16話

 体調に異変を感じたのは七限を受けている最中のことだった。

 でも、まだ大丈夫……。

 八限は未履修分野の補講時間だから、自分のペースで問題集を解いていくのみだ。

 そう思って、補講が行われる教室へと移動した。

 この時間が終わったら蒼兄に連絡を入れよう。病院へは連れて行ってもらおう。

 動作はゆっくり、それさえ守れば保健室まではたどり着けるはず。

 数学の最後のページを終わらせると、さほど頭を使わなくてすむ教科を探す。

 現国、かな……。

 ぼーっとする頭を片手で支え、ゆっくりと問題を解いていく。その途中、自分の体調分析を試みた。

 身体が熱いのは発熱しているから。椅子に座っているのがつらいのは、血圧が下がり始めているから。

 時計を見ればあと二十分もある。

 早く……早く終わらないかな。

 頭の回転がひどく落ちていて、二十分もあったのに現国の問題集は一ページも進めることができなかった。

 補講時間に解放されると蒼兄に連絡を入れるため、制服のポケットに手を入れる。しかし、手に触れるものは何もなかった。

 かばんの中だっただろうか。

 朦朧としながらスマホを探すも見つからない。

「あ……」

 すっかり忘れていたけれど、スマホは司書先生に預けていて、今は手元にないのだ。


 体育の時間、体育教官室へ向かう途中で司書先生に会った。そのとき、

「翠葉ちゃん、スマホを買ってもらったんだってね」

 と、話しかけられたのだ。

「はい。まだメールと電話とカメラの使い方しかわからないんですけど……」

 言いながらポケットからスマホを取り出すと、

「あ、俺のと同じ機種だね。ねぇ、これ一時間ほど預かってもいい?」

「どうしてですか?」

「翠葉ちゃんが好きそうな着信音や、その他もろもろお役立ち情報を入れておいてあげる。機械仕掛けは苦手でしょ?」

 またしても蒼兄情報か、と思いつつ、事実苦手だし頭はぼーっとしているしで、お願いしてしまったのだ。


「……自業自得すぎる」

 どうして体育の授業が終わったときに気づかなかったんだろう。

 否――気づいたところで図書棟へ行っても、自分がそこに立ち入れるわけではないのだ。

 そこまで考えてため息をひとつつく。

 どうあっても現況が変わることはない。ならば、蒼兄へのメールは諦めよう。

 とりあえず、二階から一階に下りて、保健室へたどり着けさえすればそれでいい。

 そう思って階段を下り始めると、三階から複数の声が聞こえ、階段を下りてくる気配がした。

 もしかしたら二年生の授業が終わったのかもしれない。

 私はゆっくりと階段を移動し、邪魔にならないよう端に寄る。

 手すりを握りしめ、自分の身体を支えている間に一行は通り過ぎた。

 少し静かになりほっとしていると、通り過ぎたうちのひとりがこちらを振り返っていた。

 なんだろう……。

 視界が霞がかっていて、人の顔を判別するのは難しい。

 その人影は徐々に大きくなる。それが示すのは、こちらへ向かって歩いてきている、ということ。

「ふらふらしてるけど……」

 声をかけられたと同時、右脇に手を入れられ身体を支えられた。

 この声――

「……藤宮先輩、ですか?」

「そうだけど……。具合悪いの?」

「少しばかり」

 この人の前では弱みを見せたくなかった。けれども、それは虚勢にしか見えなかったのだろう。

「これで少しばかりっておかしいだろ? 御園生さん、程度問題も言葉で表現できないわけ?」

 あぁ、やっぱり意地悪だ……。

 でも、今回は私に非がある。とてもじゃないけど、「少しばかり」という状態ではなかった。

「これから保健室へ行くところです」

 仕方なく行き先を告げると、

「……それなら保健室まで連れていく」

 次の瞬間には身体が宙に浮いていた。

 人とは、地に足がついていないと不安になるものなのかもしれない。それ以上に、お姫様抱っこという状況が、恥ずかしくてたまらない。

 何よりも、この近距離というか、密着に耐えられそうにない。

 今まで私の周りにいた異性は、お父さんと蒼兄、それから主治医くらいなのだ。

「あ、あの、大丈夫です。歩けます」

「……無理だろ? 視界も怪しい人間を放っていくほど冷血漢じゃないつもり」

 言われた直後、しっかりと抱えなおされてしまった。

 悔しいことに、その先の記憶はない。


 気がつくと、白い部屋で点滴を打たれていた。

 とてもよく見知った部屋。ミントグリーンのカーテンでわかる。

 病院だ……。

 きっと学校から運ばれたのだろう。

 でも……倒れたっけ?

