懐の深すぎる婚約者
「ねえ、これ何?」
「ああそれ。その歯ブラシは捨てていいやつ」
「いや、捨てていいとか悪いとかじゃなくて……」
わたしはため息をつきながら、彼のほうを見ます。
ここは彼の暮らすアパート。
彼の物なら好きにすればいいとは思うのですが、わたしは彼の婚約者です。
たまに来るわたし用のもの以外に、3つも4つも歯ブラシが並んでいると、さすがに怒らざるをえないでしょう。
「浮気?」
「いや? 浮気なんかしてないよ」
「じゃあ誰が使ったわけ?」
問いつめるわたしに、
「うーん、名前は聞かないから知らない。ツイッターで助けを求めてる子たちをひと晩泊めただけだから」
「やっぱりそういうこと……」
わたしは、怒るに怒れない気分になりました。
いえ、怒るのが普通なのでしょうけど……。
なぜなら、わたしもそうやって彼に助けられた女性のひとりだからです。
元カレのDVと付きまといがひどく、警察もまともに取りあってくれない状況でした。
ツイッターで夜中に助けを求め、匿ってくれたのが彼だったのです。
そのとき彼と何かあったわけでもないので、他の女性にも何もしていないとは思うのですが……。
やっぱり、婚約者がいても同じことをするのは、どうかと思うわけで。
「そのうち大変なことになると思わない?」
「え? 未成年はさすがに公的機関に動いてもらうから、ぼくが誘拐とかで捕まることはないよ」
「そうじゃなくて、わたしのこと。浮気じゃなくても気分よくない。婚約者の心のケアは?」
わたしの言葉に、彼は目を丸くしました。
思ってもいないという表情です。
「きみは、ぼくが人助けすることに反対なの?」
「これは反対」
「何も、きみが来ているときに泊めるってわけじゃないよ。ぼくひとりのときに、部屋がひとつ余るし……」
「知ってるけど、やめてほしい」
言える筋合いではないのかもしれません。
お前だけが救われたらそれでいいのか、と誰かに言われたら、黙るしかないのかもしれません。
でも、嫌なものは嫌。
「わたし、あなたがやめないなら、婚約破棄したい」
これでもやめてくれないなら仕方がない、という思いで言いました。
賭けというより、あきらめに近い気持ちです。
すると彼は、ぱっと明るい顔になり、
「子が巣立つ親鳥ってこんな気持ちなのかな。あんなに依存心の強かったきみがそんなこと言いだすなんて、本当に嬉しい」
仏のような表情でわたしに微笑みました。
「……わかった。じゃあ婚約は取り消しね」
「うん。きみが去ることで助けられる子の数も増えるから、これも人助けのひとつだね。ありがとう」
彼にかかれば、婚約破棄も人助けになるそうです。
「あなたって何なの? 正義の味方?」
「うーん、違うと思う。たんなる駆け込み寺」
「なるほどね」
人じゃなくてお寺。
婚約したのが間違いだったんですね。
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