第19話:運動音痴の四女

「お、おい……フィーア? 大丈夫か?」


 思い切りずっこけたフィーアへと一歩近寄って声をかける。


「だ、大丈夫です……まだいけます……」


 フィーアは尻もちをついたまま、震える声で言う。


 あんなに盛大な尻もちは初めて見た。


「怪我はないか?」

「はい、平気です……まだいけます……」


 フィーアは繰り返しながら、強く打ち付けたお尻を抑えてゆっくりと立ち上がる。


 確かに怪我は無さそうだが、ふらふらと揺れながら立ち上がるその様はとてもじゃないがまだいけるようには見えない。


「すまん、俺が緊張させすぎたな」

「もう一回です! もう一回やります!」

「あっ、おい!」


 フィーアは立ち上がると俺が制止に入る間もなくすぐにもう一度構えを取る。


「えいっ!」


 そのまま再び、大きな声を張り上げて足を振り上げるが……


「きゃあっ!」


 また足を滑らせて、全く同じ形で尻もちをついた。


 それも心なしかさっきよりも更に強く。


「あーあ……だから言ったのに……」


 言わんこっちゃないと言いながら、サンが自分の鍛錬を中断してフィーアの元へとやってくる。


「よっ……と、どんくさいんだから無茶するなっての」

「サンちゃん……ごめんね……」


 サンがその手を取って、フィーアの身体を起こしてやっている。


 辛辣な事を言っていた割に姉妹仲は悪くないのかもしれない。


 むしろ、こうなる事を予期していたからこそやらせようとしなかったのだろうか。


「怪我はないか?」

「はい、平気です……」


 さっきと同じ様に尋ねると、しょんぼりとした返事が戻ってくる。


 しかし、今度はまだいけるとは言わなかった。


「無理をさせて悪かった。すまん」


 頭を下げてフィーアに謝る。


 いきなりサンと同じことをやらせずに、もう少し基本的な部分から見るべきだった。


 魔王の娘だという先入観で少し無茶をさせてしまった。


 これは反省点だ。


「い、いえ! 先生は何も悪くないです! 私の要領がよくないだけで……」

「フィーアは昔っから運動苦手だもんなー」

「はい……。でも、ずっと苦手なままでいるのは嫌なんです……」


 フィーアは更にしゅんと頭の位置を下げながら言う。


 苦手なものを克服したいという気持ちは分かる。

 しかし、さっきの様子を見た限りではこれを克服するのはかなりの苦労を要しそうだ。


「大丈夫だ。いきなりサンみたいになるのは難しいけど、ゆっくりやっていこう」


 だが、だからといって俺が諦めたらそこで終わりだ。


 この道の先にこの子の得意な分野がある可能性は限りなく低いが、ここで逃げた記憶を持たせてしまうのは教育上良くない。


 険しい道ではあると思うが、そこは長い目で見てやらないと。


「はい……よろしくお願いします……」


 フィーアが女の子らしい所作でペコりと可愛らしく頭を下げる。


 それから授業が始まるまでの時間を使って、サンには格闘術の基本を、フィーアには身体を動かす簡単な運動を教えた。


 そうして、おおよそ一時間が経過する。


 どうしよう、想像以上の運動音痴だ……。


「ひぃ……ひぃ……ふぅ……」


 目の前で肩を大きく上下させながら呼吸をしているフィーア。


 その身体を包んでいる運動着だけでなく、頭から生えたふわふわとした栗色の髪の毛もが土に塗れている。


 準備体操程度の事しかやってないのになんでこんな有様になっているのかは俺にも全く分からない。


「が、頑張ったな。お疲れ様」

「はい! 頑張りました!」


 フィーアの何かを成し遂げたような清々しい返事。


 確かに長い目で見るしかないとは思った。


 しかし、これでは人並みに出来るようになるまで一体どれだけの月日を要するのか見当もつかない。


 この道を三ヶ月で試験に合格できる形にするのはまず不可能と言っていい。


