その涙さえ命の色

@chauchau

裸を曝す羞恥心さえ失われてしまえば


「況や血をや」


「動かないで」


 ごめんと言えば彼は怒るだろうか。瞳に私を写す彼が見続けてくることにも、二時間近く動かないままで居ることにも、その間ただ黙っていることにも、慣れてしまった自分がいる。

 それでも、


「そういえば、何の話だったの」


「うん?」


 バキポキと首が鳴る。

 意識されているわけでもない気遣いに嬉しさを覚えてしまう自分の単純さがなんとも言えずに情けない。


「授業でね。先生が言っていたんだ、雪舟の話」


「涙で鼠を描いたっていう、あの?」


「そう。その絵を見たお師さんが、あまりの感動に彼が絵を描くことを許したっていう逸話」


 何も絵が上手だったからではない。

 己の一部までをも利用した彼の作品には魂が宿っていた。それが、見る人の心を動かしたんだ。無色な涙は命の色だったんだよ。


「命の色……、面白いことを言う先生だね」


「脱線が多いから嫌がる子も居るけどね」


 大して汚れているわけでもないのに一度脱いだ下着にもう一度足を通すことを忌避してしまうのはどうしてなのだろう。


「それで、……ああ。涙以上に集めるのが難しい血で描けばより一層感動させられるんじゃないかってこと?」


 この二時間で描き上げた彼の作品は、どこか遠くを見つめる私の姿。いや、嘘は駄目だろう。


「面白い試みからもしれないけれど、僕は別に世間の賞賛を得たいわけでもないから」


 私によく似た誰かの姿。

 ほんの少し、あと二年ほど年を老いた私の姿。それは、


「なにより血で描くなんて周囲から何を言われるか分かったものじゃないよ」


 先日子どもが出来たために退学と成った私の姉の姿。

 私というフィルターを通して彼が描き続けるのは、どこぞの馬の骨のモノになってしまった彼の片想いの相手。代用品でしかない私。


 雪舟が涙で鼠を描いたのは、その場で利用できるものをなんとか工面した結果。つまり、彼がそれだけ絵を描きたかった気持ちの表れ。


 私を利用する彼と、利用されることを利用する私。

 姉への気持ちをどうしても忘れられない彼と、それでも彼の傍に居る口実が欲しい私。


 無色透明な涙。

 その涙さえ命の色と言う、況や血をや。


 この場で首を掻っ切れば、彼をを見てくれるだろうか。

 その一時で、彼を私を描いてくれるだろうか。


 この身体に流れる血は、命の色に成り得るのだろうか。


「帰るよ」


 そんな勇気があるわけもなく、私の視線は彫刻刀から外された。

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