第14話招かざる客
ランチを前にして、多少機嫌が良くなったエーミルに、私はレモン水をグラスに注いで渡した。
レモン水は、イギリスに来てからよく作るようになった。大きめのデキャンターにミネラルウォーターと、無農薬で作ったレモンを皮付きのまま輪切りにして入れておく。ミネラルウォータにレモンの風味がついて、食事のお供にぴったりだ。
今日は、マリアが数日前にもぎ取ったばかり、と言った無農薬のレモンを使っている。
どこで、レモンをもいできたんだろう。キッチンには、バジル、パセリ、ミント、レモンバームが有名コーヒーチェーン店のテイクアウト用カップに植えられていたが、レモンの木はどこにも見かけていない。
マリアは、燻製ソーセージと燻製ハムのパイを切り分けて、自分の取り皿に乗せていた。とろっとした赤ワイン色の煮汁が、切れ目から滴り落ちる。スパイシーな香りが周囲に広がる。
「すっごく美味しそう」
彼女は、優雅な手つきでパイを一口大に切って口元に運ぶ。
「スパイスが効いたソーセージと、煮汁が染みこんだジャガイモが美味しい……!パイ生地もさっくさくだわ」
マリアが感激している。
「マリア、野菜も食べなよね!」
隣に座っているエーミルが、甲斐甲斐しくマリアの取り皿に燻製鱈とセロリのサラダを盛り付ける。マリアは他人に給士されることを気にしないようだ。
エーミルは、自分の皿にもサラダを盛って、食べ始める。
「……美味しい……人間のくせに……セロリがしゃきしゃきしてて、食感が楽しいし、時折紛れてくるリンゴの甘酸っぱいのが良い」
エーミルも気に入ってくれたみたいで、私はほっと胸をなで下ろした。さっそく、オニオンスープに口を付ける。タマネギの香ばしさと、甘さが口に広がる。
あ、これチーズ入れても良かったかも。グリュイエールとか、オニオンスープの中でとろっととろけて、掬い上げたときに、チーズがとろーんと伸びて。
マリアもエーミルも用意した食事は、全部食べてくれた。良かった。共同生活でお互いに作る食事の味が苦手だと、色々やりにくい。
ミトンも満足そうに一声鳴いて、どこかに行ってしまった。
「これは、夕食も楽しみね」
マリアの花のほころぶような笑顔を向けられて、夕食も頑張って作ろう、と私は思った。割と単純だけれど、元彼は絶対に言ってはくれない言葉だった。
食事の後片付けをしていると、階下の住人用通用口の扉のブザーが鳴った。わざわざブザーを鳴らしての来訪する客は、あまりこの家に来ない人だ。
常連客は、鳴らさずに勝手に上がってくる。
応対は、スミスさんがしているみたいだけれど、スミスさんの困惑した、迷惑そうな声が聞こえてくる。入ってこようとする人を押し止めようとしているみたい。結局、押し切られたのか力強く階段を登る音が聞こえてきた。
スミスさんは、上品に階段を登るので、あんなに響く音を立てて階段は登らない。
「ナオ・ニレイは居るか!」
けたたましく二階の扉を開けて入ってきたのは、元彼のビルだった。ビルの後ろから、スミスさんがいらだちを隠せない表情をしているのが見える。
こいつ、行き先を教えていないのに、なんでここを。
「どうして、ここに来たの?教えてないはずよ」
「お前の友人にきいた」
私がここに住んでいることを知っているのは、住人以外はリタしかいない。リタのお人好しめ……!
「ご用は?」
「俺の子供が生まれるんだ、出産祝いを受け取っていないと思ったから、もらいにきてやった」
「浮気相手の子供が生まれるのを、祝福するいわれはないわ」
子供の誕生はおめでたいと思う。でも、浮気相手の子供の出産祝いをあげるなんて、私にはできない。
「俺に口答えする気か!人でなし」
人でなしは、私が貴方に言いたい言葉だわ!
ビルは、その長身を生かして私をわし掴みにしようと手を伸ばしてくる。とっさに身を縮める。
私が捕まれることは無くて、代わりに床に重い物が倒れる音がした。
ビルが足を押さえて床に転がっている。いつの間に居たのか、ビルのすぐ横に長くて華奢な足を振り上げていたマリアが、足を戻した。
え?マリアが、蹴り倒したの?
「警察呼んだわ」
マリアは、何もしてません、と言った表情でスマホを耳に当てている。逆上したビルが、標的をマリアに変えて襲いかかろうとすると、今度は、エーミルがビルに華麗に跳び蹴りをしていた。
「僕のマリアに何しようとしてるの!」
あまりの連係プレーに、スミスさんはぽかんと口を開けて見ている。その後ろから、今朝来たセイヤーズ警部が階段を登ってくるのが見えた。
「なんだ、騒がしい」
「この男、ナオに暴力振るおうとしたのよ」
「暴力を俺に振るったのはお前だろう」
「正当防衛だわ」
セイヤーズ警部は、肩をすくめて私を見た。
「その人、突然この家に押し入ってきて、言いがかりを付けてきたんです」
スミスさんも大きく頷いているので、セイヤーズ警部は、私たちの言い分を信じてくれたようだ。
「俺はスコットランドヤードの……」
セイヤーズ警部が、警察手帳を出して名乗ろうとしたところを、ビルが慌てて逃げ出していく。階段を転げ落ちるようにして、階下まで行き慌ただしく玄関から出て行った。
「逃がして良かったか?」
セイヤーズ警部の問いかけに、私は頷いた。私は何かされたわけじゃないし、下手すると過剰防衛と言われて、マリアやエーミルが罪に問われそうだ。
「それにしても、あの短時間でよく電話できたのね」
私が感心して言うと、マリアはしれっと言った。
「電話はしてないわ。セイヤーズ警部が昼にもう一度来るだろうと思っていたから、ちょうどよかった」
電話……してないの?じゃあ、セイヤーズ警部が来なかったら、どうするつもりだったのかしら?
「さぁ、警部、中に入って」
マリアは戸口に立っているセイヤーズ警部を共有スペースに招き入れた。
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