第十二話 なにもかもなにもかも

前回のあらすじ


なにもかも、なにもかも、すべてがすべて、凍り付く。

押し寄せる白に、何もかもが吹き飛んだ。






「……やれやれ」


 今日はずいぶんと喋り過ぎた。

 アンドレオはMAEVの狭いコクピットでため息をついた。

 手足を動かすのも一苦労の棺桶のような狭苦しさは、しかし懐かしく、心地よい。

 かつては、宿舎で横になるよりも、MAEVに抱かれて眠る時間のほうが長かった。


 コクピット内は肌寒ささえ覚える寒さだが、ディスプレイに表示された外気温が正しいのであれば、マイナス一兆二千万度という常軌を逸した低温に比べれば何ということはない。

 これであれば、かつて王都の外殻に張り付いていたころのほうが、よほどに寒かった。

 MAEVの温度調整機能に事象変異に対抗できるような規格外の能力がないことを思えば、情報素結晶体を用いて事象変異を引き起こしているこの中枢部分には影響が及ぶものではないのか、あるいは、絶対零度を超えた低温が、空間や時間の流れそのものさえ狂わせているのか。


 なんでもいい。

 アンドレオにとって大事なのは、おおむね予定通りに事が運んだという事実だけだ。


 アンドレオには専門的な知識がない。

 情報素結晶体についても、事象変異操作技術についても、学んだこともなければ、学ぶ機会もなかった。

 その許しも、なかった。

 アンドレオは罪人の子孫だった。その子孫の、子孫の、子孫の、数えきれない果ての末裔だった。

 直接の血縁ですらない。生命資源交配の資格さえないから、ひたすらに遺伝情報を繰り返されてきた合成種でしかない。

 人権がないその身は、聖王国人が木偶と呼んでさげすむ合成人間どもと何ら変わるものではない。


 だがそんなアンドレオにも、機械工学の知識はある。

 極限環境下での故障や不具合も、すべて自分たちで解決しなければいけない以上、エンジニアリングは必須の技術であり、知識だった。

 精密機械を一から生み出すことなどできないが、自分の好きなように調整することは造作もない。


 だから、あの男が、ウルカヌスが演算機能を補助するあのヘルメットの調整を依頼してきたのは実にちょうど良かった。

 アンドレオはヘルメットを完全に調整し、そして少しだけ細工をした。

 MAEVに搭載された演算装置と同調し、事象変異操作を行わせる。

 あまりに複雑な演算をさせれば、負荷が大きくなってすぐにばれたことだろうが、アンドレオに必要だったのは単純な操作だけだ。


 コンテナ内の情報素結晶体を連鎖反応させ、そのエネルギーをもって反応を継続させることで一種の情報炉として機能させること。

 そして余剰エネルギーを外部に放散させず、MAEV周辺にとらえて離さないこと。

 この二つだけだ。

 これによって情報素結晶体連鎖反応速度を緩やかにさせ、その総エネルギー量を減衰させると同時に、周辺一帯へ及ぶはずだった被害をこの機体に集中させる。

 知識のないアンドレオには、それがせいぜいだった。


 雪崩を引き起こして目くらましをしたアンドレオは、そのままMAEVを操作して、臥竜山脈へと向かう。その絶壁のごとき山肌へと臨む。

 あれしきで連中はくたばることはないだろう。村への被害も、最低限に抑えてくれることだろう。

 ウィザードクラス二人がいれば、しのげる程度だという計算結果が出ている。

 いまMAEVが背負い込んでいる事象変異現象から考えれば、あんなものは余波どころかおまけのようなものでしかない。


 臥竜山脈……北大陸と東西大陸を隔てる、巨大な隔壁のごとき連山。

 標高三万五千フィートに及ぶこの絶壁は、飛竜でさえもまともに突破することができない限界世界だ。

