氷の魔女

 魔女が昼食を取っている。御伽噺や映画などでおなじみだが、彼女の周囲にいる誰もが実在するとは思っていない。知識と常識のヴェールの向こう側にいる限られた者のみが、彼女の世界を知っている。


 誰もがそうだ、彼女は思う。

 窓の外を行き交うスーツ姿の群を眺めながら、彼らとの違いはそれらを必要ならば剥ぎ取り、中に踏み込む事ができる点だ、私の仕事はそういう人聞きの悪い職業なんだと自嘲する。


 視界の邪魔にならないように、眉の上で切り揃えた前髪、艶のある頭髪は首筋から肩口にかけて流れる、まるで黒い滝だった。

 二重のアーモンドアイに収まった、エメラルドのようなグリーンの瞳、形の良い小さく突き出た鼻、グロスで光る薄い唇が小さな細面に黄金律で配置され、調和が美を構成する。


「ふぁぁぁぁぁぁ〜」


 大きなあくびで、間の抜けた狸のような顔に変わるのを手の平で隠す。日本は平和だ、そう思う。電車でお尻を触られた先週は最悪だったが、今日は今のとこ平和極まりない。


 名前はエメル ・ド・エトランゼ。年齢は21歳、小柄な体格で、休日のランチタイムに入った満席のカフェの中、彼女の身体は周囲の大人たちの中、より小柄に見えた。

 ブルーとホワイトのボーダーシャツに、ホワイトのダメージジーンズ姿。羽織ったスーツスタイルの黒いレザージャケットがラフなイメージを強調する。

 丸テーブルを挟んで、無人のクッションと対峙するガラス壁沿いの二人席で寛いでいた。通りに面したガラスの向こうで、スーツに混じってモードファッションの一団が歩いている。美容専門学校のレンガ作りの校舎が道路の向こう側に見える。


『国際芸術博覧会 出品決定!!』

 のノボリ。エメルに芸術はわからない。90年代のハリウッド映画の大ファンである彼女にとって、爆破シーンが芸術であり、まさに芸術は爆発だった。

 

 揃えた両足を斜めに、背筋は真っ直ぐ、静かにゆっくりと、コーヒーカップを口に運ぶ仕草に育ちの良さが出ていた。





 左手首を軽く伸ばして、内側の小さな時計に目をやる。


 12時10分前-


「早いな」


 初対面の男だった。握手の手は差し出さない。エメル は軽く笑顔で応える。彼女の二倍はある体格で中肉中背。オールバックにしたいであろう髪がボリュームの多さと癖毛で別種のものになっている。こけた頬に少し釣り上がった目をしていた。

「もう一人は?」

 彼女が男に席をすすめると、彼はゆっくりとソファに腰をしずめた。黒のポロシャツにブルージーンズ。ウォーキングシューズは足の負担を軽減するプロアスリートがマラソンで使っているヤツだ、とエメル は思う。

「さぁ? どうだと思う?」

 エメル は自分の胸をトントンと叩いて見せた。

「コーヒーうまそうだ」

「エスバックスのコーヒーはどこに行ってもエスバックスの味だよ」

 期待を裏切らない、いい味だ。





「緊張するなよ。楽しいデートをしよう、先の事考えすぎじゃないのか? スケベなヤツだ」

 中性質な声音のラフな言葉使い。男ばかりの世界に生きていると、自然とそうなった。そこでは可愛らしさは必要ない。エメル はチェンと、たわいの無い会話を交し続ける。ここまでは合格。何人か志望者をこうして「面接」しているが、話が噛み合わなかったり、最初の振る舞いに問題があればすぐに追い返す。彼はここまで、私の知り合いを演じ切れている。

「何か買ってこいよ。ついでに私のコーヒーのおかわりもいい? ゆっくりな」

 エメル はレシートをチェンに手渡した。見せればおかわりが半額になる。

 チェンは人で溢れる店内を彷徨っている。初めてグルメカフェ店に入ったみたいに。

 中々、カウンターにたどり着けない。


「さて!」


 エメル は携帯を取り出してすばやく画面上にしなやかな指を滑らせた。

 すると一人、コートを着た男がカウンター席を立ち上がり、混雑する店を走って出て行った。突き飛ばされて、マグカップを受け取ったばかりの若い女がバランスを崩した。


(さあ、新入り君。どうするね?)


 エメル は目に力を込める。筋繊維から眼球にかけて意識を集中させるイメージ。脳が活発に動き出し、頭から身体中を血液以外の暖かい何かが駆け巡る。人間に感じ得ない新たな力、魔力が満ちる感覚だった。


 体内を循環する魔力の流れは、エメルの五感を強化し、未知なる領域へ誘う。


 これが、魔法使いの世界。

 

 世界は一変した。辺りの音がプレーヤーの音が鈍速に再生されたように、くぐもる。

 通路を挟んだ横のテーブルから、手を離れたマグカップがゆっくりと落下し、中からコーヒーがアメーバのように空中で薄く広がりつつある。持ち主が転倒し、スカートの中が露わになりつつある。彼女は浮かんだまま、ゆっくりと板敷のフロアへ落ちてゆく。

 エメル の眼は、スローな時間を、人の目には高速で移り変わる景色を精細に落ち着いて捕らえる事ができた。カウンターに並んでるカップル。彼女をチラ見して、隙を見てハナクソをほじってる。オーダーの列にいる老夫婦、旦那の目は転んだ女の下着に釘付け。

 カウンタースペースの隅で、ラップトップから伸びる赤いコードのヘッドホンをしている男が肩越しに振り向き、騒ぎを見ている。

 青のパーカーを着た、野球帽を目深にかぶった男の視線が転倒した女から、わずかに動く。その先にエスバックスの緑のエプロンをつけた男性店員がいた。彼は周囲の混乱に動じる様子なく、青のパーカー男の下へとたどり着くと、二人連れだって移動を始めた。


 エメルはチェンを見た。 

 彼も、男二人が縦に並んで歩いているのを横目に見ている。


 視覚がフロアを這い回り、ものの2秒で周囲の観察を終えた。魔法の時間が終わりを告げた。世界の動きが急速に元の速さへと戻る。


「チェンさんはどうです?」


 相席しながら長身、長髪の優男が呟いた。付き合いの長い同僚、彼の接近も滞る時間の中、視界の端に見えていた。


「いいんじゃないか? ターゲットの目星つけるのは私より早かったし。冷静で情報の仕分けが早い」


 チェンがスタッフルームへ向かう、二人の男の間に割って入る、さりげなく。


「」


「まだ。これからだよ。コーヒー飲みながら高みの見物してようか」


「後、候補者は何人いましたっけ?」


「三人。スマートに喧嘩できるヤツがあと1人は欲しい」


、、、、、、、、

 店内に「もう一人がいる」のを確認した。

 果たしてチェンはヤツからどう、美術品を回収するのか。


 これは採用試験。

、、、、、、、、、

 









※スローな世界で通常に動ける。

 実際の時間で高速で動いているのと同じなので、スタミナを時間を圧縮している倍数分、消耗する。


 

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