19話

 相談が終わると、リビングのローテブルに移って勉強会になった。

 みんな、主に自分の苦手分野を勉強し、自分の得意分野を人に教える。

 なんとも画期的な勉強会。

 私は古典をチョイスした。

 学内で行われるテストならば、英語はさして難しくない。

 教科書を丸暗記してしまえば満点は採れずとも、九十点台は採れるはず。

 うちの学校のテストは一〇〇点満点方式のため、問題数がとても多い。そして、平均点以上を採っていようとも、七十点以下は赤点と見なされるのだから恐ろしい……。

 つまり、平均点が七十点を割ること自体がそうそうないのだ。

 学年全体がどんぐりの背比べであるのには、このあたりに問題がある気がする。

 ほぼ全員が七十点以上を採るのだから、テストの回数を増やしでもしない限りは、成績のつけようがないというもの。

 成績というよりは、順位をつけることすら難しいだろう。


 私が人に教えるのは数学と化学。佐野くんが教えるのは古典と世界史。桃華さんが教えるのは日本史と現社。海斗くんはオールラウンダーだけれど、強いて言うなら英語と政経とのことだった。

 飛鳥ちゃんは「人に教えられるものなんてひとつもないよ~」と嘆き出したので、免除。

 このメンバーは、私以外はみんな文系。

 選択科目でも、私が物理を選択しているのに対し、みんなは生物だ。

「翠葉、これ教えてもらえる?」

 桃華さんに声をかけられ問題集を覗き込む。

「これはこの方程式を使うんだけど、一癖あって――こう書くとわかる?」

 それは引っ掛け問題となる数式で、実は書き方を変えてみると意外とあっさり解けてしまうものだった。

「目から鱗ってこのことよね。そっか、ありがとう。わかったわ」

 今、桃華さんと海斗くん、飛鳥ちゃんが数学をやっていて、佐野くんが化学をやっている。

「化学式って苦手なんだよなぁ……」

 佐野くんを少し見ていると、入り口で躓いているのがわかった。

 きっと私の英語と同じ。最初で躓くから苦手意識が余計に強くなるのだ。

「物質名から化学式が想像できることは多いよ? それぞれの原子の結びつく数の割合は想像できなくても、その物質をつくる原子の種類は推測できると思う。単純に規則性をちょっとだけ頭に入れておくの。例えばね……」

 ルーズリーフを一枚取り出し、簡単なものだけを書き出す。

「酸化鉄にはFeOとは違う形の化合物があるし、酸化銅、酸化銀、塩化銅、塩化鉄、硫黄鉄にもほかの形の化合物があるけれど、まずは基本的なものから覚えていくといいと思う。原子が結合できる手の本数を覚えておくと、分子のつくりが理解しやすいし、何を作れって言われても簡単に作れるようになるんじゃないかな」

 周期表のプリントを取り出して、表の上部分に数字を振っていく。

「十八列目は手がないの。だからゼロ。十七と一は一本。十六とニは二本、十五は三本、十四は四本」

 書き終わるころにはみんながプリントを見ていた。

「そんな覚え方があったんだな」

「あとは金属の陽イオンや非金属の陰イオンはひたすら暗記するしかないかなぁ……。それさえ覚えちゃえば、あとは足し算引き算で足りないものを補ってあげる感覚。解けるようになるとパズルみたいで面白いよ?」

 佐野くんは自分の周期表にも数字を書き込み、

「なんとなく覚え方がわかった気がする。無暗に詰め込んでもだめってことか」

 と、暗記モードに入った。

 文系だからか、基本暗記は苦にならないらしい。

 今まではひたすら暗記して乗り切ってきたというのだから、私の英語と似ている。

「翠葉は頭いいくせに英語と古典がだめなのな?」

 海斗くんが頬杖をつきながら言う。

「……漢文もだめ。英語は教科書中心に出される学内テストならなんとかなるけど、全国模試とか総合問題を出されたが最後だよ」

「助動詞の接続が苦手っぽい? 動詞は上一段はなんとかなってるかなぁ……。そのほかはかなり勘に頼ってない?」

 苦手としているものをザク、と指摘されて口元が引きつる。

「そういえば、先日司先輩にも英語の文法を覚えろって何度も言われた」

「え!? いつ司に勉強見てもらったのっ!?」

「うん? 先週の土曜日。未履修分野の英語を見てもらったよ。教え方が上手、というか、ヒントの出し方が絶妙で、一時間くらい見てもらったらわからなくて埋められなかった場所全部埋められた」