 だが、かつてアンドレオはこの壁を超えてきた。このMAEVに乗って、聖王国からこの地までやってきた。

 あのときは仲間たちもみな脱落し、自分も死を覚悟したものだったが、いまはその心配もない。

 死は前提だからだ。

 アンドレオは死ぬために歩いているのだ。

 氷精晶グラツィクリスタロを引き受けて、処分するのはついででしかない。


 村で生きはじめてしばらく、村長から知らされたのが、氷精晶グラツィクリスタロの備蓄だった。

 村の秘密を明かされたのは、信頼のあかしだったのだろうか。あるいは、亡き妻の縁故あってのことか。

 備蓄量は莫大で、いくつかの倉庫に小分けにされたうえでも、臨界が近いことは見て取れた。そしてそれは、村長自身がよくわかっていた。


 当初はただ、氷室としての活用だった。

 やがて子爵の支配を受け入れ、税として支払い、商売の種となった。

 備蓄量は徐々に増えていった。

 不作への備え、急な出費への備え、備え、備え、備え。

 崩されることもなかった備えは、気づけば増え、貯まり、積みあがった。

 もはや迂闊に切り崩すことさえも困難なほどに、それは山となった。


 村長は口に出さなかったが、その備えは、内政のためだけのものではなかった。

 氷精晶グラツィクリスタロの流通量を握ることは、経済への攻撃になりえた。

 直接的に使ったとしても、氷精晶グラツィクリスタロは十分に武器となりうる危険な物質だ。

 そしていざとなったときに、この村はその武器を使うことに、ためらいはなかっただろう。


 領主への不満、不平、何よりも、嫌悪と恐怖。

 開拓者であった彼らの祖先は、法の外を生きる人々であった。

 だからこそ、見た目上は臣従したとしても、その心根は心底だった。

 自分たちの世界を築き上げた。自分たちの力だけで築き上げた。

 領主など、あとからその利益に目を付けた輩に過ぎない。

 構わないでほしかった。放っておいてほしかった。


 だからこそ、握った武器を置くことができなかった。

 捨てることができなかった。減らすことさえ恐れた。

 いずれ破綻すると知りながら、だれも止められなかった。

 握りしめた拳を解きほぐすものを、この村は結局いまだに見つけられなかった。

 見つける気さえ、なかった。


 アンドレオは、その氷精晶グラツィクリスタロをすべて強奪した。

 MAEVの機動力で倉庫をめぐり、コンテナに詰め込めばそれで済んだ。

 村は備蓄を失ったが、もとより表ざたにはできない隠し資産だ。最初からなかったものと思えば実害もない。


 もっとも、ただ奪うだけでは、氷精晶グラツィクリスタロのやり場がなかった。

 いつ暴発するかわからない危険物を抱えて移動するだけでも、危うかった。

 だから考えてはいても、これまで実行には移せなかった。


 だが、奇跡は重なるものらしい。


 二十年かけて修理していたMAEVのシグナルを追ってやってきたあの男。ウルカヌス。

 聖王国の工作員だというだけでなく、最新の事象変異操作演算機器さえ携えてきたウィザード。

 男の素性を知った時から、アンドレオは考え始めていた。

 手段が向こうからやってきてくれたのだ。その時が来たのだと思った。


 間もなくして、ウルカヌスの警戒するという現地の魔術遣いがやってきたときは、条件がそろったと感じた。

 聖王国に対しての愛着はなくとも、惰性で続けていた情報収集に、森の魔女と盾の騎士の名はあった。

 到底信じられぬような尾ひれと与太話を付け加えられた噂話から、信頼できる事実だけを抽出し、ウルカヌスからの情報と掛け合わせて、評価を出した。

 能力的にも、人柄的にも、連中は使える。

