第七話 月の光

前回のあらすじ


紙月の選択。






 自分の選択。自身の選んだ世界。

 神の記憶。自らの死の思い出。


 そういった記憶の揺さぶりに、紙月はあえいだ。

 溺れそうなほどの情報が、一時に脳を駆け巡っていった。


 床に崩れ落ちそうな体を抱きしめ、紙月は深く呼吸を改めた。


「俺達は……」

「なんじゃい」

「俺達は、もう、元の世界に帰ることはできないのか?」

「言うたじゃろ。わしらはもうすでに死んでおる。死んだ者が、蘇ることはない」

「でも、でも未来はまだ死んでなんかいなかった!」

「だが選んだ」


 錬三のいっそ冷徹な言葉に、そして静かな未来のまなざしに、紙月は黙り込んだ。黙り込むほかになかった。


「境界の神プルプラは気まぐれだが、人の自由意思を尊ぶという。わしは選択した。未来は選択した。そしてお前さんも選択した。わしらは皆、この世界で生きることを選んだ。一度選んだ以上、プルプラはその決定を覆すことはないじゃろうな」

「そう、か」


 なんだか不意に力が抜けるような思いで、紙月はふらふらと手近な椅子に腰を落とした。


「俺は、じゃあ……俺は、死んじまって……」


 自分を予備だと思っていた。

 何かの代わりにしかなれない、そう言うさだめだと思っていた。

 しかしいざ実際に自分がもう二度とあの世界には帰れないのだと知ると、途端に未練がわいてきた。

 母の顔が恋しかった。姉たちのからかいが懐かしかった。大学の友たちに会いたかった。

 だがそれはもう叶わないのだった。

 もう永久に、それは叶わないのだった。


「いままで、俺は何をしてたんだろうな……」


 元の世界に帰ろうと、紙月は努力してきたつもりだった。

 せめて未来だけでも帰してやりたいと、あがいてきたつもりだった。


 だがそれは無駄だった。

 無駄だったのだ。

 無駄なあがきですらない。

 最初から前提をかけ間違えていたのだ。


 無駄だった。無意味だった。無価値だった。

 それはまるで紙月の人生のようだった。

 何者になることもできなくて、何者かになれるはずもなくて。


「全部、無駄だったんだな……」

「違うよ」


 打ちひしがれる紙月に、しかし未来は否定した。


「違うよ紙月、違うんだ。無駄なんかじゃなかった。だって、紙月は僕を守ってくれた」

「未来……?」


 未来にとって、この世界での出発は、ゼロからのスタートのつもりだった。

 元の世界のしがらみをすべて放り捨てて、一人の人間としてやっていくのだとそう思っていた。

 不安はあった。

 むしろ不安ばかりだった。

 愛されることになれた自分が、疲れた愛にさらされることに倦んだ自分が、果たして誰かを受け入れることができるだろうか。

 愛することを知らず、ただただ愛されて甘やかされて育ってきた自分が、果たして一人でやっていけるだろうか。


 それでも未来は選んだのだった。

 そのまま父を擦り減らせてしまうくらいならば、もういっそ自分から消えてしまって、どこかへ行こうと。


 だからこの世界に転生して、傍らに眠る人を見て、自分が一人ではないのだと、本当に、本当に驚いたのだった。まさか、そんなはずはと思いながら、それでもその頬に触れ、ぬくもりを感じ、そしてその実存に心底救われたのだった。


 ちっぽけな不安と言えばちっぽけなものだっただろう。

 けれど、何もわからない世界で、もう一度、紙月は未来を救ってくれたのだった。

 右も左もわからず右往左往するばかりの未来は、紙月という存在に救われたのだった。


 紙月にはそんなつもりはなかったのかもしれない。

 紙月自身が追い詰められて、その末の選択だったのかもしれない。

 それでも未来は救われたのだった。


 それは、決して無駄な事なんかではなかった。

 決して、決して、無駄な事なんかではなかったのだ。


「紙月。僕は本当は一人ぼっちのはずだったんだ。巻き添えにしてしまったのかもしれない。紙月自身にも事情があったのかもしれない。でもね、紙月。僕は紙月が一緒にいてくれることで本当に救われたんだ」


 訳の分からない異世界で、どうしてこんなところにいるのかも覚えていなくて、それでも、紙月は未来を護ろうとしてくれた。一緒に居ようと、手を差し伸ばしてくれた。


 それがどんなにか未来の心を救ったか、紙月はきっと知らないのだ。

 未来自身、どんなに言葉を重ねても、その気持ちを伝えきれる気はしない。


 それがどんな由来で、どんななりゆきでやってきたのかにかかわらず、紙月という存在は未来にとってたった一つ暗闇でともるともしびだった。


 ペイパームーン。


 たとえそれがいつわりの光でも、中身のない張りぼての月だったとしても、それは確かに未来をここまで導いてくれたのだった。


「未来、俺は、俺は、」

「紙月。僕はね、本当に本当にうれしかったんだ。とっても身勝手で、自分勝手で、独りよがりなのかもしれないけれど、それでもね。僕は、紙月がしてくれたことを、どんなにか嬉しいことだと思うよ」


 紙月もまた、未来のまっすぐなまなざしに、自分が救われていたことに気付いた。


 何もわからない異世界で、本当は泣きたかったことだろう、辛かったことだろう、当たり散らしたかったことだろう。

 けれど未来は、一度だって弱音を吐いたことなどなかった。


 紙月が何も覚えていないことを悟って、今までこの小さな体に秘密を隠し通して、身の丈に合わない鎧で紙月を守ってくれたのは未来だった。


「未来。俺、本当に情けないやつだけどさ。本当に、本当に頼りないやつだけどさ。それでも俺、お前といられてよかったよ。お前が救われたって言ってくれて、それで、ようやく俺にも意味ができたんだと思う」


 それはいびつな依存関係かもしれない。

 互いに互いの体に寄り添って、お互いの傷をなめあうような関係なのかもしれなかった。


 しかしこうして二人は確かに、お互いに通じるものを得たのだった。






用語解説


・ペイパームーン

 紙製の月。偽物の月。

 でも君が信じてくれるなら、それは本物の月にだってなるだろう。

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