三月二十六日 Side 蒼樹 03話

 翠葉は意識を取り戻すと周りの物々しさに驚いて泣きだした。

「蒼兄っ、おうちに帰りたいっ。入院なんていやっ」

 ボロボロと涙を零し、必死な様子で懇願される。

 そうして感情が昂ぶると脈が乱れ、モニターのアラートがけたたましく鳴り出す。

 誰が何を言っても聞き入れず、その状態が少し続くと事切れたように失神してしまう。

 そんなことが連日、何度も何度も繰り返された。

 翠葉……俺も一緒にがんばるから、今は治療に専念しよう。毎日来るから……。

 俺にはそんなことしかできないけれど、これからはずっと側にいるから、だからがんばろう――




 翠葉が運ばれたのが土曜日。意識が戻ったのが日曜日。そして今日は火曜日――

 大学が休校だったため、朝走りに行ってからは家でゆっくりと過ごしていた。

 朝食が済むと、

「蒼樹、ちょっと三階においで」

 父さんに呼ばれ、いつもはあまり立ち入ることのない三階へと向かった。

 うちは居住空間が一階と二階で、三階は両親の仕事部屋となっている。

 部屋に入ると、ひとつの図面が広げられていた。

 これ、うちの設計図……?

「一階を少し改装しようと思う」

 唐突に父さんが口を開いた。

「リビング脇にある温室を翠葉の部屋に作り直そうと思うんだ」

「翠葉なんだけど、具合が悪いとき、二階から一階に下りるのも危ないのよ。何度か落ちたこともあるわ」

 母さんが心配そうに口にした。

 そんな話は何度か聞いたことがあったけど、「ドジだなぁ」くらいにしか思っていなかった。

「……異論はないよ」

「うん、それでなんだけどさ、翠葉の部屋、三人で作らないか?」

 思いも寄らない提案だった。

 両親のことだから、サクサク進めてあっという間につくってしまうのだろう。そんなふうに思って聞いていたから。

「初めて手がける仕事が妹のためのプレゼントだなんて、なかなかないぞ?」

 少しいたずらめいた顔で父さんが言う。

「蒼樹にできることはなんでもやってごらん。翠葉のために、翠葉がどんな部屋だったら過ごしやすいかを考えながら」

「……いいの?」

「もちろん。蒼樹が手を入れた設計図で足りないところは父さんが補強する」

「……やりたい」

「うん、やればいい」

「ただ、サプライズのプレゼントにしたいから、タイムリミットつきよ?」

 今回の翠葉の入院は前回よりも長引くと言われていた。

 あの日から、まったく血圧の数値が安定しないのだ。ベッドの上で身体を起こすだけで急激に血圧が下がる。ただ上体をを起こすだけでひどい吐き気に襲われていた。

 先生の話では、もともと不安定だった身体が、大きな発作で余計にコントロールの利かない状態になっているのだろう、ということだった。

 そして、その状態がいつまで続くのかもわからない、と。

 通常なら自宅療養という形を取れるはずのところ、翠葉の場合は血圧数値が低すぎて、それより下がる場合は昇圧剤の投与が必要になるため、退院することができずにいた。

「この下図に手を入れろ。それを父さんがチェックして最低限の手直しと補強だけはする。あとはインテリア。造作のほうに力を入れろ」

 翠葉が倒れてからたったの二日で書いたと思われる下図一式をまとめて渡された。

「そうね……。建築っていう面では蒼樹の勉強になるかもしれないけど、実際に翠葉が目にするものはインテリアだわ」

「荒削りでかまわないから、思いつく限りのものを持ってこい」

「はい。……父さん、母さん、機会をくれてありがとう」

 ふたりは顔を見合わせて肩を竦める。

「あのね、白状しちゃうと、私たちも罪滅ぼしな気持ちがないわけじゃないの」

「言ったろ? 蒼樹だけじゃないって……。もしも翠葉が倒れたあの日に、自分がついていたらって思ってるのは蒼樹だけじゃないんだ」

「っ……俺、本当はもっと早くに帰れたんだ。高校に寄らなければっ――」

 ずっと言えなかったことをやっと吐き出せた。

 母さんにぎゅっと抱き締められる。

 こんなふうにされるのはどのくらい久しぶりかわからない。自分が、小学生に戻ってしまったような感覚。

「でも、翠葉は生きてるの。がんばっているの。だから、私たちもいつまでもここに立ち止まってはいられない。翠葉が前に進めるように、支えにならなくちゃいけない。一緒に溺れてはだめなの。翠葉を支えるなら、自分が支柱になれるほどしっかりしないとね」