 それがわかれば、アンドレオにためらいはなかった。


 ずっとこの時を待っていたのだ。

 ずっと、ずっと、この時を。


 アンドレオはMAEVを操り、雪さえ積もらぬ高高度の黒壁をよじ登っていく。

 機械仕掛けの六肢は、かつてそうしたのと変わらぬ調子で、着実に絶壁を攻略していく。

 細かな凹凸を見つけては足掛かりとし、電磁加速された金属杭を打ち込んで頼りとしながら、ただただ黙々と上り詰めていく。


 静かだった。

 とても静かだった。

 MAEVの駆動音と、時折のアラート音だけが、どこか遠く聞こえる。


 二十年前、アンドレオは、そのころはまだアンドリュー工兵伍長だった男は、十四人の工兵と作戦行動を共にした。

 臥竜山脈越えのルートでの帝国への侵入。そのルート開拓の調査。あるいは単に、そう、口減らし。


 人も物も足りない聖王国において、熟練の兵士は貴重なものだ。能力至上主義の盛んな昨今においては、優秀な人材はいくらいても足りないくらいだ。

 だが、最外縁部アウターの奉仕階級はそうではない。

 最外縁部アウターの工兵たちは、過酷な環境での作業をこなすからには優秀でなくてはならないが、しかし優秀過ぎてもいけない。知恵をつけすぎてはいけない。力をつけすぎてはいけない。

 聖王国を極寒の世界から隔てる外殻の整備にはこの罪人の子孫たちが必要不可欠だったが、同時にその罪人の子孫たちが外殻の安全を、ひいては市民の生死を左右することがあってはならないのだ。


 だから、危険な任務を潜り抜けて年齢を重ね過ぎた奉仕階級人は、任務の危険度をあげられていき、最後には死ぬことが前提の任務へと追いやられる。それが、それこそが口減らしだ。


 アンドリューの上官であったマーティン軍曹をはじめ、部隊の面子はみな長生きし過ぎた。

 危険な任務を乗り越え、数々の功績をあげ、都市構造体へ貢献し続けてきた。不条理な命令に従い、理不尽な任務をこなし続け、そして最後に望まれたのがその生命の終了である。

 外海経由の海底ルートや、地下坑道ルートなど、いくつもの侵入経路が開発され終えているいま、あえて険しい臥竜山脈越えに何の意味もない。

 自らの脚で、遠く離れて死ねというのだ。


 これは処刑ではない。ただ、任務の過酷さに惜しむらくも能力が届かなかっただけ。そんなおためごかし。シティ・ニュースには勇敢な工兵たちの死が美談として語られるだろうか。あるいはただの数字だけ、それともそれすらも残らないのか。


 それでも部隊員たちは命令に従った。

 逆らったところで、正規の戦闘部隊には敵わない。

 自分たちが死んだところで、自分たちの代わりはすでに合成されて出荷済みのことだろう。

 帰る場所など、最初からありはしないのだ。


 マーティン軍曹は陽気な男だった。

 常に部隊員のメンタルを気にかけ、死地に向かう旅の中で鼻歌やジョークさえ交わして見せた。


「やあアンドリュー伍長! バーンズ伍長! 君たちは頼りにさせてもらうよ!」

「お役に立てれば幸いです」

「ま、年寄りをいじめんでくださいよ」

「それにしても、整備限界の骨董品とはいえ、MAEVが十五機だ! いやあ、副葬品としちゃずいぶん豪勢じゃあないか!」

葬品なのは俺らのほうかもしれませんがね。単価はMAEVのほうが上ですぜ」

「違いない! だがこれだけ立派な棺桶で送ってくれるんだ! 笑っていこう!」


 最初に脱落したのは最年長のバーンズ伍長だった。最年長でも、まだ三十代だった。最後だからと高価なウイスキーを軍票で買っていた。臥竜山脈にたどり着く前に、機体のヒーターの故障でいつの間にか凍り付いて死んでいった。彼はそこに置いていくしかなかった。

