恋人じゃないけど初詣

黒中光

第1話 出発前

 どこからか笑い声が聞こえる。人間の声じゃない。テレビの音だ。正月のバラエティ番組だろう。新年早々他愛もないことで笑いあうというのは、いいことだ。


 姿見の前で漠然とそんなことを考えてしまい、慌てて首を振る。いけない、いけない。気が緩んでる。なにせ、もう一時間以上服をとっかえひっかえしては鏡の前でポージングしているのだ。


 今はコートに合うマフラーで悩んでいる。グリーンとブラウンのチェック模様がいいか、それともシンプルにピンクのマフラーか。コートは白だから、アクセントとしてオーガニックな色にしてもいいけど、柔らかい印象のピンクも捨てがたいし……。いや、でもわたしの柄ではないような。


 目を瞑って考えていると呼び鈴が鳴った。ドアの前で鍋を両手に持ちながら立っていたのは、わたしの職場の部下。


「師長、あけましておめでとうございます」

「あけましておめでとう。今年もよろしくね、まり」


 茶色がかったショートヘアーにたれ目。立派な社会人だけど童顔なので、高校生くらいに見える。そのせいか、子供の患者にやけに懐かれている看護師だ。彼女は同じ寮に住んでいて、部屋は二つ隣。


「師長。お正月でおせちばっかりだと、こういう俗っぽい味が恋しくなりません?」


 お鍋からは食欲をそそるいい香りがしてくる。カレーか。たしかに最近は、おせちやらお雑煮やらと味の薄い物ばっかりだったから、こういうがっつりしたものは食欲をそそる。


「奥美濃カレーですよ。隠し味の郡上味噌がいい仕事してるんですよ。自分の分は取ってあるんで、お納めください」


 カレーのコツを語りながら、部屋に入ってこようとする。わたしたちはしょっちゅう互いの部屋を行き来しているので、遠慮もなにもない。 ……ただ、今日はちょっと止めて欲しかった。


「うわ、どうしたんですか、これ」

「あ、えっと――」


 リビング兼寝室に足を踏み入れたまりが絶句している。それはそうだろう。なにせ、手持ちの冬服全部が放り出されているのだから。ああでもない、こうでもないとウダウダやっている内に、散らかしてしまった。いつもは、整理整頓はきちんとするのに。畳んでいたり、広げていたりで統一感がまるでない。


「今日は、お出かけですか?」

「うん。初詣に」

「マフラーは、ピンクの方が合うと思いますよ」


 一番上にマフラーがあるのを見たからだろう。こんなアドバイスをくれる。聡い子だ。彼女が冷蔵庫に鍋を入れに行ったので、ピンクの方を巻いてみる。全体的に淡い雰囲気だ。儚くて、ちょっと愛らしい感じ。


「お連れさんも、喜びますよ」

「そうかなあ」


 待ち合わせ相手の顔が浮かんでくる。あんまり他人をべた褒めするような人じゃないけど――もしそうなら、いいな。


 パタンと冷蔵庫の扉が閉まり、ニマニマと笑うまりの顔がこちらを向く。


「やっぱり、カレシですか」

「え、いや」

「ごまかしてもダメですよ。そんなオシャレして、カマかけたら表情崩して。絶対、恋する乙女ですよ。お相手はどんな人です?」


 グイグイくる後輩から一歩離れる。けれども、まりは止まらない。女子は恋愛話が好きだ。一度食らいついたらそうそう離れない。


「前からおかしいと思ってたんですよ。というか、心配だったんですよ。師長、ドクターたちの誘い断りまくってるじゃないですか。だから絶対恋人がいるはずなのに『いない』っていうし、これは不倫でもしてるのかと――」

「してるわけないでしょ!」


 いきなりとんでもないことを言い出した。まさかそんな噂が広まっているのでは。そう思うと、さあっと血の気が引いていくのが感じられた。


 誘いを断っているのは、ただ彼と比べた時にどうしても、「一枚落ちる」と感じてしまうからだ。悪い方たちではないとわかっていても、ちょっと無骨に感じてしまって。


 ベッドに座って頭を抱えると、まりが座ってのぞき込んでくる。


「大丈夫ですか」

「ええ、大丈夫。びっくりしただけ」

「じゃあ、本当に不倫はしてないんですね?」


 正面からまっすぐに飛んでくる視線。その真剣な表情に、彼女が本気だというのが分かる。心配をかけていたんだな。そう思うと、申し訳なくなってくる。


「してないよ。それは誓う」

「なら、いいんですけど。 ――お相手はどういう男性ひとなんですか」

「どういうって。 ……友達だよ」


 ためらいがちに口にした自分の言葉。それが胸にぐさりと来る。

 言いたくなかった。言葉にはしたくなかった。

 彼との関係は、友達でしかないんだ。そんな目を背けていたかった現実が、ごまかしようもなくつきつけられる。


「悪いけど、そろそろ用意しないと。待ち合わせの時間が。カレーありがとう。明日の朝に、鍋は返しに行くから」


 早口で伝えると、彼女の返事を待たずに背中を押していった。傍から見ても追い出しにかかっているわけだが、まりは気にせず笑っていた。元々、おおらかな性格だ。


 彼女が部屋から出て、バタンとドアが閉まるとなんだか体が重くなった気がした。疲れた訳ではない。ただ、自分がちょっと嫌になっただけ。

 壁にかかった時計を見れば、待ち合わせまであと一時間。そこまで急がなければいけないわけでもなかったのに。あれ以上話すと辛くなりそうだから。


 鏡を見ると、やつれた表情の女が立っていた。病院の廊下に立っていたら、看護師がとんできそうだ。


 これじゃだめだ。


 左手を軽く握って、わざとおどけたみたいにコンコンとこめかみをノックする。息をゆっくり吸って、吐き出す。よし、切り替えた。切り替えたと決めた。


 さて、身支度はまだ残っている。


 まりのアドバイスに従ってピンクのマフラーをゆるく首に巻きつけ、小物入れから梅の花を模したバレッタを取り出し、髪を後ろでまとめる。バレッタは趣味の工芸細工で作ったものだ。白、というよりも真珠色の花が気に入っている。


 くるっとその場でターンして仕上がりを確認すると、手早く散らかしていた服をタンスに片付け、ポーチを手に取る。薄いグリーン。若葉みたいな色合いをしている。


 部屋を出ると冬の冷たい風が頬を撫でていった。空は晴れあがって、太陽が光を降らせているというのに。全然温まらない。


 手袋をした手で腕をこすりながら、足早に待ち合わせ場所へと歩く。

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