第29話:絶対者

 ――草木も眠る深夜。


 いくばくかの灯りだけが照らす廊下を静々と進む一つの影があった。


 ほとんど下着のような衣服にだけ包まれた双丘を揺らしながら、物陰から物陰へと隠れるように進む影の正体は魔王ハザールの次女・イスナ。


 姉妹たちが寝静まっている居住区域を離れ、彼女が向かう先は教育係であるフレイ・ガーネットの私室。


 その目的は当然、逢瀬や夜這いなどという色気のあるようなものではない。


 もう手段を選んでいる場合ではない。

 今すぐにでもあの男を追い出さないと自分はどうにかなってしまう。


 昼間に姉妹たちの前で醜態を晒し、今の今まで寝込んでいたイスナは熟考の末に決意した。


 夜に男の部屋に行くのは夢魔にとってはお手の物。

 物音一つ立てずにイスナはフレイの部屋へとたどり着く。


「お邪魔しまーす……」


 律儀にそう呟きながら、扉を開けて室内へと侵入する。


「……よし、寝てるわね」


 暗闇の中、憎き男がベッドに仰向けになって寝息を立てている事を確認する。


 そのまま忍び足でそのすぐ側へと近寄っていく。


 寝姿を見下ろしながら意外と可愛い寝顔をしているなどと考えるのも束の間、イスナは彼の額へと向かって手を伸ばす。


 指先がその額に触れると同時に、イスナの意識はこの世のどこのものでもない沢山の窓がある長い廊下へと降り立った。


 そこはフレイの心象世界。

 生まれてから今に到るまでの記憶の世界である。


 夢魔の魔法によりその世界にやってきたイスナの目的。


 それは過去の記憶からフレイの弱みを探し出し、この屋敷から放逐する事。


 あわよくば昨日の浴場での記憶も消してやろうと考えながら、イスナは記憶の廊下をゆっくりと歩く。


『いいぞ、サン。その調子だ。フィーアも……頑張れ!』


 イスナの視線の先にある窓の外ではフレイと二人の妹が朝から訓練している様子が映し出されている。


「何よ……楽しそうにしちゃって……」


 拗ねるような口調でイスナが呟く。

 その心に溶岩のように熱く、粘性の高い何かが絡みつく。


 それでもイスナは足を止めずに廊下の奥へと進んでいく。


『ちょ、ア……アリウス! お前、本気で……あっ……』


 次にイスナが目に留めたのは、知らない金髪の男がフレイに挑みかかってあっさりと返り討ちにされている記憶だった。


「もしかして人間の学校をクビになったのってこれが原因なのかしら……。それにしても、あの顔……おかし……ぷふっ」


 ついやってしまったというような表情を浮かべたフレイが金髪の男を介抱している記憶を見て、イスナは思わず吹き出す。


 しかし、これもまだ弱みという程のものではない。


 イスナは更に奥へ奥へと進む。


『くそっ! こんなんじゃ……まだ……!』


 今よりも若い、まだ幼さの残る自分と同じ年頃の記憶域にイスナが到達する。


 その年代の記憶は文字通り血反吐を吐くような鍛錬の日々の記憶だった。


 日中は食事以外のほぼ全ての時間が勉学と各種戦闘術の訓練に費やされ、気絶するように眠りについたかと思えば日の出と共に目を覚まして同じ一日を繰り返す。


 それはもはや努力の域を超え、狂気の域に達していた。


 何年にも及ぶその記憶を見た事で、イスナの胸中にある変化が芽生えてくる。


 フレイを追い出そうとしていた意思は徐々に小さくなり、代わりに何故この人はここまで自分を追い詰めるのか、その理由を知りたいと思い始めていた。


 そして、更に深い記憶域へと足を踏み入れようとした時……


 イスナの足取りがピタりと止まる。


「……風?」


 廊下の奥から僅かな風が吹いてきているのをイスナは感じ取る。

 しかし、心象世界においてそれが不可解な出来事だと気がついた時にはもう遅かった。


 記憶の回廊に轟音が響く。


「な……何よあれ……」


 進行方向、廊下の向こう側から暴風を伴った真っ黒な何かがイスナの方へと向かって猛烈な勢いで迫って来ている。


 奥へと向かっていたイスナはそれを見て即座に踵を返す。


 何かは分からないけど、あれは危険。


 そう考えたイスナは全速力で元来た道を引き返し始める。


 数多の記憶に侵入してきたイスナにとっても、それは初めて経験する出来事だった。


「はぁ……はぁ……! い、一体何なのよ!」


 真後ろにそれが迫ってきているのを感じ取りながらも、イスナは振り返らずに全速力で駆ける。


 意識を現実に戻すには表層の記憶域まで戻る必要がある。


 今のイスナにはそこまでの道のりが途方もなく長く感じる。


「な、なんでこんな事に!」


 自分はちょっと記憶を覗きにきただけなのに。


 イスナの長い髪の先端に、あの黒い何かが触れる。


