
『俺達がずっと見張っていたんだ。車は動いてないし、部屋の電気もずっとついてる。出掛けるとすれば歩きで近くのスーパーか……』
九条がドアノブに手をかけると簡単にノブが回った。鍵が開いている。二人はアイコンタクトを取り、無言で五○七号室の扉を開けた。
玄関を入って最初の部屋はダイニングキッチンだ。雑然として生活感溢れるダイニングの床に赤い液体が点々と落ちている。
『血痕だな』
「まだ渇ききっていないね。行き先は……洗面所?」
美夜は血の足跡を追う。点々と続く血の道は洗面台で止まっていた。鏡には血の手形がくっきり残っている。
歯ブラシ立てには緑色の歯ブラシの隣に赤色の歯ブラシが並んでいた。蛍が死んだ1年前と部屋や私物をそのままにしていても、最近使用した形跡のある真新しい歯ブラシがここにあるのは不自然だ。
洗面台の内側に残る一本の黒髪は長さから見て女の毛髪だった。
『神田、こっち来いよ。川島が死んでる』
九条に呼ばれた美夜は予想していた光景に溜息をついた。続き間の洋室のベッドに仰向けに倒れている全裸の男は川島拓司に間違いない。
美夜は川島の顎に触れた。
「顎の硬直が始まってる」
『指もだ。この固まり方だと死後1時間から2時間』
「頸部と腹部にそれぞれ刺し傷があるね。それとこれまでと同じで局部が切り取られてる」
『局部切断の情報は報道には流していない。サラリーマン殺しと同一犯だ』
血が染み込んだシーツは真っ赤に染まり、そこに横たわる血まみれの男の傍らには無惨に切り取られた男の局部が転がっていた。
黒々とした陰毛は赤黒く濡れ、下半身側のシーツも血溜まりができている。
刑事でなければ悲鳴をあげている光景だ。
美夜は冷静に現場の状態を確認する。高校二年生の教科書が積まれた勉強机やチェストに並ぶぬいぐるみに香水の瓶、壁に貼られたアイドルのポスター。
成人男性の死体が眠る部屋にしては可愛すぎるこの部屋はかえって不気味だった。
「ここは蛍の部屋みたいね」
『なんで娘のベッドで父親が裸で死んでるんだろうな。それにこの状況はどう見てもさ、あれだよ、その……事後としか思えない』
九条はベッド脇の箱を指差した。十二個入りと書かれたコンドームの箱と散らばったビニールの小袋、くしゃくしゃに丸めたティッシュペーパーが捨てられている。
『多分そこのゴミ箱にコンドームの使用済みがある』
「手慣れた言い方ね」
『俺だって一応、彼女いた経験くらいはあるからな』
「現場で顔赤くして照れないでよ。川島に女がいたって情報はないけど……確かに蛍以外にこの部屋に出入りしていた女がいる」
チェストに置かれた化粧水のボトルは新しい。最近使われた形跡がある。
その横のゴールドラメのアイシャドウが寂しげにこちらを見つめていた。アイシャドウの小さな容器は蓋の表面がつるつるとして手垢があまりついていない。
長い黒髪、歯ブラシ、化粧水、アイシャドウ。
この部屋には至るところに女の影を感じる。それは蛍ではない、蛍の幽霊の気配だった。
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