迷子

 トイレから帰ると同じ班の人がだれもいなくて、そっかーと思った。予想できないことではなかった。置いてけぼりにされたことに怒る気持ちははなかった。ただ、なにも考えずにここまでただ班のメンバーの後ろをついて歩いていただけのぼくは方向音痴だから、一人で宿舎まで帰れるか不安だった。他人と関わるのが嫌いなくせに、他人に依存していたことに気付かされた。ともあれ、坂を登ってここまで来たことに間違いはないので、坂を下りはじめた。霧が濃かったが、池が見えた。石畳に躓いて転んで、これからはちゃんと足元を見て歩こうと思った。目印の池はまた隠れてしまった。それでも足元を見て歩いていると、一つの敷石の隙間から光が差していることに気づいた。晴れた日なら気づかなかっただろう、細い光だった。ぼくは恐る恐るその敷石の隙間を覗き込んだ。敷石の下には明らかに空間があった。部屋だった。間違いなく部屋だった。ベッドには男の人がうずくまっていた。


 男は刑務官の足音に気づくと立ち上がり部屋の中央に移動して正座した。「レクリエーションの時間です」と刑務官が言った。男がなにか一言だけしゃべると刑務官は折り畳まれていた板を広げた。碁盤だった。二人は碁を打ちはじめた。会話がないせいでとても楽しそうには見えない。ふと男の手が止まった。「三だってば、早く止めなさい」と刑務官が言った。男は掴み上げた碁盤で刑務官を殴りつけた。男は刑務官の口に碁石を詰め込み、詰め込みながら何度も何度も刑務官を殴った。男は囚人服を脱いで、ぐったりした刑務官から制服を脱がしてそれを着た。壁にかかったポスターを剥がすと、そこには大きな穴が空いていた。光が差していた。男は穴の中に潜り込んだ。


 男は穴の出口に背の高い少女がいるのに気がついた。少女はいつも霧の晴れない池のほとりで一人であそんでいた。そこに糊のきいたエプロンをした女性がやってきた。エプロンの女性は「これ、忘れもんだよ」とバズーカのようなものを差し出す。エプロンの女性は「もうこれはいらないね」と少女に尋ねる。少女が黙ってうなずくとエプロンの女性はバズーカのようなものを池に投げ捨てた。しばらくふたりとも黙って立っていたが、エプロンの女性はふいにため息をつくと無言のまま立ち去った。少女は当たりを見渡し、池に入るとバズーカのようなものを拾い上げてスカートの中にしまった。それから、エプロンの女性と同じ道のりを歩きはじめた。


 男がその様子を眺めているところを、刑務官は後ろから殴る。殴り、手錠をはめ、穴を後じさって男を引きずっていった。


 さて、とぼくは思った。ぼくも帰ろう、ぼくの居場所である坂の下の宿舎に。

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