 同時にこれまでに感じたことのないような悪寒がイスナの身体を包んだ。


 それは髪の先端から自分の意識が無くなっていくような感覚。


 触れた事でこの嵐こそが、フレイの深層にある根源の感情である事に気がつく。


 彼の最奥にある狂気の感情。


「あ、後少し! 頑張れ私!」


 このどす黒い感情に呑まれたら間違いなく自分の存在は消えて無くなる。


 自らを奮い立たせて限界を超えて駆け続けるイスナ。


 その身体を背後から暗闇が包み込もうとする。






「…………っ! はぁ……はぁ……。戻って……来れた……」


 すんでのところで、イスナの意識が現実の世界、フレイの部屋へと戻ってくる。


 現実では一秒にも満たない時間。


 加えて少しも動いていないにも拘らずその身体は汗でびっしょりと濡れている。


「な、何だったのよ……あれは……」


 荒れた呼吸を整えながら今起きた出来事について考える。


 彼女は指先に触れていたものの感覚がないのに気づくのが遅れた。


「え? ……きゃあっ!!」


 彼女の首元が、それとは真逆の傷だらけの無骨な手に鷲掴みにされた。


 そのまま力ずくでベッドの上へと押し倒される。


「何をした!!」


 聞くものの身体の芯まで震え上がらせそうな威圧感のある怒声。


 ベッドに押し倒されたイスナが見上げる先にあったのは、普段のそれからは想像も出来ない鬼気迫る表情を浮かべたフレイの顔だった。


「何をした!! 答えろ!!」


 フレイの指先に更に力が込められ、イスナの柔らかい首の肉に沈み込む。


「な、なに……も……」


 圧迫され、僅かな隙間だけが残された気道からイスナが震える声を絞り出す。


 自分は今目の前の男に完全に支配され、生殺与奪の権利を握られている。


 これまでにない圧倒的な恐怖。


 生命の危機に瀕した彼女の脳内では、ここ数日の記憶が走馬灯のように流れ始める。


 自分よりも生物として遥かに下等だと思っていた人間の男に完膚なきまでに叩きのめされた。

 母親に謀られて、その男に対して生まれて初めての異性を認識させられてしまった。

 記憶の世界で見た、あのこの世の悪意を全て煮詰めたような黒い感情。

 そして今、謀略にかけて放逐しようとしたその男に返り討ちにされて逆に自らの命運をその手の中に握られている。


 その全てがイスナの頭の中で複雑に絡み合い、戦略魔法級の超反応を起こした。


 恐怖と苦痛から逃れるために、多量の興奮物質が脳内に分泌される。


 コンマ一秒にも満たない時間で彼女は数百年分にも及ぶ知見を得て、世界の全てを知る。


 自分はこの男には絶対に敵わない。


 この男こそが自分にとっての絶対者なのだと。


 イスナは自分の幸福を噛み締めた。


 記憶の世界でフレイを放逐した人間たちは気づけなかった真実に自分は辿り着いた。


 無論、それらは全て思い過ごしの極致と言うべき思考以外の何物でもない。


 しかし、イスナにとっては紛うことなきこの世の真理として顕現していた。


「イ……イスナ……?」


 闖入者の正体がイスナだと気がついたフレイがその手を緩める。


 顔からも険しさは消え、すぐに普段どおりの表情へと戻っていく。


 押さえつけられ沈み込んでいたマットも元の形へと戻り、軋むような音と共にベッド上の二人の体を揺らす。


「かはっ! ごほっ! ごほっ……!」


 気道が開放され、イスナは咽ながら空気を肺へと送り込む。


「だ、大丈夫か!? 俺は……俺はなんて事を……」


 咽るイスナを心配しながら、フレイはしでかしてしまった事の重大さにその手を震えさせる。


「だ、だいじょ……ぶ……」

「自分の名前は分かるか?」


 血流や呼吸が阻害された事で脳に損傷があるかもしれないと考えたフレイが簡単な質問を行う。


「イスナ……」

「母親の名前は?」

「エシュル……」

「よし……。少し待っててくれ、今ロゼを呼んでくる」


 脳に大きな損傷は無いと判断したフレイが立ち上がり、イスナをベッドに寝かせたまま部屋の外へと出ていこうとした時――


「待って……」


 イスナがフレイの服の裾を強く掴んだ。


 フレイを見つめるその瞳は溢れんばかりの涙で潤んでいる。


 しかし、それが苦痛によるものでもましてや恐怖によるものでもない事にフレイはまだ気づいていない。


「……どうした?」

「す……」

「……す?」


 その口からどんな罵りの言葉や要求が出てきても受け入れる覚悟を固めたフレイは再び目線の高さをイスナへと合わせる。


「……好き」


 これ以上にない恍惚を帯びた声でイスナは言った。

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