第117話 アバカスの未来
〈イグアルとアバカス、クルケアン上層にて〉
二百四十九層には評議員のための宿泊ができる私室や談話室が用意されている。イグアルはサラと相談するため貴賓室のある区画に行こうとした時、彼を呼び止める声を聞いた。見知った声にも関わらず彼は振り向くべきか逡巡した。
「イグアル、イグアル!ひどいじゃないか。友人を無視するとは」
「……アバカス」
「お前の私室へ行こう。ギルド所属の俺は大部屋の割り当てしかないからな」
辛そうなイグアルに、ことさら普通の様子を見せつけてアバカスは彼の部屋へ向かう。イグアルは仕方なしに友人だったもう一人の男の背中についていった。
「まぁ、入れよ」
「……私の部屋だがね」
ため息をついてイグアルは狭い応接室の椅子に腰を掛けた。アバカスは世話人を呼びつけて茶の用意をさせている。しばらくすると芳醇な香りのする西方由来の茶葉の香りが部屋を満たしていった。
「お前の悪い癖だ。聞きたいことを素直に聞けない。今更何の忖度が必要だというんだ」
「フェルネスと同じようなことを言う。友人達が敵だと知った時の私の気持ちがわかるか!」
「落ち着けよ。紅茶がまずくなる」
「アバカス、教えてくれ。何故だ、何故なんだ。これではお前を、フェルネスを憎み切れない……」
お人好しめ、アバカスはこの期に及んでも自分達を諦めきれない友人に対して微笑んだ。もし自分がクルケアンの民として生まれていたら、素晴らしい友と、楽しい人生を送れたに違いない。せめて一時でもその時間をくれた友人に感謝を伝えたいのだ。しかし、それは叶わぬことだろう。情けないことだが、フェルネスの奴に俺も倣うとしよう。
「ハドルメの国はもうすぐ復活する。この四百年、魔獣に身をやつして彷徨っていた苦しみからようやく脱することができるのだ。そしてクルケアンとはいずれ雌雄を決する事になる。あぁ、そんなすぐにではない。ハドルメも、神殿も準備というものがあるのでな」
「フェルネスにも聞いたが、お前らはクルケアンをどうするつもりだ」
「滅ぼす。我らの苦しさや恨みはどこへ持っていけばいい?クルケアンにもその代償を払ってもらうさ」
イグアルはアバカスを正面から見つめた。怒っているのではない。それは決意を込めた視線だった。
「正直、クルケアンやハドルメの民などどうでもいいと考えている」
「何?」
「アバカス、私はな、自分の好きな人たちを守るぞ。タファトやエルシャ達、そしてお前達もだ」
「イグアル、お前……」
「タファトはな、お前やフェルネス達への復讐より、エルシャ達の未来を選んだ。今生きている全ての人の幸せを選んだのだ。民族を滅ぼされたお前たちから見えれば、それすらも傲慢に見えるかもしれん。でもな、俺はお前達を殴ってでもその非道を止める。正義や理屈などどうだっていい。そして未来を共に‥‥」
いい終える前にイグアルはそのまま意識を失った。アバカスは机に突っ伏した友人にそっと声をかける。
「やれやれ、フェルネスの時と同じ手に引っかかるとは。成長のない奴だ。だがそういうところが気に入っていたぞ。……ありがとうな」
アバカスは部屋を出た。そこには少年と少女が立っていたのだ。
「盗み聞きかい、エラム、トゥイ?」
「すみません。廊下で見かけて気になってしまって」
「……そうだね、フェリシア。僕も話したかったし、丁度いいさ」
「フェリシア?」
アバカスは外の露台へと二人を誘う。敵同士であるはずの彼らは疑うことなく共に星空を見上げた。
「フェリシアはね、僕の妻だ。今も僕の魂と共にある」
アバカスはエラム達に彼の身の上を語った。
四百年前、魔獣となった時の記憶を最後に、アバカスの意識は途絶えた。理性が消え、時折、本能のままに人を襲っていたらしい。破壊の衝動のみが彼の生きている証だった。
そのうち、妻の呼び声が暗闇の中で聞こえてきた。アバカスは次第に理性を取り戻し、闇の中で必死にフェリシアの名を叫び続ける。やがて彼らはその意識を重ねて共有できるようになっていた。彼らを溶かすように様々な意識が襲ってくるが、アバカスは妻の意識を抱くようにして守ったのだ。
次に気付いたときには青い空を見上げていた。腐臭がするその高台の眼下には魔獣が群をなし、祭壇らしき台の横にはハドルメ国の賢者ヤムがいた。
「賢者ヤム様? 俺はいったい? そうだ、フェリシア、フェリシアはどこに!」
