沙希は私にリレーで負けて泣いた

 沙希はいつも、強気な態度で私をぐいぐい引っ張ってくれた。

 そんな沙希を有り難く思う場面は多かったのだが、


 「お姉ちゃんは私がいないとダメなんだもんね。ホント、気が小さいんだから」

 「お姉ちゃん、そのテストで百点取れなかったってマジ? 超簡単だったし、ウチのクラスは全員百点だったよ。お姉ちゃん、頭悪いんだね」

 

 といった、辛辣な言葉を掛けられることも多かった。正直なところ、沙希の言葉に対して何も思わなかったと言えば嘘になるが、私は、――確かに私は、沙希に比べればダメだから――と、そんなふうに言われるのを当然のこととして受け取っていたように思う。

 

 だから何を言われても私は

 「うん、そうだね。私ダメだから。沙希はすごいね」

 などと、にこにこ笑いながら答えていた。

 

 今にして思えばいかにも卑屈な態度ではあるが、沙希はあくまで自分の方が「上」である限りは機嫌がよく、「ダメ」な私の上に立ち、引っ張り、主導権を握ることに満足しているのだ――そう、小さい頃からなんとなくわかっていたから、私はこうも沙希の言葉に対して、かくも卑屈な態度を取っていたのかもしれない。


 

 沙希には、こと私との間においては恐ろしく負けず嫌いなところがあった。どうしてそうまで私にだけは負けるのが嫌でたまらないのか、不思議だった。たとえばクラスメイト相手には、そういうところは見せないのに――と。負けず嫌いだからこそ、勝っている時には強気なのかな――そうも思った。

 

 沙希がそうした一面を初めて人前で露わにしたのは、小五の春の運動会の時だった。

 私たちが通っていた小学校では、高学年になるとクラス対抗リレーという競技が運動会のハイライトとして行われ、クラス全員がグランドを半周ずつ走ることになっていた。走るのが遅かろうが全員参加である。体育系の学校行事のこういうところが私は好きになれないのだが、それはそれとして、話を先に進めよう。


 小五の春の運動会の対抗リレーで、たまたま私と沙希がそれぞれ三組と一組の第一走者になった。沙希は号砲が鳴る直前に私の方をキッと見据えて、「お姉ちゃん、負けないからね」と言った。その後、笑顔をつくったが目は笑っていなかった。小五といえば「双子」をからかいのネタにしてやれコピーだどっちかはニセモノだと囃し立てるバカな男子がまだまだいる年頃である。沙希が私にかけた言葉のせいもあって、この「双子対決」に、場は少し嫌な感じにひとしきり盛り上がった。

 ところが沙希は、三十メートルほど走ったところで盛大に転んだ上にバトンを取り落とした。私は観客席や五年生のみんなからわあっと湧き上がった悲鳴でそのことを知り、走りながら首を後ろに向けた。

 沙希は泣きべそをかきながら起き上がった。両膝を擦りむいているが、大丈夫みたいだ。ちゃんとバトンを拾いに行けているから。私はその様子を確認すると前を向き、自分の走りに集中した。あまり脚が早い方ではない私は必死に走るが、二組とも四組とも差を縮められない。せめてできるだけ早くバトンを――


 「うわあぁぁぁゎん」


 私は、響き渡る大きな泣き声にぎょっとして、集中力を削がれた。

 

 あれは――沙希の声だ。私は振り返った。第二走者の菊池くんが「バカ! 前見て走れ!」と叫んでいるのが聞こえるが、今は沙希が気になる。――あんな大きな声で小さい子みたいに泣くなんて、どうしたんだろう。大丈夫だろうか。


 私は菊池くんにバトンを渡し終え、お役御免となった後、本当ならクラス別の待機場所に戻らなければならないところを、その場に残り、身体ごと後ろを向いて沙希を見た。沙希の泣き声はまだやまない。正直、五年生の泣き方ではなかった。

 もはややる気がなくなったのか、右手でバトンを握りしめてとぼとぼと歩きながら、顔を隠すことも、涙を拭うこともせず、人目も憚らず幼児みたいな大声で泣いている沙希の姿を見ていると、なんだかこっちまで鼻の奥が熱くなってきた。


 ――どうしよう、私も泣きそうだ。


 一組の第二走者の日奈ひなちゃんは、とそっと横目で見ると、怒る気も失せたといった感じの、呆れ果てたような半笑いで沙希を見ている。まぁ――私だって、沙希じゃなくて別の子があんなふうに大泣きしていたら、笑ってしまうだろう。


「お姉ちゃんに、負けたあぁあ」


 あろうことか、そんな声まで上げ始めた沙希の様子が滑稽だったのだろう。声援に混じって、笑い声が聞こえ始めた。沙希のいう「お姉ちゃん」とは、私である。さすがに居たたまれなくなり、俯いてその場を離れた。


 

 リレーの最終結果は、当然のことながら沙希が第一走者を務めた――いや、務めきれず途中で放棄した――一組がぶっちぎりの最下位だった。私たち三組はみんなが頑張ったので一位を獲ることができたが、私はちっとも喜べなかった。それは、走るのが苦手な私にはクラスの勝ちに貢献できたという実感がなかったからだったが、もうひとつ、大きな理由があった。それは、私たちがふたりまとめて、運動会からしばらくの間、学校中の笑い者となったからである。

 バカな男子に殊更みっともなく誇張した物真似などをされる沙希はもちろんつらかっただろうが、私だってそれはもうつらかった。いくらなんでもあんなにみっともなく泣かれてしまうと私だって恥ずかしい。なんせ私は「お姉ちゃんに負けた」と泣き叫ばれたのだ。あんな大勢の見ているところで。それは確かに――転んで泣いているのを見ていた時は可哀相だと思ったし、もらい泣きしそうになったけれど。

 

 でも、からかわれたことよりは、沙希が運動会の後、三日くらいは私と口を利いてくれなかったことの方が、私にはもっと堪えた。体面を重んじる性質たちの父が沙希のいないところで「なんなんだアレは。みっともない。大恥をかいたぞ……!」と顔を真っ赤にして怒る一方、母は「沙希は負けず嫌いだから、悔しかったんでしょう」などと言って苦笑いしていたが、いくら沙希が負けず嫌いでも、そんなに悔しがることだろうか――と腑に落ちなかった。私との勝ち負けなんかより、転んでクラスに迷惑をかけたことの方が悔しくてつらいものではないのだろうか。少なくとも私だったら、あんなことになったらクラスのみんなにいくら謝っても足りないし、それこそ、しばらくは冷たく当たられても文句を言えないと思う。


 「何をやってもお姉ちゃんには負けないと思ってたから、悔しかったの。ごめんね」 

 ようやく機嫌を直した沙希に謝られた私は、曖昧に笑って「いいよ」と許すしかなかった。だって沙希は悔しかったんだから仕方がないし、私よりずっと恥ずかしい思いをしたんだから――と。


 笑って許してみせながら、私は、沙希って私に負けるとあんなになるから面倒だな、気を付けよう――と考えていた。何をどう気を付ければよいのか、その時はよくわかっていなかったのだけれど。

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