第231話 森の民の伝承 re


 濃霧が立ち込める森のなかを大きな影が大地を震わせながら、のっそりと移動していることに気がついた。霧の向こうに目を凝らすと、木々の間を十五メートルほどの巨大な生物の群れがゆっくり移動しているのが見えた。


 その生物はノミに似た昆虫の姿をしていて、厚い体表は朽葉色の硬い外骨格で覆われていて、丸太のような異様に長い脚の間には小さなノミが大量にぶら下がっていた。もちろん、巨大な生物と比較して小さいという意味だった。


 名も知らぬ巨大な生物の腹にぶら下がっているモノは、それぞれが三十から四十センチほどの体長を持っていて、身体からだを逆さにした状態で巨大な生物の腹にびっしりと張り付いている。


 見ているだけでも寒気がして気分が悪くなる光景だったが、マツバラの話では、あの巨大な生物は比較的安全な部類の生物だという。森の移動にその生物を利用している部族もいるという。危険なのは、むしろ生物の腹にぶら下がっている小さな生物で、寄生虫のように巨大な生物の血を吸って生きているという。


 その話を聞いて困惑する。あの小さな生物の群れは、ノミにも似た巨大な生物の幼体か何かと勘違いしていたからだ。しかし実際には異なる種類の昆虫で、巨大な生物にとっては害虫でしかなかった。


 そもそもあの巨大な生物は、腹部にまとわりついたノミを放置しているのではなく、どうすることもできないだけだった。長い脚の関節は自由が利かず、小さな生物をこすり落とすために地面に腹部を近づけることもできない。だから一度でも寄生されてしまえば、死ぬまであの小さな生物と共生していくしかないという。


 ノミに似た巨大な生物を見て、何故だか深海で生きるサメのことをふと思い出した。そのサメは目に付く寄生虫に視力を奪われながらも、暗く深い海を何百年も泳ぎ続ける。我々の目の前にいるこの巨大な生物も、深い森でひっそりと何百年も生きてきたのかもしれない。


 そう思うと、途端に巨大なノミが哀れな生き物に見えた。しかし、もちろんそれは私の主観でしかない。だからその生物を森の一部として考えるように努めた。森は人間の力が及ばない領域だ。何世紀も続いてきた森の有り様を、自身の望む形に変容させようとするのはエゴでしかない。


 巨大な生物の群れとれ違うように、ウェンディゴは深い森を進む。次に霧の向こうから姿を見せたのは、人の姿をかたどった柱状の木造彫刻だった。大樹の枝を利用してつくられた彫刻柱は、それぞれが四メートルほどの高さがあり、鳥の羽根や昆虫の殻で飾られていた。


 それらの彫刻柱は踏み固められた道の左右に並び、その数は優に百を越えていて、まるで道標のように森の奥に向って延々と突き立てられていた。


「壮観ですね……」

 景色を眺めていたミスズが素直な感想を口にする。

「そうだな」と、彼女の言葉に同意しながら彫刻柱を眺める。


 等間隔に並ぶ柱の向こうに、木造の草臥くたびれた小屋が見えた。木々に挟まれるようにして建つ小屋の入り口には、巨大な動物の骨が幾つも吊り下げられていて、小屋は背の高い雑草に呑み込まれようとしていた。


