婚約破棄を忘れないで

「ごめんごめん、婚約破棄するの忘れてた」


 ファミレスに呼びだされた彼は、ぺこりと頭を下げました。


 彼はわたしの婚約者です。

 彼のほうでは、わたしのことは過去の婚約者になっているみたいですけど……。


「は? 冗談でしょ?」

「だからごめんって。おれ、結構大事なことも忘れちゃうほうでさ。ほら、前にも話したよね。超好きなゲームの続編を予約したの忘れてて慌てて取りにいったら、お金なくてキャンセルしたの忘れてた話」


 それは何度も聞いたエピソードでした。


「わたしとの婚約をゲームと同列に語らないで」

「あ、いや、ゲームはキャンセルちゃんとしてたから――」

「そういう問題じゃないの!」


 わたしはファミレスで声を張り上げました。

 にぎわってざわざわしているのでとくに気にする客はいません。


「とにかくあなた、婚約中に浮気したのよ?」

「婚約破棄し忘れてただけだから浮気じゃない。普通に新しい彼女ができたつもりだった」

「彼女……」


 その言葉に普通に傷つきました。

 わたしはまだ彼のことが好きだったようです。


「わたしはどうするのよ」

「どうって、彼女に悪いしどうもしないけど」

「彼女のことは考えないで。わたし婚約者だよ?」

「そんなこと今さら言われても……」


 わたしが彼を困らせているような空気になっています。

 それは違うと思うのですが。


「婚約破棄忘れてたのは本当にごめん。だからもし、きみとまた付き合うなら、彼女とちゃんと別れてからにしないといけない。でもなあ」

「わたしと彼女とどっちが好きなの?」

「うーん……今は彼女かな……」

「そっか……」


 わたしは急に怒りがしぼんで、言葉が出てこなくなりました。

 そうだよね、婚約破棄を忘れるくらいだし、その程度の存在なんだよね。


 人の記憶には、ひとつひとつ、重みの違いがあるはずです。

 心の中の優先度に沿って、忘れないことと、忘れてもいいことの選別をしているのだと思います。

 彼はきっと、「忘れないこと」が人より少ないだけ。

 そこから溢れてしまったわたしは、もうすでに彼の人生から退場していたのかもしれません。


「おれちょっとトイレ」

「うん」


 席にひとり残されたわたしは、大きくため息をつきました。

 窓の外をぼんやりと眺めていると、いろんな人が通りすぎてゆきます。


 若いカップル、老夫婦、男ひとり。

 女ひとり、若いカップル、子連れ。


 わたしも、ひとりで歩くことになるんだろうな……。

 そんなことを漠然と考えていると、


「あれ? 今の……!」


 彼が外を歩いて行くのが見えました。


「逃げられた⁉︎」


 一瞬そう思ったのですが、目のまえの彼の席には、スマホやバッグが置かれたままです。

 誰か知り合いを見つけて追いかけていったのかも――


「あっ違う」


 わたしは気づきました。

 きっと、この席でわたしと話していたことを忘れ、トイレを出てそのまま帰ってしまったのです。


 彼にとっては、この話しあいもその程度のことだったのでしょう。


 もう婚約破棄は受け入れます。

 抵抗しても、彼の心は覆せそうにないから。


 でも――


 新しい彼女も、きっとすぐに同じ目に遭うに違いありません。

 わたしにできるのは、忠告しないこと。

 彼女に余計なことを言わず、このまま黙って退場するのがいちばん効果的だと考えました。

 普通にしていれば、きっと彼女も忘れられるでしょう。


 わたしは、一日でも早く彼を忘れて、新しい恋を見つけることを心に決めました。

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