私にはちゃんとした彼氏ができた
悩んでみたものの、どうすればよいのか決めかねたので、ストレートに、纐纈さんにメールを送ってみるという手に出た。改めてのお礼の言葉に続けて 「何か、お礼をさせてください」と打ってメールを送信したら、「じゃあ昼飯おごって。学食で」と返事がきた。細かい日時まで詰めてしまってから、お礼の仕方ってこれで合っているのだろうかと少し気になったが、気にするのも今更だ。学生同士なら、食事をおごるくらいがちょうどよいのかもしれないし。
数日後、夏休みに入っているので人の少ない学食で、
「この季節、暑くて食欲なくなりませんか」
うどんをかき混ぜながら尋ねると、纐纈さんはカレーを頬張りながら、別に、と短く答えた。
「俺、もともとこっちの生まれだから夏はこんなもんだと思ってるし。暑い季節は熱いものをがっつり食うと元気が出る気がするんだよね」
「あぁ……暑いからこそ熱いものを、っていうのは、なんかわかる気もします」
食事中は学食のメニューでどれが好きかとか、カレーの辛さはどれくらいが好みかとか、今日この後はどこで何をして過ごす予定なのかとか、とりとめのない話をして過ごした。私はこれといって予定がないが、纐纈さんはこの後、院試の勉強のために図書館に行くという。暇な時も多い適当な文系学生の私と違って、理学部で何かの化学物質の研究をしているという纐纈さんは、やはり学業が忙しいのだろう。
「じゃあこの後、すぐ行かなきゃならない感じですか?」
そうだったとしたら悪いな、と気になって尋ねると、纐纈さんは笑って答えた。
「いや。もう試験まで二週間切ってるからね。正直この時期は図書館にこもって何かするって感じでもないし、夕方頃までに行けばいいかなって感じ」
「それなら、お茶飲みます?」
私は、給茶機から冷たいお茶を二人分汲んで、テーブルに置いた。
「あの、聞くのも失礼かもしれないですけど。どうして私を庇ってくれたんですか? 私が余計なこと言ったのが悪いのに」
ふと会話が途切れた隙に、思い切って尋ねた。後半部分については、自分で納得してそう思っているというよりは、客観的にはそうなのであろうと認識しているに過ぎないのだが。
「なんか、可哀相だったから」
「え?」
可哀相とは何が。私が可哀相なのか。意味を測りかねて纐纈さんの顔を見た。彼は穏やかな表情で、淡々と続けた。
「はっきり言って、井口さんが新沼を嫌いなのはもうミエミエで、それでもキレないように我慢してたのもわかってるんだよね、俺だけじゃなくて、多分みんな。ぎりぎりまで我慢してたのに我慢しきれなくて、あのタイミングで最悪の形で爆発しちゃって、これってすごく不本意だったんだろうなぁ、って、そう思った」
「……」
あの飲み会の日、場をぶち壊しにしてしまってから、思い出すと恥ずかしくなるほど泣いてしまったのは確かだが、どうしてあんなに泣いたのかはわからない。不本意だったのだろうか。そうかもしれない。
「それにさ、井口さんは覚えてないかもしれないけど、タクシーの中でしきりにサキを思い出して嫌だったって言ってて。それって、双子の妹さんのことかなって」
「……私、そんなこと言ってましたか。確かに沙希は妹の名前ですけど」
サークル内で沙希のことを、気が強くていつも自分の方が勝っていないと機嫌が悪い、やっかいな双子の妹がいる――くらいには話題にあげたことがあった。私がいつも実家への帰省を短く切り上げる理由を訊かれた時など、説明が必要な場面に限ってだが。
沙希との間でのあれこれについては、ひとつひとつの出来事がみみっちすぎて当事者たる私にしか何がどう嫌なのかわからないのではないかと思うし、大学生にもなって「子供じみた嫌がらせをする高飛車な妹」の話などしたくないという気持ちもあり、あまり積極的に触れたくない話題ではあった。
それがまさか、酔った勢いとはいえ、沙希の名を出して大泣きしていたとは。
もういいや、話してしまおう――私はそう決めた。
「私の妹は新沼と違って受かって、北海道で一番の大学に通ってるけど、これは本当に進みたかった進路ではなかったみたいなことばっかり言ってて。ある意味似てるんですよね。自分は本当はレベルが高いんだ、こんなところにいるはずじゃないんだ、みたいな態度が。なんかこう、無駄にプライドだけ高いっていうか――そういうの、すっごい鼻持ちならなくて、ほんと、大嫌いです」