 あるいは、廃墟なのかもしれない。小屋に人が住んでいる気配はなかった。その小屋のすぐそばには、未完成の彫刻が施された大樹の枝が突き立てられていた。


 ウェンディゴの車内をフワフワと飛んでいた偵察ドローンが近づいてくると、カグヤの声が車内に設置されていたスピーカーを通して聞こえる。


『人を寄せ付けない森の聖域に柱を立てる意味はなんだろう?』

「これは先祖のためにつくられた〈死者の像〉だ」

 マツバラが得意げな表情を浮かべながら言う。


『死者の像……? この彫刻柱は森の民の手でつくられたものなの? 私はてっきり、大昔の人間が残した遺物のようなものだと思ってた』


「そこに見えている新しい柱は、森の彫刻師の手でつくられたものだ」

『その彫刻師は、あの小屋にいるの?』


「そうだ。かれらは俗世との関りを断ち、先祖や女神に尽くす生き方をしている」

『ふぅん……それならさ、あの像は〈イアエーの枝〉をつかっているの?』


「よく知っているな」

『サクラに聞いたんだよ。森の民にとって特別な大樹があるって』


「魂を共有する木彫りの人形は、死者の像をつくる風習を真似たことが始まりだと言われている」


「あの」ミスズが質問する。

「えっと……その死者の像は、何か特別な意味があってこの場所に立てられているのですか?」


 マツバラはうなずく。

「死者の像は〈最初の人々〉の風習を真似てつくられるようになった」

「最初の人々……ですか? それは廃墟の街から、森にやってきた人たちのことですか?」


「違う」マツバラはゆっくりと頭を振る。

 ミスズは首をかしげて、それから我慢強くマツバラの話の続きを待った。


「〈最初の人々〉は、神によって創造された特別な人間だと言われている」

 マツバラはそう言うと、立ち並ぶ無数の死者の像に視線を向けた。

「我々は〈母なる貝〉の子どもでもある〈最初の人々〉を崇め、その死者の像を守り続けている」


「子ども?」

 困惑して、思わず眉を寄せる。


「神が創造し〈母なる貝〉が産んだ子どもたちのことだ」


『人工知能が人間を創造した? それってどこかで聞いた話だと思わない?』

 カグヤが私にだけ聞こえるように言う。

『姉妹たちのゆりかごで起きたことが、この森でも行われたのかな?』


『わからない』

 カグヤにそう答えたあと、マツバラに質問した。

「その神は何者なんだ? 宗教に基づいた象徴的な神のことなのか? それとも、宇宙船に乗って地球にやって来た人間のことを言っているのか?」


「宇宙……? いや」マツバラは赤髪を揺らす。

「神は実在し、それでいて不死の存在だと言われている」


「不死の存在?」

「姿形は人間と変わらない。しかし神と呼ばれた者たちは、たしかに不死だったという」


 マツバラの言葉にカグヤが反応する。

『その不死の存在は、この森で何をしていたの?』


 マツバラは目の端でドローンを見ながら言った。

「今から私が話すのは〈母なる貝〉が最初の呪術師たちに話して聞かせた物語だ。だからその真偽を確かめることは誰にもできない。森の民の呪術師たちによって語り継がれている伝承、あるいは民話のようなものだと思って気楽に聞いてくれ」


『わかった』

 カグヤの言葉にうなずくと、マツバラは濃霧の中からあらわれる古い死者の像を見ながら語り始めた。


 はじめに星と空、そして山と荒れ地だけがあった。

 人間も森も、鳥や昆虫、川さえも存在しなかった。


 理由は誰にも分からなかった。神々の戦争によって、毒の雲が空を覆い尽くしていたからだとも言われていた。毒は生命あるものをことごとく殺し、地上には死ぬこともできず、行き場を失くした死人で溢れていたという。


 まるで空が泣くように流星が降った夜、神々が〈母なる貝〉と共に地上に天降る。


 地上には何もなかったのだから、神々がやって来た理由は誰にも分からなかった。しかしどうやら、神のひとりは戦争によって最愛の妻を失くしていたようだ。そのことに神は嘆き悲しみ、空は涙を流し続けていたという。そして神の気持ちに同調するかのように嵐が吹き荒れると、毒の雲は吹き払われ、神が流した涙によって川が生まれた。


 悲しみが忘却の底に沈むころ、神は〈最初の人々〉を創造する決意をした。

 理由は誰にも分からない。孤独が彼に決意させたのかもしれない。


 神は荒れ地に向かうと、哀れな死人を雷で追い払った。それが終わると、月の女神から託された種を荒れ地に植えた。そうして月の大樹〈イアエー〉が誕生した。〈イアエー〉の周囲は植物で溢れ、いつしか荒れ地は豊かな森へと変わっていった。


 神々は大樹を守るために、荒れた地上にアリの巣をつくった。アリたちはそのことに感謝し、イアエーの森を守り続けることを神々に誓った。


 やがて〈母なる貝〉から最初の人々が誕生した。それが森に色彩豊かな鳥たちが戻り、鳥の鳴き声が響き渡るようになったころだと言われている。


 神が最初に創造したのは、亡くなった妻に似た女性だった。女性が強く美しく、それでいてはかないのは、神々をして創造されたからだったのだろう。神はその女性を慈しみ、老いや病を恐れず永遠に生きられる命を与えると彼女に約束した。その言葉に女性は喜んだという。


 しかし神はいつまでも地上に留まることはできなかった。そこで女性を守り、世話するための人間を幾人か創造し、彼女のそばに残した。男たちはたくましい肉体を持ち、女性たちは美しく強靭な精神を持っていた。そして神はその女性と最初で最後の約束を交わした。空から戻ってきたら、彼女に永遠の命を与え、彼女と添い遂げると。


 けれど約束が果たされることはなかった。


 神が女性の暮らす森に再び姿を見せたとき、彼女は人間との間に子どもを授かっていた。そのことに神は失望し、山が震えるほど怒ったという。嵐が吹き荒れ、イアエーが最初の枝を落とした。


 しかしその怒りが人間たちにぶつけられることはなかった。神は己の愚かさに怒り、そして悲しんでいたのだ。神は孤独がいかに残酷なものなのかを知っていたのだ。だから女性を責めることは決してしなかった。


 神の怒りがおさまると、自身が創造した人間たちのために〈母なる貝〉を地上に残し、そして空に帰っていった。それ以来、地上に姿を見せることは二度となかったという。


 女性はそのことをひどく悲しんだ。彼女は約束を守れなかった。しかしそれは無理もないことだった。永遠の時を生きる神と違い、女性は永遠に生きられない。それでも女性は神を信じて待った。


