第39話:正と負の魔素

 最後の最後に見つけたその資料を更に読み進める。


 それは人間の研究者によって書かれた魔素についての研究論文の写し。


 その中に幽鬼種と呼ばれる魔族は俺たち人間や他の魔族が使っている魔素とは異なる魔素を使って魔法を行使している可能性についての一節があった。


 俺たちが普段使っている魔素を正の魔素とするなら、それは負の魔素とでも言うべき存在。

 俺達の世界と重なるように存在する認知出来ないもう一つの世界があり、そこにはその負の魔素が満ちている。

 幽鬼種が半透明なのは位相のズレに拠るもので、物質的精神的にはこちらの世界の存在であるものの魂は向こうの世界の存在である。


 そこにはそんな事がつらつらと書かれていた。


 著者を確認する。


 アストラ・ハシュテット、聞いた事も無い名前だ。


 書かれている内容も、論拠と呼べるようなものはほとんど記載されていない限りなく胡散臭い仮説だが……。


 フェムが言っていた、二つ混ざっているという言葉を思い出す。


 それがもしここで言うところの正負の魔素である事だとしたら、いくつかの事象に関してある程度の辻褄が合うのも確かだ。


 幽鬼種の血を半分だけ持っている彼女は通常の幽鬼と比べて少しこちら側の世界に寄っている。


 故に、両世界の魔素を組み合わせた魔法を行使出来る。


 そんな仮説が脳裏を過ぎった。


 自分でも妙な事を考えているとは思うが、試せるものはなんでも試しておくべきかもしれない。


「うおっ! もうこんな時間か!」


 完全に夜は明け、外から射し込んでくる陽光が机の上を強く照らしている。


 昼からの授業の準備を迅速に済ませてから再び朝練の為に広場へと赴く。


 いつもの三人とフェムは既に集まっていた。


「すまん、ちょっと遅くなった」

「おはよう、貴方は今日もフェムと?」


 皆が口々に挨拶をする中、イスナがそう聞いてきた。


「ああ、しばらくはそうなると思うから二人の面倒をもう少しだけ見てくれると助かる」

「それは構わないけど、約束の事もちゃんと覚えててよね……?」

「約束……。ああ、ちゃんと覚えてる」


 確か、抱っこして欲しいと言っていたな。

 意外と可愛らしいというか、子供っぽいというか、それとも女性的にはそれ程してもらいたい事なんだろうか。

 女性しかいないこの環境にもっと馴染むべく、乙女心的なものをもっと学ぶ必要があるかもしれない。


「ならいいけど……。私も誰かに教えて初めて見えてくるものってのがあるしね」

「それなら、もう少し優しく教えてくれないかなー。イスナ姉ぇはちょっと厳しすぎるよぉ……」


 少しやつれたような表情のサンが横から口を出す。


「優しくして欲しいのならもう少し頑張りなさい。このままだと基本を理解する頃にはよぼよぼおばあさんになってるわよ」

「そこまで言う~?」


 二人の微笑ましいやり取りを隣にいるフィーアもニコニコと朗らかな笑顔を浮かべながら見ている。


 腹違いの五人姉妹。


 それも王族のと聞いた時は人間界のような権力闘争を想像したものだが、この子達からはそんな気配はほとんど感じられない。


 そんな事を考えながら、フェムを連れて昨日と同じ場所に就く。


「よし、今日もやるか」


 篭手を装着し、フェムに向き合うと彼女はいつものように小さく頷いた。


 それからはまた昨日と同じ事を繰り返していく。


 ……が、成果というような成果はなかなか出てこない。


 フェムが魔法を制御出来ているような様子は一切生まれずに、篭手に付与された魔力触媒だけがどんどんと消耗していくばかりだ。


「まだいけるか?」


 問いかけに対して、フェムは一拍程の間を空けてから緩慢に頷いた。


 本人も全く先に進めていないと感じているのか、いつにも増してうつむき気味になっている。


 焦りは禁物だが、停滞も同じように問題だ。


 余計な情報を入れるのはまだ早いと考えていたが、そうも言っていられないかもしれない。


「次に行く前に、これを読んでもらえるか?」


 服の中に入れておいたあの論文を取り出して、フェムに手渡す。


 それを受け取ったフェムはすぐに目を通し始め、十分もかからない内に当該部分を読み終える。


「何かの役に立つかも知れないと思って調べてたんだが、どう思う?」


 質問に対して、すぐに答えずに逡巡する様子を見せるフェム。


 反対側にいる三人の喧騒がはっきりと聞こえる程の静寂が数十秒程続いた後……


「もう一回、試してみる……」


 そう言って岩の上からゆっくりと立ち上がった。


 あの論文と自分が持っている名伏し難い感覚に何か共通するところがあったのか、その立ち姿には少し活力が戻っているように見える。


 続くように俺も立ち上がり、再びフェムの頭部を覆っている布に手をかけようとするが……


「待って……」


 制止の声がかけられた。


「どうした?」


 手を離して聞き返すが、何か別の事に集中しているのか返事はない。


 しかし自発的に何かをしようとしているのは間違いない。


 様子を黙って見守る。


 長い静寂が続いた後、フェムがゆっくりとその両手を前に突き出した。


 その直後、周囲を包む大気が蠢き始める。


 それはまさしく魔法が行使される時の反応。


 まさか、と思った次の瞬間――


 突き出された手のひらの前方にあの黒い球体が出現した。

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