 彼の部下四名は、アンドリューとマーティンが半々で受け持った。


 彼の死を皮切りに、部隊は櫛の歯を欠くように欠員を続けた。

 駆動部が金属疲労で故障し、置いて行かれたチャーニー二等兵。餓死か凍死か、その最後は知れないが、置いていかないでと叫ぶ彼女の声は長く残った。

 吹雪の中、不明の敵性体に襲われ、反撃むなしく戦死したマンスキー一等兵。マーティンのジョークに、よく引き笑いで笑っていた。

 途中で逃げ出したのはボータ二等兵だった。若いが優秀で、そのせいで死地送りになった彼は、耐えられなかった。どこへも行けず、独りで死んだだろうか。


 臥竜山脈に挑む中で、誰がどう死んだかはもうわからなかった。

 雪に足を滑らせ、落石に潰され、足場が崩れて、死ぬ要因には事欠かなかった。

 積雪限界を超えた黒壁までたどり着けたのは結局、マーティンとアンドリューだけだった。

 そのマーティンが死んだことさえ、共有回線に流れていた鼻歌が不意に途切れたことで、そうと察せられただけだった。

 それが不慮の事故だったのか、疲れ果てて諦めたからなのかは、もうわからなかった。


 アンドリューはただ一人上り続け、そして、世界の頂点を制した。

 誰も知らぬ風が吹く、誰も知らぬ夜明けを、アンドリューは見た。

 東の果てから黄金の朝が地平線を開き、西の果てでは紫紺の帳が月を抱く、その真ん中に、アンドリューは立っていた。


 静かだった。

 とても静かだった。

 誰も届かない、誰にも触れられない、天蓋の真下にただひとり立っていた。


 目が覚めた時、アンドリューは激しいアラート音の中、自分が重力に頭を向けていることに気づいた。

 機体はさかさまにひっくりかえり、全身がひどく痛んだ。

 滑落したのだと気づけたのは、ひび割れたディスプレイの表示を何度も検めた後だった。


 幸いというべきかなんというべきか、MAEVは前向きに倒れ込んでくれたらしく、アンドリューは帝国側に滑落したようだった。

 データ・バンクの中でしか見たことのない、緑の木々が幾本もなぎ倒されて、それがクッション代わりとなってくれたおかげで、アンドリューはかろうじて生き残ったらしかった。

 滑落時の機体モニターを確認してみれば、ほとんどまっすぐに岩肌を滑り落ち、万年雪によってブレーキを掛けられ、転げながら木々にたたきつけられたようだ。それで生きているのは、奇跡としか言いようがなかった。


 機体の損傷は激しく、ソフトはともかくハードは本格的な修理が必要だった。

 だが山脈を超えたこちら側は驚くほど暖かく、凍死の心配はなかった。

 恐ろしい音を立てる機体を慎重に動かして現場を離れ、周囲の枝葉とステルスモードでMAEVを隠蔽し、アンドリューはそれからようやく安心して途方に暮れた。


 誰も任務が成功することなんて考えていなかった。

 アンドリュー自身だって、そんなことはみじんも考えていなかった。

 だから、現実にこうして山越えを果たしてしまうと、ではどうすればいいのかアンドリューには見当もつかなかった。

 本国に連絡を取ろうにも、MAEV備え付けの通信機では山を越えた通信はかなわない。

 すでに帝国に潜入済みの工作員と接触しようにも、その居所や暗号の符丁さえも知りはしない。


 ただ、死に損ねたなとぼんやり座っているうちに、日は高くのぼり、そして傾き始めてしまった。

 そこに現れたのが、アマンドだった。


 アマンドは若い娘だった。

 よく日焼けして、指は節張って、邪魔だからと髪は短く切り、まるで少年のように活発な娘だった。

 瓜を割るかのように、ぱっかりと大きく口をあけて笑う娘だった。


「やあ、夏に雪崩の音がしたかと思ってきてみれば、アンちゃん、あんたはどこから来たんだい? ずいぶん変な格好をしてるねえ。都会のはやりってんでもなさそうだけど。なんだいしけた顔して親でも死んだかい。アッ、なんか本当にそれっぽい顔だよあんた、いやごめんねごめんね、悪気はないんだよ。麺麭パーノでも食うかい。馬栗ヒポカシュターノ混じりのまずい奴だけど。他に食うもんないから食うけどあたしだって好きじゃあないんだよねこれ」


