第5話

 家族共用で使えるよう居間に設置された特別仕様のデスクトップパソコンは、兄がいなくなった頃に新調した。「仕事」に支障のないよう、様々な細工を施しているらしい。「らしい」というのは当時は「仕事」の話を詳しく聞く立場になく、今はその機会がないからで。

 「仕事」に明け暮れる両親には、滅多に会えない。珍しく休日の昼間に会えたと思えば修行を兼ねたバイト先を斡旋されて終わり。そんなものだ。

 おかげさまで修行相手とバイト代には事欠かないようになったが、佐倉が語ったような話は碌に聞かずにきてしまった。

(その割にこの遭遇率……バイト代に加算されないからありがたくもないんだけど)

 居間の隅、天板があるのみのデスクに置かれて唸り声をあげる黒い箱。その隣、黒枠のディスプレイに映るいつものログイン画面に、ほんの少しの違和感。

 緑がかった水面に、水滴。波紋のない水面の画像に、理音は小さく息を吐いた。

 佐倉が巻き直してくれたらしい包帯は、難なく解けた。するりと膝に落ちたそれを右手にとって、左手の小指を噛む。ほんの少しでいい。治る間もなく噛まれる傷痕は、すぐに血を流すから。

 言葉も要らない。

 ただ、一筋。

 薙ぐように、斬るように。指先で撫でた画面が白く光った。

 滴っていた血の痕は、何処にもない。

 広がる波紋の中心に、水滴。いつも通りのログイン画面に戻ったことを確認して、詰めていた息を吐く。

「コーヒー、淹れようかな……」

 応えるように、画面に浮かぶ水滴がきらりと輝いた。


 * * *


 遠くを見はるかすまなこには、手に持った缶からくゆりたつ湯気は映らない。左手に続く植え込みのずっと向こうを見ていた。

「『かぎろひ』か。言い得て妙だな」

「こんばんは」

「遅かったね」

「兼業なもので。――進路希望調査、未提出でしたよ」

 そうか、と答える声は、淡々としている。

 少しくらい、慌ててくれても良いのに。否、慌てるような親であれば、そもそも進路希望調査も期限内に提出されていたのかもしれない。

 「もしも」話はいくらしても無駄だと、10年足らずの教師生活で学んだ。

 午後8時。駅徒歩5分圏内の歩道には、ところどころに居酒屋や夜も営業している喫茶店などもあり、それらの店に入る人もあれば、奥の住宅へ向かう人もいる。並んで歩き出せば、あっという間に駅を出て家路につく人々に紛れてしまう。

 乃木理音。高校2年生。両親と同居していて、兄は家を出ている。成績は中の下。部活には入っていないが校内で孤立している様子もなく、目立った問題もない。所謂可もなく不可もない、ごく普通の女子高生。の、筈だがどこかに引っかかりがある。気になるのに、気になる理由に思い至らない。すっきりしない。

 そう、思っていたのはいつまでだったか。

 彼女が進級し、担任になってしばらくした頃、この道を帰る途中で隣の男に声をかけられた。当時もいまも、夏も冬も大して変わらない、黒い羽織に、黒い地下足袋。

『君、えるんでしょう』

 そうだ、乃木、という苗字に引っかかっていたのだ。ふと気づいて、足を止めた。

 それから今まで、欠かさず隔週で顔を合わせている。

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