第324話 星を見る人④ 黒い海を越えて


 イルモートとエルシードが戦っていた頃、タニンはバァルの離宮に舞い降りていた。タニンの精神の中に棲まうバァルは、自分の魂に魔力が満ち、力が強まっていくことを実感する。彼の同居人とでもいうべきアドニバルはその様子を少し不満げに見つめていた。


「アドニバル、なぜ私を睨む?」

「君が僕に気を遣うからさ」

「むしろ奔放な君に私は気を病んでいるのだがね」


 バァルは誤魔化すように視線を逸らす。だが千年近くを共にした同居人はそれを許さなかった。


「神が月に肉体を、外宮に精神を置いて地上に降りるための道標とした。当然、この離宮には君の精神が眠っているはずだ」


 バァルは頷いた。これまで何度も説明したことであり、彼自身もタニンに語り掛け自力でこの外宮までこようとしてきたのだ。精神の力を得れば元の姿に戻ることができる可能性があると。だがアドニバルが本来の姿をとりもどし、タニンもただの竜として生きることができるのだと説いても、なぜか当のアドニバルとタニンによって拒否されてきたのであった。


「せっかちで、意地っ張りで、お人好しの君のことだ。魂と精神の力をすべて用いて僕とタニンだけでも助けようと思っているよね?」

「……」

「だから僕やタニンは反対したんだ。だってそれじゃ、君だけが幸せになる」

「私が幸せだと?」

「そうだ、友人を助けた満足感を得て死ぬなんて幸せだろう? 置き去りにされた友人の不幸をしり目にさよなら何て卑怯じゃないか」


 アドニバルの恨みがましい目とタニンが漏らす唸り声にバァルはため息をつく。そして怒られたのはいつ振りだろうかと考えた。獣の王、そして神になってからはあるはずがない。しかし懐かしいような気がするのは何故なのか。もっと前、自分が幼い竜であった頃だろうか。原始の時代の記憶はとうに風化しているが、なぜか怒られて嬉しかった感情だけは残っているのだ。


「よって僕やタニン、君の慎ましやかな悪友としては君だけを幸せにはしないと宣言する。全員で幸せになるか、全員が不幸になるかだ」


 神である自分を子供のように叱り、また子供みたいな駄々をこねるアドニバルを見てバァルは少し嬉しくなる。原始の時代、自分にも家族というものがあったはずなのだ。そこにいたはずの父と母も愛情をもって叱ってくれたのだろうか。だが過去に手が届かないのなら、目の前と未来に向かって差し伸ばすべきなのだろう。バァルは意を決し、離宮に眠る精神の封印を解き始める。


「お、おい、話を聞いていたのか、絶対に僕は出ていかないからな」

「分かっている、だからこの精神の力はタニンに預けよう。あの子供達が無事に月に渡れるように。そして広寒宮で君の兄が私達を解放してくれることを待つさ」


 バァルはこの千年、アドニバルと口喧嘩をして勝てたことのない自分を振り返り、友人にすら勝てない神の情けなさを自嘲する。思えば世界から隔絶されたタニンの精神の、その暗い海の中でアドニバルとタニンは声をかけ続けてくれたのだ。一人は無邪気に、もう一人は不機嫌を装いながら。恐らく一人では死を選んでいただろう。彼らの友情に報いるならば、それはこの暗い海の向こうの景色を三人で見ることなのだろう。


 タニンの巨体が更に膨れ上がり、翼を大きくはためかせた。そしてエルシードの離宮へ向かうとアスタルトの家を乗せ、月へと向かって飛び立ったのであった。歓声を上げる子供達にタニンは上機嫌で咆哮をあげる。


「セト、見て! 月があんなにも近く……」

「すごいや、僕達は今、黒い海を渡っているんだね」


 潮のように満ち引きをする魔力の波に合わせ、エラムは地上のアバカスと位置を確認し、観測機アストレベで向かう方向を指示していく。トゥイがそれを補佐し、ガドが身を乗り出すセトとエルを必死に抑えている。戻れないかもしれない旅だというのに一行は笑いながら前を向いているのだ。存外、世の中にはアドニバルのような楽天家が多いらしいとバァルは苦笑する。いずれ世界は彼らのような人間達で埋め尽くされ、闇まで明るくしてしまうのではないだろうか。もっともそれはそれで心が休まる暇はないのだろうが。


「バァル、魔力の波のでかいやつが来るぞ! まるで津波だ」

「大丈夫、私の力を宿したタニンなら乗り越えられる」

「あはは、五百年前くらいから思っていたけど、ちょっと楽天家になったよね」

「……」


 嵐のような海を越え、ついにアスタルトの家は月へとたどり着く。今や空に浮かぶのは彼らの故郷であり、大地は月となっていた。そして彼らは死の国、そしてその横にそびえたつ月のクルケアンへと向かうのであった。

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