剣霊喰い《ブレードイーター》は満たされない

皇緋那

Diamond

第1話『ハングリー・ウェイクアップ』

 あたりは薄暗かった。


 閉め切られたカーテン、厳重に施錠された扉。壁には気持ち悪いくらい少女の写真がびっしりと貼られていて、そのうちのいくつかにはなにかの液体が飛び散って乾いた跡がある。その中には赤黒く変色した染みもある。


 私はもう何日もこの景色しか見ていない。日差しが恋しい。

 あのカーテンを開けて、できることなら窓を叩き割り、道路に飛び出してでも外の空気を吸いたかった。


 だがそれは無理な話だ。逃げようとしたらあいつがやってくるし、声をあげようにも喉が胃酸にやられて痛い。

 吐いてばかりでまともにものを食べていないせいで、抵抗する力もない。


 ​──おなか、すいた。


 せめて死ぬ前にもう一度くらい、大好きなパンケーキが食べたかったな。


 叶いそうにない願いを抱きながら、私はゆっくりと目を閉じることにした。

 でも、目を閉じたところで全身の痛みも空腹感も消えてくれるわけはない。


 なにも入っていない胃がぎゅるると鳴って、ああ、死にたくないな、なんてぼんやり思いながら、私は意識を手放していく。


 ◇


 ​目を開くと、そこには清潔感のある白い天井があった。

 どうやら夢を見ていたらしい。詳しくは思い出せないが、なんだかとても腹が減っていた。

 耐え難い空腹感がして、は​目を覚ましたようだ。


 ベッドから起き上がり、部屋を見回す。

 食べ物は見当たらない。置いてあるものは、高貴なデザインの家具一式、一頭身のぬいぐるみ、大きな窓の向こうには、どんよりとした雲と、中世ヨーロッパめいた街並み。


 ここは私の自室だ。しっかりと記憶にある。だが、実感がなく、私の家はここではない気がする。でもこの部屋で過ごした記憶もあり、頭がこんがらがる。


 わけはわからないが、確実なことはひとつ。私は腹が減っている。

 立ち上がってみて、いつもよりもやたらと視点が低いような気がしつつ、通りすがりに姿見で自分の姿を見てみた。


「え……誰?」


 鏡に映るのは、深い紅の髪を持った少女である。切れ長の瞳はキツい印象だが、顔立ちは整っている。将来は美人になるだろう。

 本当にそれが自分なのか疑わしくなって、髪の毛を引っ張って視界に入れる。なるほど確かに紅だ。


 歩みを止め、息を深く吐いた。確認のため頬をつねってみた。鏡の中の少女も同じ動きをし、痛そうな顔をする。実際痛かった。


 いったん落ち着いて考えよう。混乱する思考を整理する必要がある。


 私の名前は​──そうだ。​『剣屋依刃つるぎやいば』のはずだ。

 日本に暮らす一般的な女子高生で、大好きな両親と一緒に幸せに暮らしてきた。もうすぐ修学旅行だと浮き足立っていた記憶がある。肝心の修学旅行の記憶はないが、まあ、今は記憶を探る必要もないだろう。


 それと同時に、もうひとつの違う者の人生が脳裏に浮かぶ。それは紅の髪を持った、まだまだ幼い少女。

 名前は『エヴァ・フォン・スペードル』だ。

 両親に愛されていることに変わりはないが、こっちは肩書きが女子高生ではなく、貴族の令嬢ということになっている。あたり一帯の領主の一人娘かつ親馬鹿気味の父母で、溺愛されていたことだろう。


 女子高生・剣屋依刃だったはずの記憶と、令嬢・エヴァとしての記憶。外が中世ヨーロッパらしき光景であること。

 両方を踏まえると、これはあれではないだろうか。


 ​──異世界転生。


 アニメなんかで少しだけ聞いたことがある。なにかの拍子でゲームの世界なんかに入り込んで生まれ変わってしまったのだ。そしてたった今、依刃としての記憶を思い出した。


 自分の身に降りかかるなんて夢にも思わなかったし、元々そうなりたいと思ったこともさらさらない。

 それなのに、私はどうやら日本からこちらの世界に転生してしまったらしい。


 いったいどうして?