「フェリシアだと? そうか、お主、天文台書記官のアバカスか!自分である意識はもっておるのだな?」
「はい、俺はアバカスですが?ヤム様!フェリシアは何処に?」
ヤムはアバカスに語った。魔獣から人に戻すには複数の魔獣を掛け合わせねばならないこと。その結果、魂が溶けあって元の人格ではなくなることを。
「偶然、魔獣と化したフェリシアとお主を掛け合わせたのかもしれぬ。奇跡ではあるが哀れな」
「そんな、フェリシアの人格は!」
天を仰いで慟哭しているとき、アバカスは妻の声を聴いたのだ。アバカス、私はここにいるわ、と。アバカスとフェリシアの想いの強さは、他の魔獣の意識から遂に彼らを守ったのだ。……もしかしたら他の意識も彼らを守ろうとしていたのかもしれない。ともかくも、アバカスは意識を取り戻し、代償として妻は身体を失った。
「アバカスよ、お主には十体もの魔獣を掛け合わせておる。魔力は巨大であり、儂のように老いることもない。しかしな、この方法では多くのハドルメの民を救うことはできぬ。せめて、二体の掛け合わせで意識をより強く残さねばならん。力が弱くなり、老いることになっても人としてはその方がよかろう。協力をしてもらうぞ」
アバカスに否やはなかった。クルケアンに復讐を誓い、彼は
「僕とフェリシアはね、君達みたいな関係だった」
アバカスは遠い昔の、美しい記憶を夜空に描く。
「アバカス、上級観測官の就職、おめでとう」
「フェリシア、君のおかげさ。僕だけでは資料の整理が追いつかない。いつも助けてくれてありがとう」
「なあに、今更。私も星の資料を見るのは好きよ。それにあなたの側にいられるしね」
順調な出世、お互いを支える想い人の存在、彼らはハドルメの国でも大勢の市民に祝福された恋人達であったのだ。
「フェリシア、実はお願いがあるんだ」
「どうしたの? 急に改まって。変なアバカス」
アバカスは花束を送り、指輪を送り、あたふたと手を動かしながら何かを口にしている。フェリシアは贈り物を抱え、両手を握りながら、じっとアバカスの言葉を待っていた。
天文台の職員が苦笑しながら二人を見つめている。人生で大事な一場面を、職場で行う男の動転ぶりに呆れ、そして女への同情をしながらも、彼らは息をひそめて次の一言を待った。
「フェリシア、結婚してほしい!」
フェリシアはアバカスに抱き着いて接吻をし、アバカスは世界で一番愛おしい女性を抱きしめた。職員の歓声がその後に続く。全員が仕事を明後日に放棄し、気の利いた者の手配で葡萄酒が運び込まれ宴会を行う。幸せな泣き声と多くの笑い声が天文台を包んでいた。
その時空が赤く光り、彼らの身体は魔獣と化した。
「せっかく幸せになったのに……」
トゥイが涙を流しながらエラムに寄りかかる。
「君たちは幸せになってほしい。俺はもうすぐ君たちの敵となる。でもこれは本心だ」
「イグアルさんが選んだ道を私たちも選びます。敵も味方も関係ありません」
「頑固だな、まるでフェリシアみたいだ」
眩しいように二人を見たアバカスは、その話題に耐えられないかのように、事業の話をする。それは血塗られた自分の手を少しでもきれいに拭き取ろうとしたかったのかもしれない。
「エラム、事業の計画を説明してくれないか」
夜空の下、アバカスはエラムに都市設計の訂正や、改善点を指摘していく。エラムとトゥイはその一言一句を聞き漏らすまいと必死に覚えようとする。質問や提案、それに対する解答を三人は重ねていった。アバカスはエラムの才能に舌を巻き、それを補佐するトゥイの思いやりを好ましく思う。きっと彼らの工房では未来に向かって賑やかに騒ぎながら作業をしているのに違いない、あの天文台のように。
あぁ、俺はもう一度、この場所に居たかったのだ。
……居てもいいのよ。ここはきっと居心地がいいわ。
なぁ、エラムの案、素晴らしい都市になると思わないか。
……天文台も作ってくれるのね。ふふっ、きっと騒がしい場所になるに決まっている。
すまない、やはり俺は国を裏切れない。
……それが貴方の選択ならいいの。でもこの子達は守ってあげましょう。
あぁ、あぁ、勿論だ……。
エラムとトゥイはランプの明かりを頼りに床で計算をしていた。アバカスの助言に従ってその解が出た時、次の質問をしようとアバカスの方を向く。
しかし、そこには闇が広がっているだけだった。
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