 幾日も。幾月も。幾年も。

 けれど神が彼女の待つ森に帰ってくることはなかった。


 ひとりで生きるのに森はあまりにも広く、そして彼女は孤独だった。


 地上に残された女性は〈母なる貝〉のそばで神に許しを請い続けた。

 女性を不憫に思ったヤマネコがやってきて女性のそばに寄り添い、彼女を慰めた。


 女性はヤマネコに訊ねた。

「この悲しみはいつ終わるの」と。


 ヤマネコは女性の美しい瞳を覗き込みながら言った。

「この世界はつねに移り変わる。だから心配しないで、悲しみもいつか終わる」


 彼女は顔を歪ませる。

「終わらない、この苦しみはずっと続く」


「大切な人のために悲しんでいるんだね」ヤマネコは耳を伏せた。

 心を締め付ける悲しみに、人はとても無力なのだと女性は語った。


「私はこの苦しみに対して、どう振舞えばいいのかも分からない」

 ヤマネコはそっと女性の腕に頭を擦りつけると、喉を鳴らした。


「泣けばいいのかもしれない」

 ヤマネコはそう言った。

「ただ泣けばいい」と。


 女性の美しい瞳から、また涙が零れた。

 そして女性は泣き続けた。


 幾日も。幾月も。幾年も。

 そして美しい女性は死んだ。


 アリたちは女性のために穴を掘り、彼女の肉体を〈母なる貝〉のそばに埋めた。

 ヤマネコは女性の子どもたちを見守り続けると〈母なる貝〉に誓った。


 それに喜んだ〈母なる貝〉は、健気なヤマネコに息を吹き付ける。

 するとヤマネコの身体からだは大きくなり、人々を守るための牙が与えられた。


 それから〈母なる貝〉は女性に似た像を〈イアエーの枝〉でつくらせた。

『お前たちは永遠に生きられない。けれどせめて、私の愛しい子どもたちが生きた証を、この美しい森に残しましょう』


 〈最初の人々〉は死者のために像をつくり始めた。

 死んでしまった女性のことを忘れないために。

 死んでしまった愛しい人々のことを忘れないために。


 いつからか、自身の顔や身体を黒く染める人々があらわれるようになった。


 女性たちは異性を誘惑する己の美しさを恐れるようになっていたのかもしれない。その美しさが神の怒りを招いたのだと、そう思ったのだろう。身体を黒く染め、泥に塗れた人間に異性を誘惑することができないと。一生の間、たったひとりの人間だけを愛し続ける証として〈最初の人々〉は刺青を彫るようになった。


 人々は変わり始めた。しかし死者の像は増え続けた。

 神のように人々は不死にはなれなかった。


 最初の人々が森を去るようになった理由を知るものはいない。

 けれど森は故郷であると同時に、深い悲しみを思い起こさせる地だった。

 いつしか〈最初の人々〉は森からいなくなり、死者の像だけが残された。


 苔生した彫刻柱が立つ場所まで来ると、沈黙を破るようにミスズが言葉を口にした。

「なんだか悲しい物語ですね」


「そうか?」とナミが言う。

「私にはずいぶん身勝手な神さまの物語に聞こえたけど」


 ナミの言葉に私は思わず苦笑して、それから言った。

「神話って言うのは一部の例外を除いて、人間が神さまに振り回される話なんだ。だからナミがそう思うのも仕方ない」


「そうか」ナミは安心したように笑顔を見せる。

「でも、その〈最初の人々〉は何処に行っちゃったんだろう。廃墟の街にでも移り住んだのかな?」


『どうなんだろう?』とカグヤが反応する。

『何百年も昔から伝わる話だから、その伝承で語られる出来事のどこまでが本当のことで、何が虚構なのか、私たちには分からない』


「そうですね」とミスズが言う。

「少なくとも人間と話せるヤマネコはいませんし」


「そうか?」とナミが言う。

「異界には沢山いたけどな」


「喋る猫が本当にいるんですか?」

「もちろん」なぜかナミは得意げに言う。


 マツバラは咳払いすると、ウェンディゴの車体を透かして見えている森を指差した。

「聖域はすぐそこだ。ここからは香炉を使わなければいけない」


『お香を焚くんだね』カグヤのドローンがマツバラのそばに飛んでいく。

『火をつけるときには、私にも見せてね』


「ダメだ」

『どうして?』


「森の民の秘密を機械に知られるわけにはいかない」

『機械って私のこと?』


「そうだ」

『ねぇ、それってすごく失礼なことを言っていると思うんだ。そもそも私は――』


 私は二人のやり取りを聞きながら、マツバラが語った伝承について考えていた。地上を彷徨う死人のことや毒の雲、そして月の女神といった単語が頭の中で反響する。不死の人々が創造した人間たちは何処に消えたのだろうか。そして神と呼ばれた人間は何処に向かったのだろうか? ツル植物が絡みつく彫刻の柱を眺めながら、伝承について考えた。

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