話しながら、自分の口から思いの外強い言葉が出ていることに気付いた。「大嫌い」だなんて。これは新沼のことか、それとも――沙希に対する、偽らざる本心か。
「言うねぇ」
纐纈さんは笑った。
「妹さんのことを気が強いって言ってたけど、井口さんも相当だよね」
笑いながら、そんなことを言う。
「そうですか? まぁ……新沼にあんなこと言っちゃった時点で、否定できないですけど」
「新沼の件もだけど、普段からちょいちょい見えてるよ。井口さんの気の強いところは――でも、その気の強さを押し殺してるような感じもしてて、どうしてかなって思ってた」
そんなふうに見えていたのかと意外に思いながら「そういうつもりは、なかったですけど」とやんわりと伝えると、纐纈さんは合点が行った、という表情で言った。
「妹さんのことを詳しく聞いてわかった気がする。きっと今まで自分を殺して、気が強い妹さんに合わせてきたんだろうなぁって」
「それは確かに、そうかもしれません。怒らせると面倒だな、とか思って引いちゃうこと、多かった気がします」
できる限り沙希の怒りを買わないようにして。沙希の怒りを買えば鎮まるのを待って。怒りの鎮まった沙希が謝ってくればそれをあっさり受け入れて。そうすれば平穏だから、私はそんなふうにしてきた。最近は正面から相手することを避けるようにしているから、ストレスはずいぶん減ったけれども。
「もう妹さんとは離れてるんだから、もっと自分を出せばいいのに。日頃から小出しに怒っとけば、変なタイミングでキレちゃうこともなくなるかもしれないし」
からかい口調の纐纈さんに笑って「そうですね」と答えて腕時計を見ると午後二時半を回っている。私の動作に釣られたのか、纐纈さんも携帯で時間を確認している。
「そろそろ出ようか」
はい、と答えて席を立って、学食を出たところで纐纈さんと別れた。
私はこれをきっかけに纐纈さんと親しくなり、その年の冬には交際を始めた。沙希の最初の男のように身体の関係から始まったわけではなかったし、沙希の今の男のようになし崩しに一緒に住み始めたわけでもない。きちんと順を追って――まずは「好きだ。俺と付き合ってください」というベタな告白を受けるところから始めて――仲を深めて行った。
こういうのは隠すことでもないので、と思って沙希に「彼氏ができました」とメールを送ったら、「ふーん、お姉ちゃんってそういうの興味ないと思ってた。意外だわ」と返事が来た。他に何か言うことはないのか、と思ったが、もう腹は立たなかった。だって、私には沙希と違ってちゃんとした彼氏がいるから。捌け口にされている沙希と違って、私は大事にされているから。きっと幸せになるから。
成人式には行かなかった。どうせ場を支配するのは沙希なのだろうと容易に想像ができてしまって、行く気が起こらなかったからだ。母にはどうするつもりかと訊かれたが、天気が心配だし忙しいから、とごまかした。その代わり、彼――苗字じゃなくて下の名前で呼んでほしいと言われて、おずおずと諒太さん、と呼ぶようになっていた――と簡単なお祝いをして、その時ばかりは控えていたお酒も飲んだ。大人になったらこういうの使うよね、と口紅をもらって、どうせだからとお化粧を始めた。口紅だけでは恰好が付かないので一式買い揃えたら結構いいお値段がしたが、金銭的なショックよりも高揚感の方が大きかった。
春、私は何の問題もなく三年生になり、纐纈さん――諒太は、院試も卒研もクリアして大学院の修士課程に進んで、「院に行ったら勉強がすごく忙しくなるから」と口実を付けて一人暮らしを始めた。私たちはお互い合鍵を持って、お互いの家を頻繁に行き来した。もちろん、勉強やアルバイトその他もろもろ、やらなければならないことを疎かにしない範囲で、だ。私たちの仲はサークル内でも公認で、隠さなければならないようなことは何もなかった。
沙希は、三年生になれなかった。
学部を移ることも叶わなかった沙希は、一年間休学することを選んだ。その休学は「試験勉強に集中するため」ということだったが、きっとただ男とだらだら過ごして一年が終わるのだろう、と私は予想していた。
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