第九話 知らないということ

前回のあらすじ


力強く、頼りになる。

そして夢に出る。






 夢見がちかと思えば、意外に現実的というか、卑近な夢など抱く少年に、紙月はいくらか興味を持ち始めていた。相棒の友達というさほど興味も関心もない距離で、割とやかましくうっとうしいキャラクターとしてやんわり遠巻きにしていたが、どれすこし話をしてみようかと思う程度には。


「クリス、憧れがあると頑張れるとは言うけどさ、そういう、なんていうかな、眩しいものをまっすぐに見ちゃうと、しんどくならないか。俺は正直しんどくなる」

「わかります。めっちゃなります」

「なるのかよ。この流れでしんどくなるのかよ」

「いや、僕も繊細なお年頃なんで」


 ふてぶてしくもそんなことを抜かす面の皮の厚い繊細な少年は、もっともらしく頷いて続けた。


「あんまりまっすぐ見ちゃうと、本当に届くのかな、絶対無理だよってしんどくなります。だから、ただもう無責任に憧れるだけでいい、最初から手の届かない物語の中の英雄って言うのは、気が楽ですよ。伝説になれなくたって、誰も責めやしないでしょう?」


 だって、そんなものんだから。

 誰だって英雄になりたいと思う。誰だって伝説に憧れる。誰だって物語に夢を見る。

 だが誰も英雄になどなれはしない。誰も伝説になど語られない。誰も物語にすら残れない。

 だってそれはだからだ。

 人族は魚のようには泳げないし、鳥のようには飛べない。竜のように強くもないし、神のように偉大でもない。


 最初から手が届かないものは、ただ美しいものとして見上げることができる。

 その気楽さというものが、どれほど鬱屈とした日々の救いになることか。

 、というある種の諦観は、堅実に生きて行く上で、浮足立つ心を押さえつける丁度良い重しとなる。


 紙月にとっては、そうもいかなかった。

 紙月にとっては、英雄も、伝説も、物語も、それらは本当にあと一歩だったのだから。

 恐ろしく遠い、けれど確かに地続きのあと一歩の先に、紙月は眩しいものを見つめ続けてきた。

 届きそうだと信じた。

 届くはずだと願った。

 届いてくれと祈った。


 そして届かなかった。

 何一つとして、届かなかった。

 なにが悪かったというのではなく。なにを誤ったというのでもなく。

 ただ、足りなかった。

 見上げればすぐそこに見えるのに、伸ばした手は触れることさえできなかった。

 何か一つでも届けば、あるいは違ったかもしれない。

 何か一つでも、誰かに勝るものがあれば、あるいは。


 のだ、と紙月は自分のコンプレックスをそう評価していた。

 なにをやっても、誰かが自分の上を行く。

 どうあがいても、誰かのひとつ下にいる。

 だがそれはだ。

 上には上がいるし、下には下がいる。

 自分の近くでさえ上下があるのだ。視野を広く持てば、持ってしまえば、上は際限なく広がっていく。

 むしろ、永遠の二番手などというのは、なにをやっても優秀だという証左に他ならない。

 万能であることは、決して恥じることではない。


 と、それさえもで分析してしまっても、残るのは虚しさだけだ。

 自分の輝きを見出すことができない、それこそが他人の輝きになってしまう、紙月のコンプレックスなのだった。


 そんなひねくれた精神とは無縁そうな若き冒険屋が言う、眩しくなってしんどくなるというのとは、まったく別の次元の話なのだろう。

 結局は分かち合うことはできない……ぼんやりとしたぬるま湯のような諦観。


「無責任に憧れるってのはほんと楽で……でも」


 そのぼやけた膜の向こう側で、クリスは言った。

 でも、ミライを見てしまったと。


「盾の騎士ってね、地竜を倒したとか、武勇伝が幾つも噂になってて、ああ、これは届かないやつなんだなって、伝説ってやつなんだなって、諦めてました。憧れって言って、遠ざけてた。でも、でもさあ、出会っちゃったんですよ。もう酷い事故だ。あんまりですよ。最初はただの子供だと思ってました。森の魔女と盾の騎士と親しいっていうだけの。そのつながりで、お近づきにでもなれれば、なんてね、その程度でした」


 英雄にはなれない。伝説にも語られない。物語にも残れない。

 でも、それに触れることはできるかもしれない。近づくことはできるかもしれない。

 そんな高望みが、あんな事件を起こしてしまった。

 そしてクリスは知った。

 知ってしまった。


「ミライは、子供っぽくやきもち焼きで、子供っぽくおしゃまで、子供っぽく背伸びして、子供っぽく潔癖で、本当に、本当に、子供っぽくて子供っぽい、子供でした。子供だったんです。僕らとおんなじ子供だった」


 物語の登場人物だと思っていた。

 でも輝く伝説を取っ払ってみれば、そこにいたのは本当にただの子供だった。

 自分よりも年下の少年が、眩しく輝いていた。目が潰れるほどに、まぶしく。

 しんどいなんてものじゃない。

 なんでって。

 どうしてって。

 知れば知るほどに、未来は普通の子供だった。


「それで、森の魔女も、酒飲んでふらふらぶらついてるし、賭場でげらげら笑いながらいかさましてるし、面倒くさがりの残念美人だったし」

「残念美人て。しかしまあ、なんだ。しんどいしんどくないとかいう以前に、幻滅したんじゃないのか」

「まあ、思ってたのとは違いましたけどね。ミライも、森の魔女も。でもそれって、知らなかっただけなんだなあって」

「知らなかっただけ?」

「魔獣なんかも良く知らないと怖いですけど、どういう生き物なのか知っていくと怖くなくなってくるし、どうやって対処したらいいのかもわかってきますし」

「俺は魔獣か」

「魔女ですから」


 クリスはなんだか、くしゃみでもしそうな、眩しいものを見るように細めた目で、紙月の姿を眺めた。

 それは遠いものを見る目だった。


「でも、知っちゃうと今度は知らないことに気づくんです。この人がどんな努力をしてきたのかとか、この人がどんなことで苦しんだり、喜んだりしてきたのかとか。知らないことは悪いことじゃないですけど、いいことでもないんです。知ろうとしないことは、かっこ悪い」

「かっこ、悪い?」

「ええ。善し悪しっていうか、かっこ悪いじゃないですか。考えられるのに考えないのって、ださいです。ちゃんと知って、ちゃんと考えて、それで、もう一回、も一回、ちゃんと憧れたいじゃないですか」


 それは遠いものを見る目だった。

 とてもとても遠いものを見る目だった。

 旅路の先に広がる景色を夢見る、そんな目だった。

 眩しいと言いながら、しんどいと言いながら、その目は。


 なんだか悔しくなって、紙月は苦し紛れにぼやいた。


「君ってさ」

「はい?」

「結構、誑しだろ」

「は、ァ?」






用語解説


・かっこ悪い

 善悪や正誤といった価値基準よりも、時として優先されることがある概念。

 例え中身がなかったとしても、恰好だけはつけておきたいと思うこともあるのだ。

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