3-4

 帰宅した光は玄関に雑に脱ぎ捨てられたパンプスに気付いた。西日の差し込む部屋には滅多に家に戻ってこない母親がいる。


「帰ってたんだ」

「着替え取りに来ただけ」


娘が帰宅しても見向きもしない母はドレッサーの前を動かない。フランス製のドレッサーは前の家にいた頃から母が使用しているこの家で最も高い家具だ。


 短大卒業直後に結婚した母は社会の厳しさも知らないまま大人になった。男の経済力に頼らなければ生きていけない彼女はいつまでも豊かだった生活を捨てきれないお嬢さんだ。


「学校辞めようと思うんだけど」

「そう。いいんじゃない?」

「……お母さんには迷惑かけないよ」

「私もあんたのお守りはうんざり。私が思い描いていた幸せをあんたがぶち壊してくれたんだもの」


濃い色の口紅を塗り終えた母が初めてこちらを向いた。今年四十歳を迎える母の化粧は年々濃くなっていると感じる。


「お母さんは娘より男が大事なんだよね。私があんな目に遭ったのに私の心配じゃなくて自分がお父さんに捨てられないかを心配してた。今も男がいればそれでいいんだ」

「悪い? 私は子どもを産んでも女を諦めたくないの。学校辞めたいなら好きにしなさい。学費が浮いてこっちは助かるから」


 昔はもっと勉強しなさいと光を叱責していた母親の発言とは思えない。結局この女の人生の軸は男と贅沢な暮らしなのだ。


子どもは自分の承認欲求を満たすための道具。周りのママ友に優越感を感じたいがために、光をエリートに育てようとしていただけ。

その必要もない今は光が学校を辞めようとエリートコースを外れようと、どうでもいいと思っている。


「じゃあ、どうして産んだの?」


何のために産まれてきたの?

答えてよ、お母さん……。


        *


 真っ赤に染まるひとりきりの部屋。彼女は窓辺に寄りかかり、眠る太陽に目を細めた。

手元のスマートフォンが振動する。画面を見るとトークアプリの新着通知、ジョーカーからの返信だった。


[どこの刑事?]


相変わらずの一行返信に笑えてきたのは変わらないジョーカーの対応に安堵したからかもしれない。


[警視庁。名前は神田美夜]


 メッセージに既読はついても返信はそれっきり来なくなった。向こうの既読スルーもいつものこと。


 頭からぬるめのシャワーを浴びた時、産まれた瞬間もこんな気持ちだったのかと記憶のない18年前を追想する。

生まれたての赤ん坊は皆、母親の血まみれだ。


「じゃあどうして産んだの?」と問いかけても母は答えない。

母はもういない。……もう、いない。


 闇に沈んだ部屋に背を向け、二つのスマートフォンを携えて四号棟を後にする。

向かう先は六号棟。

乾ききらない黒髪が夜風を含んでゆらりと揺れる。六号棟、五○七号室の呼び鈴を押すと驚いた顔の川島が目の前に現れた。


『今日は来ないと思ったよ。計画の日だろう?』

「計画中止。学校に刑事が来たんだ」

『刑事って僕の所に来た……?』

「神田美夜。あの人、川島さんと私を疑ってるんだね。きっと今もどこかで私達を見張ってるよ」


黒い窓ガラスに映り込むのは抱き合う男と女の虚像。


『それでも君はまだ人を殺すのか?』

「殺すよ。まだ殺したい人間がいるから」

『誰?』

「秘密。でもいつか教えてあげるね」


 衣擦れの音の後はベッドが軋み、女の喘ぎ声と男の吐息が混ざって溶ける。刻む律動は浅い所から深い所に、女の奥へ、男を誘う。


「光……」


 射精の間際に囁かれた自分の名前に彼女は困惑した。

川島と関係を持った半年前から彼はベッドの上では光を娘の名で呼んでいた。半年間ずっとそうだった。

戸惑いの光の上で絶頂を迎えた川島はそのまま光の身体を抱き締めている。


「私って蛍の代わりだよね?」


震える唇が紡いだ言葉に返事はない。耳元で聞こえた川島の荒い呼吸と上下する汗ばんだ背中に光はもう一度、同じ言葉を呟いた。


「蛍の代わり……でしょ? ……答えて」


 光の首筋に顔を埋めていた川島が顔を上げる。闇と同じ暗い瞳に宿る熱っぽさは以前の彼にはなかった。


『最初は蛍の代わりだった。でも今は君を愛しいと思ってる。愛している』

「……いつから?」

『君の誕生日の時……かもしれない』


確かにあの日から川島の光を見る目は変わった。誕生日の夜は川島がいつまでも光を求めていた。

気のせいだとやり過ごしていたが、あれは光を性的対象として見ている目だ。


 偽物の父親と娘、歪んだ愛情、男と女。


 川島の愛情に吐き気がした。蛍の代わりだからよかった。川島は光を抱いても光に蛍を重ねている。

向けられる性欲は光にではなく蛍に向けられた感情。

だから、よかったのに。蛍の身代わりでいたかった。

蛍の幽霊でいたかった。


気持ち悪い、気持ち悪い。そんな目で見るな、気持ち悪い。

気持ち悪い……。


 裸足の足音を鳴らせて辿り着いた先は隣のキッチン。シンクの引き出しから取り出した包丁の柄を握り締めてまた裸足の足音を刻んで蛍の部屋に戻った。


「私が殺したい人間、教えてあげようか」


 沈黙の室内で振り下ろされる銀のやいば。無抵抗の男はそれを望むように微塵も動かず、最期を迎えた。


「どうして逃げなかった?」と問いかけても男は答えない。

男も、もういない。

いるのは血まみれになった裸の女。

今日は二度も血を浴びた。二度目の生まれ変わりのシャワーをしなければならない。


 明後日の6月10日は蛍の命日。どうせ明後日にはつもりだった。

顔に付着した血を腕で拭った彼女は洗面台の鏡に向けて微笑した。


「これで蛍は私のものだよ……」


蛍だけが光だった。

蛍だけいれば、それでよかった──。

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