 そしてよく喋る娘だった。


 アンドリューが呆然として眺める先で、娘はべらべらと一人で喋り散らかした後、としたまるい目で、じっくりと見つめた。


「あんた、独りかい? 独りぼっちかい? そんならうちにおいでよ」


 なんと答えたものか、アンドリューは覚えていない。

 多分、こたえる前に腕をとられて、ずんずんと山道を降りていったからだ。


「あたしはアマンド。あんたは?」

「あ、ああ……アンドリュー、だ」

「あ? なに? アンドレオ?」

「ああ……もう、それでいい」 


 男はその日、アンドレオになった。


 それからの日々は、ずいぶんせわしなかったように思う。

 急によそ者を拾ってきた姪に村長は大いに声を荒げたし、姪は姪でわめき返して、強引に男を村に住まわせてしまった。

 勝手もわからないままに、男は娘の家で起居し、娘の畑を耕し、娘の後について山を巡り、娘の紹介で村人に顔を通し、そして、気づけば娘の婿として祝言をあげていた。


「……なんだこれは。なんなのだこれは」

「なんか文句ある?」

「おおいにあるが」

「ないんだよ、いいね?」

「……そうか」


 思えば、言い返すということをこのころには諦めていたように思う。

 アンドレオが語る言葉を持たない分を埋めるように、アマンドはよく喋った。

 アンドレオが持たないものすべてを、アマンドが与えてくれた。

 アンドレオが一人でいることを、アマンドは許さなかった。


 

