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 豊北団地四号棟の裏には隅田川に面した公園がある。川に沿った遊歩道とベンチが設置されただけの簡素な公園は平日の夕方や休日は団地の子ども達の遊び場として賑わう場所だ。


しかし夜になれば公園に子どもの気配はなくなり、団地に住む高校生のカップルが逢い引きの場所に利用する様をたびたび見かける。

今夜はそんな鬱陶しい先客もいない。闇と同じ色の野良猫が一匹、ベンチの上で丸くなっていた。


 隅田川の向こうの首都高は巨大な蛇のようにも漫画で描かれる龍にも似ている。長く渦を巻く首都高をいつか、あてもなく走ってみたかった。

昔は父がよくドライブに連れて行ってくれた。まだ家族が壊れる前の話だ。


 光は足音がした方向に視線を移す。ベンチで眠る黒猫も気配に気づいて顔を上げた。


「良かった。愁さんいっつも既読スルーだから来てくれないんじゃないかって不安だったよ」

『最後くらいは付き合ってやろうと思ってな』


現れた男は木崎愁。今夜もいつも通り黒一色のスーツを纏う彼は闇と同化していた。


「近くに警察いるよね。大丈夫だった?」

『アイツらは普通の動きをする人間には鈍感だ。……刑事の名刺は?』


 愁に連絡したのは30分前。最後に会いたいと懇願した光の願いを聞き入れた愁には神田美夜の名刺を持参するよう命じられていた。


「なんでこの人の名刺を愁さんが欲しがるの?」

『女刑事に興味がある』

「ふぅん。美人だったよ」

『そうか』


女刑事が美人と聞いても愁は表情を変えず、名刺も一瞥しただけ。初めて出会った時から無表情が服を着て歩いている男だが、彼の様子を見れば刑事の容姿にはさほど関心がなさそうだ。

愁が女刑事に興味を持つ理由には別の理由があるらしい。


「私のスマホを愁さんが処分するのはどうして? 中身は初期化したし、SIMカードも川に捨てちゃえばいいのに」


 初期化したシルバーカバーのついたスマホは愁の手に渡る。彼は光のスマホと神田美夜の名刺をスーツのポケットに押し込んだ。


『端末があればどこまでも調べ尽くすのが警察ってものだ。SIMカードを川に捨てたとしても警察が発見すればデータを復元させようとする。用心に用心を重ねてもやり過ぎにはならない』

「そんな用心深い愁さんが警察が見張ってるのをわかっていて最後に会いに来てくれるんだもんね」


 どこかで夏の虫が鳴いている。梅雨の夜空は雲に覆われて月は見えなかった。

遊歩道と公園を繋ぐ石造りの階段を一段飛ばしで昇る光と、彼女の後ろを歩く愁。


「男は皆汚くて気持ち悪くて大嫌い。だけど愁さんは最初から気持ち悪くなかったし嫌いじゃないの。不思議」

『俺は男にカウントしてないんだろ』

「そうかも。私、上手くやれた?」

『上出来だ』


背後に聞こえた優しい一言に光は微笑んだ。久し振りに誰かに褒められた。

褒めてくれた人は父でも母でもない。優しさを与えてくれた人は復讐を教えてくれた人。


 階段の頂上に横たわる潰れたリュックサックが光を待っている。刃の部分をタオルで巻いた包丁以外には何も入っていないリュックサックは、包丁を取り出すとさらにぺしゃんこに潰れた。


この包丁は川島家のキッチンにあった物。川島はこれで肉じゃがを作っていた。

娘の幽霊に食べさせた肉じゃがは味の薄い、美味とは言えない料理だった。


「愁さんのおかげでやっとあの男を殺せた」


この包丁で川島を殺した。蛍の父親だったのか、恋人だったのかわからない男を。


 そもそも蛍は川島をどう思っていたのだろう。蛍から川島への感情の言葉を光は聞いたことがない。

義理の父と娘として過ごしてきた川島と蛍は、蛍の母親の死をきっかけに男と女の関係になった。

川島は妻の身代わりに蛍を抱き、蛍の身代わりに光を抱いた。


 蛍は川島しか男を知らない。パパ活でも蛍は光とは違い性的接待をしなかった。だから本番行為を拒んで相手に殺されたのだ。

母親の身代わりに身体を捧げた蛍は義理の父親を男として愛していた?

川島は誰を愛していた?


「川島から愛してるって言われたんだ。意味がわからなかった。あいつは蛍の身代わりだった私を女として愛したの」

『馬鹿な男だ』

「うん。ほんと馬鹿。私を奪った男と私の大事な蛍を奪った男はどっちも刑務所にいる。刑務所に入られると迷惑だよ。檻に入ったらアイツらを殺せなくなっちゃう。刑務所は犯罪者にとっては安全な場所なんだ」


 光の隣に並んだ愁は刃物が出現しても動じない。月光のない夜は一段と暗いのに刃物の側を離れたタオルの血の赤は二人の瞳に鮮やかに映った。


「私を奪った男は殺せなかった。でも蛍を奪った男の身代わりを殺せたから満足してる。男は皆消えればいい。男は皆死んじゃえばいい」


 手元に残った蛍のスマートフォンからインスタグラムの新規投稿画面を開く。写真を選択後に文章を打ち込んだ光は右上の投稿ボタンを押して、階段の頂上にリュックサックとスマホを並べて置いた。


「でも愁さんだけは死んじゃ嫌だよ」

『どうかな。明日には俺も死んでるかもしれない』

「じゃあその時はまた地獄で会おうね」


再び階段の中腹まで降りた光は自分の首に包丁を押し当てた。最期の瞬間を迎える前に彼女は愁を一瞥して口元を上げる。


「ね、どうして愁さんはジョーカーって言うの? 最初に教えてくれた名前がそれだったよね」

『俺のアダ名みたいなもの』

「ふぅん。でも格好いい。愁さんにぴったりのアダ名」


 喪失の笑顔はインスタグラムに閉じ込めた思い出と同じ。インスタを開けば蛍に会えた。

SNSの世界で生き続ける蛍にこれから光は会いに逝く。これからはずっと一緒だ。


「バイバイ。……愁さん」


月の見えない曇り空に赤い雨が降り注いだ。

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