第十話 孵化実験

前回のあらすじ


骨格標本って男の子だよな。






「あ、どうもー、遅くなりましてー」

「えー、いえいえー急にお呼び立てしちゃってー」


 そんな朗らかな挨拶とともに仮設実験場にやってきたのは、法衣とでもいうのだろうか、ゆったりとしたローブをまとった眠たげな眼の女性だった。

 どうも研究者や学者という風には見えないし、かといって紙月たちと同じ冒険屋のようにも見えない。


「あ、こちら、万一の護衛でついてくださってる冒険屋のシヅキさんとミライさんです」

「あ、どうもー、よろしくお願いしますー」

「あ、はい、よろしく」

「よろしくお願いします」


 どうにも気の削がれる緩やかな喋り方の女性は、シュビトバーノと名乗った。


「シュビトバーノさんは孵化実験に協力してくださる、風呂の神官さんなんですよ」

「風呂の神官?」

「ご存じありません?」

「いや、知ってはいますけど」


 風呂の神殿と言えば、帝都主体で衛生観念を広めている今日日、どこの町にも存在するメジャーどころの神殿である。その風呂の神の神官と言えば、風呂を沸かしたり温泉を湧かしたりといった法術が有名で、いわゆる神官というイメージより風呂屋のイメージが強い。

 実際本人たちも風呂屋として営業している節がある。


 その風呂屋が孵化実験に何の用があるのかと思えば、こういうことらしい。


「地竜の卵の孵化条件ははっきりとは解明できていないんですけれど、この状態でも呼吸していることは確かなんです」

「まあ、卵も呼吸するとは聞いたことがある」

「で、大型の魔獣の卵というものは、同時に食事もするものなんです」

「食事?」

「正確には周囲の大気から魔力を吸い上げて、孵化する為の熱量としてため込むんですね」

「はあ、成程」

「これは強い魔獣ほどそう言う傾向があって、恐らく卵の栄養だけでは足りないものと推測されます」

「そこで! 風呂の神官さんの出番なのです!」

「つなぎがよくわかりません」


 つまりこういうことらしかった。


 風呂の神官の生み出す温泉水には高濃度の魔力が含まれ、これが自然と癒しの術式になって、温泉に浸かる人々に治療回復効果を与えるのだという。この温泉水の適度なぬくもりと豊富な魔力、そして新陳代謝の活発化などの効果を複合的に与えられることで卵の孵化が促進されるのではないかという仮説が立っているのだそうだった。


「……仮説ですよね?」

「いくつかの魔獣の卵では有意な時間差が確認されています。いくつかは失敗して茹で卵にしちゃいましたけど」


 それがアカデミック・ジョークなのは本気なのかはともかくとして、どうやらある程度確度の高い情報ではあるらしい。

 そしてどうやら本人たちはかなり真面目らしかった。


「では、早速実験を開始します、各自所定の位置についてください」


 などと言われても所定の位置など聞いていない。ちらりと伺えば、お任せしますとばかりににこやかに微笑まれる。まあ、万一の時の対処を任されているのだから、ある程度自由にさせてもらえた方が楽ではある。

 一応、盾役である未来は紙月をかばうように一歩踏み出し、紙月はその陰から覗き込むようにしながら構えた。


 そして風呂の神官シュビトバーノは、とことこと卵の入った金属桶に近づき、おもむろに手に持った水瓶を逆さに返した。するとどうしたことだろうか。とてもではないが小さな水瓶から出てくるとは思われない量の水が、それも湯気を立てる温泉水がこんこんと湧き出ては金属桶を満たしていくではないか。


「質量保存の法則どうなってんだ……」

「紙月がそれ言う?」

「それもそうだった」


 魔術師ができるのだから、神の力を借りる神官ができないという道理もなかった。


 しばらくして湯が金属桶を満たし、卵を沈めてしまうと、シュビトバーノは水瓶を返して、やはりとことこと暢気に帰ってくる。


「ユベルちゃん、今回もお仕事ってこれだけー?」

「はい、ありがとうございました!」

「なんだか悪いわねえ。今度神殿に来たら割り引くわー」

「ありがとうございます!」


 そうしてとことこと去っていく風呂の神官であった。


「いや、えっ、マジであの人これで終わり!?」

「ご安心を、風呂の神官の湧かせた温泉は、神の力で冷めないということです」

「すごいけどそう言うことではなくて!」


 何しろ壮大に実験だなんだと言っておきながら、やっていることは巨大な鍋で巨大な卵をとろ火で茹で卵にしているだけである。むしろ温泉卵だ。


「しかも全然反応ないし!」

「いやあ、さすがにそんなにすぐには孵化しませんって」

「そうなんですか!?」

「当たり前じゃないですか」

「今更のように当たり前を持ち出してくる!?」

「紙月は本当に突っ込みが好きだよね」

「俺は心底裏切られた気分だよ!」


 頼りの未来にまで裏切られ、紙月の繊細なメンタルはボロボロだった。少なくとも自分でそのように述懐する程度には余裕があり、およよよよと泣き真似までする程度に余裕綽々だったが。


「で、実際のところどれくらいかかりそうなんですかね」

「さすがに地竜ほどのサイズは初めてなので厳密な所はわかりませんが、ほかの大型魔獣の卵での実験結果からすれば、一日かからないくらいと思われます」

「んっ……このイベント消化的にはクッソ長いけど卵の孵化と考えると短いくらいの感じ……!」

「絶妙に文句が言いづらいくらいだよね」


 さすがに万一の備えとはいえずっと見張っているという訳にもいかず、両博士と交代で見張ることとなった。






用語解説


・シュビトバーノ(ŝvitbano)

 風呂の神官。帝都で神官やっているあたりエリートなのかというと別にそう言う訳ではない。


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