 恐ろしくかたくなで、巌のようなしかめ面をした村長と酒を酌み交わすようになったころ、アマンドは懐妊した。

 聖王国において、生命資源の産出は、上級市民にしか許されない行為だった。罪人の子孫たる奉仕階級人にとって、それは全く未知の世界だった。

 自分の血を引く存在というものが、アンドレオには理解しがたかった。それをどう思い、どう扱えばいいのか、見当もつかなかった。


 だがアマンドはあの晩、生まれたばかりの赤子を抱いて、アンドレオに告げた。


「この子はきっと、あたしに似てうるさくって、やんちゃで、それからとびきりあんたになつくことだろうよ」

「そうか」

「あんたはその子の面倒を見て、甘やかして、しかって、育て上げるんだ」

「そうか」

「そうだよ」


 瓜を割ったように、ぱっかりと大口を開けてアマンドは笑った。


「あんたを人間にしてあげたかった。あたしの隣で人間になってほしかった。ねえ。この子がきっと、あんたを人間にしてくれるから」

「……そうか」


 アマンドはその晩、初乳をあげる前に亡くなった。

 娘は、ポルティーニョは、母がなくとも元気に育った。

 村の人々の助けを借りて、よく育った。それはアマンドが生前築き上げた、人の輪というもののおかげだったのだろう。

 何もかもわからないままで、アンドレオは娘を育てた。

 泣くたびに困り、笑うたびに困り、何もしなくても困った。

 飯をやり、下の面倒を見て、夜泣きに付き添った。


 アンドレオが喋らないのに、ポルティーニョは母に似てよく喋る娘に育った。

 ふとした瞬間に、驚くほどアマンドによく似た笑顔を見せて、アンドレオはどうしようもなく困惑した。何も言えなくなって、まっすぐ見つめることさえできなかった。

 自分の脚で駆け回り、空にも手を伸ばして、屈託なく笑う姿に、途方に暮れた。


 泥だらけになった娘を、桶の中で丸洗いにした日を覚えている。

 額に汗して駆け回り、青空を背に笑う姿を覚えている。

 なんでもよく食べ、食べ過ぎて喉を詰まらせて慌てたことを覚えている。

 熱を出した娘を背負って、医者をたたき起こした夜更けを覚えている。


 成人を迎え、もう子供じゃないのだと、にっかり笑ったあの日のことを、覚えている。


 覚えている。

 覚えている。

 覚えている。


 MAEVの駆動音は、いよいよ瀕死めいた軋みを含み始めていた。

 アラート音は途切れがちになり、ディスプレイは明滅を始めている。


 アンドレオには、いま自分が見ているものがただの思い出なのか、それともこの現状こそがあの頃の自分が夢を見ているだけなのか、わからなくなってきていた。

 様々な景色が浮かんでは消えていく。

 雪と風とに流されていくように、現れては去っていく。


 祖国のこと。

 部隊のこと。

 妻のこと。

 娘のこと。

 村のこと。

 友のこと。


 走馬燈めいて、それらは視界の隅でちらついて、そして消えていく。


 ああ。

 ああ、なにもかもが。

 そうだ。

 なにもかもが────わずらわしい。


 MAEVの鈍く死にかけた駆動音だけが、心地よい。

 ディスプレイにちらつく黒壁と、驚くほど澄み晴れた空の青さが、ただただ静かだ。


 妻を愛していた。

 娘を愛していた。

 村での暮らしは心地よかった。

 人間になれたような気がした。


 だが、あの時思ってしまった。

 娘が成人を迎えた時、やっと育て上げられたと思ってしまった。

 ウルカヌスがやってきたとき、条件がそろった時、これで終えられると思ってしまった。

 すべてを終わらせたいと思ってしまった。

 ただただ静かに、独りになりたいと思ってしまった。


 アンドレオはきっと、人間になったのだろう。

 聖王国の外殻に張り付いた、機械とも蟲とも言えない奉仕階級人ではない。

 ひとりの人間として、尊重し、尊重され、人の輪の中で生きることができたのだろう。

 幸福だった。

 しあわせだった。

 泣きたくなるほどに満たされていた。


 だから、そのぬくもりに耐えられなかった。

 冷たい雪原の中に帰りたかった。

 誰もいない永久凍土のただなかにたたずみたかった。

 凍り付いた風の声を聴き、ただ独り無尽の凍土を歩きたかった。


 すべてが、わずらわしかった。

 ただただ、わずらわしかった。


 妻を愛していた。

 娘を愛していた。


 妻を愛している。

 娘を愛している。


 しかしいま、本当の孤独の中で、心は今までにない安らぎの中にある。


 愛も憎しみも、悲しみも喜びもない。

 自分以外のなにものもここにはない。

 ここが──俺の世界だ。こここそが。


 かつてアンドリューであり、いまアンドレオであり、そしてこれよりなにものでもなくなる男は、いま再び世界の頂点に立った。

 誰も知らぬ風が吹く、誰も知らぬ夜明けを、男は見た。

 東の果てでは紫紺の帳が夜を包み、西の果てへと赤銅の日が沈みゆく、その真ん中に、男は立っていた。


 静かだった。

 とても静かだった。

 誰も届かない、誰にも触れられない、天蓋の真下にただひとり立っていた。


「ああ……ここは静かだな。とても……心地いい」


 妻は亡く、娘は無事に育て上げた。

 災厄はここに背負い、消えていく。

 何の禍根も残さず、消えていける。


「俺は……お役には立てたかな」






用語解説


・アマンド(Amando)

 村長の姪にあたる。活発でよく山歩きをしていた。

 山中でアンドレオを発見し、「捨てられた子犬のよう」だったこの男を拾って面倒を見て、そのまま成り行きで結婚(強制)。

 そのまま無意味に死にそうであったアンドレオに生きがいを与え、人間として生きていけるようにさせたかったが、自分だけではまだ足りないと感じており、娘に託した。

 最終的にアンドレオが人間として生きることができたのか、その最期は彼女の願いにかなったものだったのか、それはもうだれにもわからない。

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