 こういう話ではだいたい神が関わってきたりするが、何を考えて私だったのだろう。


「……いいや。おなかすいた」


 答えの出ないことなんか、考えるのも面倒だった。

 そんなことよりも、今はとにかくなにか口に入れないといけないという欲望が強い。


 自室を出て、エヴァの記憶を探りながら台所へと向かう。身体は小さいが、きちんと私の言うことを聞いてくれるのが幸いだ。

 確かこっちの方におやつをしまっている棚があったはず。そちら目掛けて一直線に、ちょっぴり早足で歩いていく。


「あ、エヴァちゃん。おはよう、お昼寝はもういいの?」


 その途中でばったりと、同年代の女の子たちと出くわした。つぶらな瞳をした水色の髪の子と、黒い髪に褐色の肌が特徴の子の二人だ。


 名前は知っている。

 水色の方が『メリーメオン・ディアモント』。

 黒髪褐色の方が『グラファイト』という。


 二人ともエヴァの​──私の友人で、幼馴染みと言えるだろう。私の産まれたスペードル家とディアモント家は代々主とそれを守る騎士の関係にあり、もっと前から仲良くしている。


 私は首をかしげるメリーメオンに対して、なるべく今までと変わらないエヴァであるように気をつけながら答えた。


「ちょっと、お腹が空いて目が覚めちゃって」


「えっ? でも、おやつはもう食べちゃったけど……」


 首を傾げるメリーメオン。確かに、一番新しいエヴァの記憶にはふわふわのパンケーキの記憶があるし、たぶんお腹にはまだ入っている。でも空腹感が私を襲っているのだから仕方がない。

 なんとかごまかして、明日のおやつでも食べさせてもらえないかなぁと思っていると、グラファイトが口を開いた。


「そういえばさっき、いつものお菓子屋さんからいい匂いがしてた。たぶん今なら出来たてのアップルパイ」


「ほんと!? 私、ぜんぜん気が付かなかったよ」


「メリー、鼻、詰まってる」


「そうかなあ……?」


 二人は仲の良い様子で談笑している。

 そうして幼く可愛らしい少女たちが醸し出す雰囲気は微笑ましいものだ。今は私も同年代なのだが。


 メリーメオンとグラファイトの二人に、遊びに行くがそれでいいかと聞かれ、私は頷いた。

 依刃とエヴァが混ざったせいで記憶が混濁しているのか、この世界についてもかつての世界についても詳細はぼんやりしている。親しい友達というガイド付きで街を回るのも、この生活に慣れるのならば丁度いいはず。


 通りがかった使用人に出かけてくると伝えると、仕事中だったろうに恭しく礼をしてくれた。


「エヴァお嬢様、いってらっしゃいませ。メリーメオン様とグラファイト様がご同行なさるならば大丈夫でしょうが、近頃街には魔剣が出たという噂もあります。暗くなる前にお帰りくださいね」


 貴族の娘が同年代の子供三人だけで出かけるのを認めるとはどうかと思うが、その点は二人がなんとかしてくれるらしい。彼女たちは魔法使いか。異世界転生後の世界ではそれも有り得ない話ではなかろう。


 しかし、魔剣が出る噂というのは少し引っかかった。普通はその位置には魔物か変質者が来ないだろうか。魔剣はそんな野生動物のように街中にあっさり出没するものなのか。


「ほら、行こう……? エヴァちゃん、アップルパイ大好きだったよね」


 エヴァの記憶によれば、日本に比べて著しくメシがまずいなんてことはないはずだ。エヴァの舌が正しければむしろ美味しい。特にお菓子は大好物のようで、思い出すだけでよだれが出てくる。

 なによりも、このお腹がめくれ上がるような空腹を少しでもごまかせるならありがたい。期待を胸に、私はメリーメオンとグラファイトについて屋敷を出ていく。

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