 もう一度目を瞑り、意識が途切れる前のことを思い出す。

 八限はつらいながらになんとか乗り切った。蒼兄に連絡しようとしたらスマホがなくて、最悪保健室にたどり着けさえすればいいと――

 そこまで思い出せば十分だった。

 私は藤宮先輩に運ばれている途中に意識を失ったのだ。

 思い出したら思い出したで、なんとも言えない気分になる。

 人に迷惑をかけた。そして、学校から連絡が入った蒼兄にも心配をかけただろう。

 ふたりを秤にかけるわけじゃないけれど、やっぱり身内ではない分、藤宮先輩に申し訳ないと思う。

 重かっただろうな……。

 意識がない人の身体は恐ろしく重いという。まるで、液状化した人間を運んでいる気分、と蒼兄が言っていた。

 今回はどこで間違えたのだろう。

 最初から学校を休むべきだったのだろうか。それとも、八限を受ける前に保健室へ行くべきだったのだろうか。

 どこで間違えちゃったのかな……。

 熱は何度あるのだろう。

 ひどく喉が渇いていて、唇も熱でカサカサになっていた。

 そこから察するに、三十八度以上はあるものと推測する。


 病室のドアが静かに開く音がした。

 薄っすらと目を開くと、司書先生の姿が見えた。

「気がついた? 気分はどう?」

 どうして司書先生がいるんだろうと思いながら、「大丈夫です」と答える。

「翠葉ちゃん、大丈夫なわけないでしょう?」

 苦笑いを返され、

「筋肉痛みたいに身体が痛くて……少しだけ吐き気がします」

「うん、最初からそう答えればいいんだよ。もう少ししたら蒼樹が来るから」

「……兄は――」

「今、先生と話してるよ」

 それにしても、どうして司書先生がここにいるの……?

「『どうして?』って顔だね。それは僕がここにいることかな?」

 訊かれてコクリと頷いた。

「蒼樹が大学から駆けつけるよりも、僕のほうが早くに動けたから。ただそれだけ」

 理由を聞いて心が重くなる。ここにも迷惑を被った人がいたのだ。

 ……自己嫌悪――

 身体を起こし謝罪しようとしたら、鋭く制された。

「何度あると思ってるの? 三十八度五分だよ? さっきまでは三十九度近かったんだから」

「まだ寝てなさい」と言われ、仕方なく寝たまま謝罪することにした。

「すみませんでした……。ご迷惑をおかけして……」

 司書先生はベッド脇にある椅子に腰掛けると、私のことを観察するようにじっと見ていた。

「なーんか、他人行儀だよね」

 不服そうな声で言われたけれど、事実他人なわけで……。

「ま、翠葉ちゃんにとっては、僕は数日前に会ったばかりの人でしかないわけで、他人と言えば他人なんだけどさ」

 そう言う割には不満げだ。

「僕はもう何年も前から翠葉ちゃんの話を聞いていて、昨日今日の知り合いとは思えないんだよね。こっちは全然他人と思っていないのに、相手は思い切り他人行儀。一方通行っていうか、片思いみたいな感覚に陥るよ」

 少しおどけた調子で話される。

 蒼兄は何をそんなに話しているのだろう。疑問に思っていると、

「蒼樹にするように……っていうのは難しいだろうけれど、もっと甘えてくれていいよ? 頼ってくれていいんだよ?」

 そうは言われても、ハードルが高すぎる。

「翠葉ちゃんは迷惑をかけたと思っているのかもしれないけど、僕はそうは思ってないから」

「……先生っていうお仕事だからですか?」

 訊くと、司書先生は笑いだした。

「言い忘れてたけど、僕、図書室の司書教諭の資格も持ってるからあそこにいるけど、所属は学園じゃないんだ。僕の本職は学園内の警備だよ」

「警備員、さん……?」

「いや、警備員というわけではないんだ。セキュリティシステムの管理って言ったらわかりやすい?」

「あ……はい」

「立場的に先生って呼ばれることもあるけど、正確には先生じゃないし職員でもない。生徒会の顧問っていうのは、体よく押し付けられた感じ。ちゃんともうひとり職員が顧問にいるんだけどね、忙しい人であまり顔を出さないんだ」

 そうなんだ……。

「関わる生徒も基本的には生徒会のみ。けど、蒼樹の妹である翠葉ちゃんや従兄弟、兄弟は別。僕のプライベート関係者と認識してるよ。だから、『先生だから』っていうのは当てはまらない、ラジャ?」

 了解、です……。

 けれど、やっぱりここまでしてもらうのは気が引ける。

 もっと、自分でなんとかできるように対策を立てないと……。

「鳴かぬなら、鳴かせてみせようホトトギス」

 司書先生はにっこりと最上級の笑みを見せた。

 ふと思う。この場に飛鳥ちゃんがいたら大喜びするんだろうな、と。

 でも、今の言葉の意味は……?

 ――甘えぬなら、甘えさせて見せよう翠葉ちゃん……かな。

 うーん……やっぱり、どう考えてみてもハードルが高いです。

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