「……超絶スパルタじゃなかった?」

 思い返してみるも、そこまでスパルタという印象はない。むしろ、高校受験のときの蒼兄のほうが凄まじかった。

「そこまでひどくなかったと思うけど……」

「あいつ、俺に対する対応と違いすぎてムカつくーーー!」

 今度はラグに転がらなかったけど、頭を抱えて突っ伏してしまった。

「ねぇ、翠葉。いつから『司先輩』になったのかしら?」

 桃華さんが正面でにっこりと微笑んでいた。

「えぇと……木曜日から、かな」

「ふ~ん、いきさつを知りたいところだけど……」

 険呑な視線を投げられ、

「桃華さん、あのね……この間の約束、ちゃんと果たすからね?」

 言うと、「なるほど」という顔になった。

「テスト明けくらいに楽しみにしてるわ」

 ほかの三人は、「なんの話?」といった顔をしているけれど、詳しく訊いてくることはない。

 それがとても、ありがたかった。

「話は全然違うんだけど」

 と、言い出したのは佐野くん。

「御園生のそのバングル、きれいだな? 似合ってる」

 言われて私はフリーズする。

 ねぇ、「天然」って……実は佐野くんのような人のことを言うのじゃないかしら……。

 口元が引きつっているかもしれない。でも、今はまだ話せないから――

「うん、きれいでしょ?」

 私はそんなふうに答えてその会話をやり過ごした。



 翌日には問題となる数値は何もなく、元気に登校することができた。

 昨日から午前四時間の、テスト前の時間割になっている。

 昨夜司先輩から、「体調がいいなら手伝いにきて」と短いメールが届いた。だから今日は、午後から生徒会を手伝いに行く予定。

 お弁当は桜香苑で食べようかな。

 今日は曇りだから、そんなに暑いということもなさそう。

 桃華さんは自宅の用事があると言っていたし、海斗くんは秋斗さんの家へ帰り、すぐに勉強を始めると言っていた。

 飛鳥ちゃんは家庭教師が来ると言っていて、佐野くんは帰ったら近所を少し走って整体へ行くと言っていた。

 テスト前でもトレーニングを休まないのはすごいと思う。


 授業が終わると、ミネラルウォーターを買ってひとり桜香苑へ向かった。

 曇っていても、さすがにこの季節に肌寒いと感じることはない。

 お気に入りのベンチまで来て、芝生の上に座る。そして、古文の活用がびっしりと書き込まれているルーズリーフを眺めながらお弁当を食べた。

 このルーズリーフは佐野くん印。

 昨日の今日で、私が苦手とするものを見やすくまとめてきてくれたのだ。

 とてもきれいで見やすいノートに感心しながら眺めていた。

「とりあえず、最低限これは暗記して」と言われたので、素直に暗記することにした。

 けれども、お弁当を食べ終わって少し経てば眠くなる。

 消化に血が使われるだけで、頭がぼーっとしてしまうのだ。

「少しだけならいいよね……」

 今日は寒いわけじゃないから、体温が下がりすぎることもないだろう。

 ベンチにもたれかかり、私は赴くままに目を閉じた。


 目が覚めると、ベンチに人が座っていた。

 ぼんやりとした頭で顔を確認すると、

「っ……司先輩っ!?」

 端整な顔がこちらを向く。

「こんなところで寝るな。無防備にも程がある」

「す、みません……」

 またバイタルに異常が出たのだろうか。

 思わず、ポケットからスマホを取り出し確認してしまう。

「別にそういうわけじゃない。弓道場に忘れ物があって通りかかったら、翠が寝てたから」

 そう言うと、手にしていた本を閉じた。

「あ、れ……? 先輩、制服の上着は?」

 司先輩は白いシャツしか着ていなかった。

 まだ衣替えの季節ではない。通常ならチャコールグレーのスタンドカラージャケットを着ているはずなのに……。

 ベンチに預けていた自分の上体を起こすと、背中側にバサリ、と何かが落ちた。

 振り返ってその「何か」を確認すると、正にそのジャケットが落ちていた。

「っ……かけてくれたんですか!?」

 慌てて拾って芝生を払う。

「眠いなら秋兄の部屋へ行けばいいだろ。仮眠室ってそういうときに使うものだと思うけど?」

 ごく当たり前の一般論なのだけど、私にはいやみにしか聞こえない。

 きっと、仮眠室は篭るためにあるのではなく、眠るためにあると言いたいに違いない。

「……なんとなく行きづらかっただけです」

 そう、なんとなく――秋斗さんに会いづらい……。

「……何かあった?」

 何か――

「あ……先輩、ひとつ質問をしてもいいですか?」

「俺の質問に答えてないけど?」

「それはあとで……」

 先輩は眉をひそめつつ、

「何?」

「先日、お見合いされたんですか?」

 バサ――

 先輩が手に持っていた本を落した。

「それ、誰に何を聞いたの?」

「えぇと、教えてくれたのは秋斗さんなんですけど、正確にはウィステリアホテルで見かけたんです。秋斗さんと森林浴に出かけた帰り、ホテルでディナーをご馳走になって、先輩が女の子をエスコートしてるところを見かけて……」

 もっと要約できなかったものだろうか。

 なんの心構えもせずに話し始めたら、一言喋るごとに緊張が高まって、話をまとめるどころじゃなかった。

 先日のドキドキほどではないにしても、同種のドキドキが始まっている。

「ほかにも、飛鳥ちゃんがテニス部で噂になってるって話してたから……。でも、噂は信じないほうがいいって佐野くんが教えてくれて、海斗くんが先輩に直接訊けば? ってアドバイスしてくれたので――訊いてみたしだいです」

 ところどころ日本語がおかしいのは自覚している。

 司先輩ならそんなところもことごとく正しにかかりそうだけれど、今はちょっと目を瞑っていただきたい。

「……なるほど。でも、見合いじゃないから。ただ、夏休み中に家庭教師することになっただけ」

 ……なんだ、そうなんだ。

「この間、ここで翠と話してるときに電話がかかってきただろ?」

「はい……。家柄みの付き合いって……」

「それ。ただそれだけだから」

 その言葉を聞いたら胸が楽になった。

 つかえていたものが溶けてなくなったみたいに。

 ……なんだ、直接訊けばよかったんだ。

「で、思い切り話を逸らされたけど、なんで秋兄のところに行きづらいわけ?」

 今度は逃がしてもらえなさそうな目が、私を見ていた。

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