第10話 甘く苦い現実

 車の中で、麻衣子はいつものようにジャイコブに叱られていた。

「迎えに行くまで病院で待ってるようにって言ってるだろ?」

「今日も異常はなかったの。大丈夫よ、ちょっと出歩くくらい」

「心配なんだよ」

 ジャイコブはハンドルを握りながら顔をしかめる。

「君は魅力的だから、一人でいたら誰かにさらわれるんじゃないかって」

 あなたって口が減らないのね。麻衣子は苦笑しながらつぶやくと、後部座席を振り向いた。

 後ろの席で、息子のコウキが船をこいでいる。

 いっぱい遊んで疲れたのだろうか。そっと抱きしめてやりたいが、シートベルトが阻む。

 通った鼻筋に、ちょっと怒ったような独特のまなざし。麻衣子にはその面差しを見るたび今も胸に想う人が重なるが、ジャイコブと一緒に歩いていると、皆コウキをジャイコブの息子と疑わない。

「マイコ、いい加減に僕を受け入れようよ」

 ふいにジャイコブは横目で麻衣子を見て言う。

「コウキはもう三歳だよ。君が意地を張って僕をパパと呼ばせないから、今日も友達とケンカして大変だったんだから」

「だってそれが本当のことだもの。コウキの父親は」

「君とコウキを守ってきて、これからも守れるのは僕一人だ」

 ジャイコブは手を伸ばして、麻衣子の左手を握る。

「君の手じゃなくて、部屋ごと鍵をかけてほしい?」

 そうできてしまえる状況にいると、麻衣子もわかっていた。

 麻衣子は三年間、実家の農場を継いだジャイコブと暮らしてきた。かろうじて同じ寝室ではなかったが、食事や生活のいろいろなことをジャイコブに頼っていたのは事実だ。

 異国で産んだ子どもを育てるためだといっても、麻衣子の弱さが今の状況を作っていた。

「マイコ? ……手が熱い。やっぱり体調が悪いんじゃないか」

 農場に着くと、ジャイコブに部屋に運ばれた。おろおろするコウキに、大丈夫、夕食に行ってらっしゃいと送り出す。

 三年間で、麻衣子の体はすっかり弱ってしまった。病院も機能不全の最中に出産して体を壊して以来、この国の昼と夜の大きな寒暖差が身に堪えるようになった。

 でも麻衣子は今が決して不幸ではないのが、自分に与えられた罰のような気がしてならない。

「起きた? 夕食持って来たけど、食べられる?」

 額を冷たい布で拭われた感覚に、麻衣子は目を開く。

 麻衣子が体を起こすと、枕元にジャイコブの妻のミリヤが座っていた。

「コウキは夕食食べました?」

「ええ。だから心配しないであなたも食べなさい」

 渡されたオートミールを、麻衣子はひとさじずつ食べる。時々ミリヤが飲み物を差し出して、麻衣子はお礼を言いながら食事を進めた。

 ミリヤはジャイコブより十歳年上の恰幅のいい女性で、愛人のような立場にある麻衣子の面倒もあれこれ見てくれる。 

「すみません、もう食べられないんです。ごめんなさい」

 やがて青い顔でお皿を遠ざけた麻衣子に、ミリヤはため息をつく。

「本当に何かの病気ではないの? あの人に車を出してもらって、もっと大きな病院に行ってきたら?」

 麻衣子は首を横に振る。ただでさえ母子共に金銭的にお世話になっているのに、これ以上夫婦に負担をかけたくなかった。

 それに生気を失っている自分が、愚かな計算を働かせようとしている。

 ジャイコブとミリヤの間に子どもはおらず、たぶんミリヤの年齢では今後も難しい。もし自分に何かあったら……きっとジャイコブはコウキを二人の子として育ててくれる。

「自分の役目は終わったなんて考えちゃだめよ」

 そんな麻衣子の心の内を見抜いたように、ミリヤは厳しく言う。

「あなたの国ではどうか知らないけど、ここでは困っている婦人を放っておく方が最低の男なのよ。さっさと第二夫人になって、堂々とコウキを跡継ぎにしてやりなさい」

「……ミリヤさん」

 彼女はおっとりとした見かけと違い、剛毅な人だと思う。

 もう二度と会えない親友を思い出して、麻衣子は涙を飲み込んだ。

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