 その言葉はとても重かった。

 一緒に動揺していちゃいけない。一緒にがんばるだけじゃ足りない。

「だから、これはその一歩だ」

 父さんに頭をくしゃりと撫でられた。

 こんなことを俺にするのは父さんくらいなもの。

 俺の身長は一八〇センチ。父さんは一八五センチ。いつも大きいとは思っていたけど、今日ほど大きいと思ったことはなかったかもしれない。


 水曜日、次の講義まで時間が空いたので、秋斗先輩のもとへと向かった。

 さて、なんと話したらいいものか……。

 翠葉は自分の持病を人に知られることを極端に嫌う。直接つながりがある人ではないし、今後秋斗先輩に出逢う確率も低いだろう。だからといって、本人の意に反することをしていいものか――

 あの日、秋斗先輩が送ってくれなかったら、俺が病院に着いたのは早くても二十分か三十分後だっただろう。それを考えれば、感謝してもしきれないほどだ……。

 まだ病状が安定したわけではない。それに、自分だって、翠葉の病状を聞いてすべてを消化できたわけでもなかった。

 正直、自分が消化しきれていないことを人に話すのは苦手だ。

 申し訳ないけど、お礼だけに留めさせてもらおう。


 カードキーで図書室に入る。と、運よく先日の三人が揃っていた。

「あ、蒼樹。何日振りだっけ?」

 俺はあの日以来ここに来てないどころか、連絡すら入れていなかった。

「先日はどうもありがとうございました」

 ただただ腰を折って深く頭を下げる。

 それは、詳しくは話さない、という意思表明でもあった。

 だから、尽くせる限りの礼を――と、かなり長く頭を下げていた。

「そんな丁寧にお礼されるほど大したことはしてないよ。……大切な友人が困っているのを放っておくほど忙しく仕事をしてたわけでもないから」

 穏やかな声が伝えた内容に少し驚いた。

 今までなら「後輩」と口にしていた部分が「友人」に変わっていた。

「俺らはもう先輩後輩っていうか、友人の域だよね」

 先輩は核心をついて笑みを浮かべる。

「主治医、誰なの?」

 変な角度から突っ込んできたのは湊さん。

「藤宮紫さんという先生です」

「ふーん……じゃ、間違いないんじゃない?」

 話に入ってきたのは司くんだった。含みある言い方が気になっていると、

「藤宮紫――循環器内科の権威よ。主に心臓内科や心臓外科に精通している人。心肺蘇生のスペシャリストでもある。その道で知らない人間はいないわ。紫さんが主治医についたなら安心ね」

 湊さんの言葉に唖然とした。

 あの先生がそんなすごい先生だとは知らなかった。

 ふと、視線を感じてそちらを見ると、カウンターに寄りかかった司くんのものだった。

 たぶんこの視線は、「そのほかの情報はないのか」という視線だろう。

 それを口にしないのは、きっと自分から訊きはしない、という意味だ。

 本当に感心するよ。この年で場も分もわきまえているなんてさ。

 藤宮という家は、こんなこともこの年でわからなくちゃいけないような環境なのだろうか。

 ならば、それに甘えよう。

 悪い……俺には話せない。でもいつか、司くんを翠葉に会わせてみたいとも思う。

 もしそんな日が来たら――そしたら、翠葉に直接訊くといい。

 そのとき、翠葉が人に話せるようになっていればの話だけど。そのくらいには身体が回復して、自分の身体のことを受け入れられるようになっていたらいい。

 そのころには、俺ももっとしっかりと支柱の役割を果たせるようになっていたい――

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