創世記リバイバル

第1話改

 終鈴の鳴る廊下を、あきらは歩く。

 授業を途中で放り出して見知った気配を追いかけて来てみれば、事務室前の薄暗い廊下には、部活の後輩がひとり、佇んでいた。持ち上げて見つめる左手、小指には包帯が巻かれている。

「あれ、包帯」

 名前も呼ばずにどうしたのかと問い掛ければ、こちらを見やって、後輩――理音りおは苦笑いをよこした。

 誤魔化された、と思う。

 皓は見ていた。自らの左手を見つめながら理音が幸せそうな表情を浮かべていたことを。もう一人、彼女と付き合っていると噂されている後輩の左手小指にも、やはり包帯が巻かれていたことを。

「怪我でもしたの?」

「まぁ、そんなところです」

河内こうちも同じところに包帯巻いてたんだけど、おまじないだ、って言ってたんだよね。理音ちゃんのもおまじないなの?」

 首を傾げてもう一人の後輩の名前を出して訊ねてみれば、理音はただ黙りこくったまま、何も言わない。表情も、苦笑いのまま。

 理由は言えない、か。

 ふむ、と背を向けると、裾を引っ張られた。視界の端に、包帯が見える。

「あのっ、佐倉先輩っ」

「何?」

 振り向けば、頬を紅潮させた理音が、いくらか不安げに皓を見ている。

 河内と付き合っているくせに。

 胸をかすめた黒い感情に、皓は自嘲気味の笑みを浮かべた。

「先輩は――」

「おー、乃木、いいところにいた。ちょっと頼みがあるんだが」

 事務室から出てきた担任に呼び止められた理音に謝れた皓は、またねとだけ返し、その場を後にした。



 * * *


 事務室を出て、進路希望調査か、と担任に催促された書類を思い浮かべる。正直なところ、世間一般的な進路が望めるのかどうか、わからなかった。父も母も、控えめに言えば、一般的な職についているわけではないので。

 先程皓に声をかけられた廊下には、河内がいた。影が、伸びている。

「河内くん」

「うん?」

 前を行く河内を呼び止めると、理音は左手を顔の前にもってきた。振り向いた河内の眼前で、左手小指に巻いた包帯を口で挟み、くるくると掌をかえして理音は解く。

 ぽたり。

 ぽたり。

 ただ白かったはずの包帯を解けば、床に広がる、赤い、赤い、血。それを見ることもなく、ただぼんやりと、河内は理音の口許を眺めている。

「いつも困ってたの。『おまじない』教えてくれてありがとう。助かりました」

 艶然とほほ笑み、理音は言う。ゆらゆらと、炎とも違う、けれど、蜃気楼とも違う何かを身にまとって。

 つい、と伸ばされた指先が、河内を指し示す。

「でも、サヨナラ。あなたがいると、困る人がいるんだ」

 にこりと笑い、理音は河内の手前の空間を指先で薙いだ。ゆらりと崩れた空間が、河内と混ざって、そうして、袈裟掛けに斬られた異形が姿を現した。

 碧い血を頬に浴びて、理音は小さく呟く。

 ごめんね。


 はじめてソレに気付いたのは、いつだったろう。

 視界を過ぎる異形に思わず振り向くようになったのは、いつからだったろう。

 噛み切る指先、滴る血。

 それらが彼らに対する武器になると教えてくれたのは、たしか兄だった。

 訊けば、代々の家業だという話だった。父も母も兄もそんな素振りは全くと言って良い程見せなかったのに、不思議とすんなりと納得できたのは、血のなせる業だったのかどうか。

「いいかい、理音。僕達がするのは封印なんかじゃない。――抹殺だ」

 こわいかお。

 たしかそう言った気がする。苦笑いを浮かべる兄に、小さく笑って誤魔化したけれど、とてもこわいと思ったあの感覚を、今でも覚えている。

 正直、あれに比べれば異形のモノたちなどなにほどのこともない。

 けれど、その兄も任務の途中に行方がわからなくなって、そのままそろそろ七年になる。死亡宣告を出すことを本気で両親と相談し始めた矢先、妙な噂が耳に入った。霧の街中で、蜃気楼の立つ道で、兄の姿を見かけたと。それらの噂は必ず、「急に現れて、急に消えた」という言葉とセットになっていた。両親に言わせると孵化していないらしい理音の能力なら、或いは。或いは、兄を探すことができるかもしれない。

 今から2年前の春のことだった。



 * * *



 皓は息を吐いた。

 事務室の上階、中庭を挟んで反対側の廊下から見下ろす先に、一人と一つの影。命のない、少年の姿をしていたモノと、それを屠った少女。

 あぁ、そうだ。僕は、何を忘れていたのだろう。

 彼女の一挙手一投足に一喜一憂していた自分を、低く、哂った。

 ゆらりと背から立ち昇る、炎とも似つかない、それが纏わりついた左手を一度振り、彼はもう一度、低く哂った。光の軌跡が、宙に文字を描く。

「ねぇ、理音ちゃん。僕を、支配できる?」

 所詮遣い魔として生まれた自分のことを、彼女は知っているのだろうか。いや、知らないのだろう。

 けれど未分化の彼女なら、或いは。或いは、以前の彼の主よりはるかに彼を遣いこなすのやもしれない。

「――!?」

 急に顔を上げてあたりを見回し、そうして自分と目が合った理音に、皓は笑ってみせた。

 理音はただ、呆然と彼を見る。

「……佐倉先輩?」

 ヒトとしての名を呼ばれ、皓は艶やかに笑う。

「見えるんでしょう? 理音ちゃん。僕の、魂が」

 ヒトでない僕の魂が。だから、振り向いたんでしょう?

 蒼とも白とも言えるような、炎とも似つかないそれを振りかざし、皓はただ、唇をゆがめた。

 知らない。こんな先輩、知らない。

 逃げ出したい気持ちと、義務感とに板挟みにされて、理音はゆるゆると頭を振る。

「……嘘」

「嘘じゃない」

 微笑む皓の顔を、正視することができなかった。

 弱ったなぁ、と言いながら、皓が音も立てずに理音の隣に降る。

 皓が理音の額にくちづけたのとほぼ同じ瞬間、鈍い音が、した。

「……やめて……」

「やめないよ」

 だって僕は理音ちゃんのこと好きだし。

 にこりと笑った皓の胸から、じわり、じわり。

 血、が。

「やめて!!」

 叫ぶ理音の左手を、滴る、赤い、赤い。

 血。

 にこりと笑った皓の顔が、どこかしら、懐かしく思えた。

 傾いだ視界の片隅、ちらりと垣間見た皓が消えてしまいそうに思えて、手を伸ばした。

 途切れた意識の手前、呼ばう声は誰のものだったか。

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