「なあ、フィーア……」

「はい……あっ、ごめんなさい。ちょっと先に……」


 俺の問いかけに対して、フィーアはそう言って懐の中から何かを取り出した。


「ん? なんだそれは、飴玉か?」


 フィーアが取り出したそれは飴のような真っ赤な玉が陽の光を反射して怪しげに輝いている。


「いえ、これは血です」

「ち?」

「はい、人間さんの血液を持ち運びやすいように加工してもらったものです。私は半分だけですけど、日中はこれがないとすぐに倒れちゃうんです」


 その突拍子もない言葉に一瞬だけ悩むが、すぐに答えにたどり着く。


「ああ、そういえばフィーアの母親はヴァンパイアなんだったな」

「はい、人間さん達にはそう呼ばれてるみたいですね」


 ヴァンパイア、魔族の中でも上位種と言われる種族。

 狡知に長け、言葉巧みに人間を誘い出し、その血を吸って眷属とする事で有名な存在。


 だとされているが、目の前のこの子には欠片程の狡猾さもない。

 それどころか人間でもこんなに素直で良い子はそういない。


 しかし、この子がどういう道を進ませるかを決めるには、そういう種族的なルーツから探してみるのも悪くはないかもしれない。


「それで、何でしょうか? 先生?」


 フィーアが俺の顔を下から覗き込むようにしながら尋ねてくる。


 少し垂れ気味な丸い目と目が合う。


「え? あ、ああ……、フィーアは何か得意な事とかはないのか?」


 運動が不得手だという事、そしてこの子の場合はそれを克服するよりは、何か他に得意な事があるならそれを伸ばすべきであるという事はよく分かった。


「えっと……得意な事ですか……」


 顔を少し伏せてフィーアが深く思案しはじめる。


「得意な事……得意な事……」


 首を捻ってうんうんと唸り始めるが、なかなか次の句が出てこない。


「な、なんでもいいんだぞ……」

「なんでも……」


 どんな些細な事でも自信のある事さえ分かれば、そこを伸ばしていくという選択は取れる。


 しかし、フィーアの口からはどれだけ待っても答えが出てこない。


「食べる事は?」

「食べる事?」


 俺とフィーアの会話にサンがそう言って横から割り込んでくる。


「うん、フィーアってこう見えてものすごく良く食べるんだよね。昨日も――」

「さ、サンちゃん! あんまり先生に変な事を教えないでよ!」

「えー、だってフィーアの得意な事って言うとそれくらいしか思い浮かばないし」


 食べる事……。


 流石にそれで試験に通るとは思わないが、フィーアが大食いというのは意外だ。


 もしかしたら血を人間から直接吸っていない分だけ、普通の食事でその欲求を満たそうとしているのかもしれない。


「あっ、でもそのおかげなのかは分からないけど、胸もあたしたちの中だとおっきい方だよね……うりゃ!」


 サンがそう言うと同時にいきなり背後からフィーアの胸についた二つの大きな脂肪を鷲掴みにする。


「きゃっ! さ、サンちゃん!? ちょ、やめ……やめてってば……」

「この~……妹のくせに私よりおっきいのつけやがって~」


 サンの手の中で、服の上からでも分かる柔らかそうな物体がぐねぐねと形を変えている。


 確かに、服の上から比べても二人の差は一目瞭然だ……って冷静に比べてどうする。


「はぁ……極楽極楽……イスナ姉ぇよりは小さいけど、あっちは触らせてくんないからなぁ……」

「サンちゃん……んっ……くす、くすぐったいよぉ……」

「にゃはは、やわらかいやわらかい」

「やめ、やめてってばぁ……」

「やめてやるもんか、こんなものをくっつけてるフィーアが悪いんだぞ……あいたっ!」


 半分変態親父と化していたサンの頭頂部に軽く置くような形でゲンコツをぶつける。


「仲が良いのは分かったからそのくらいにしておけ」

「ちぇっ、はーい……」


 俺がそう言うと、サンは素直にフィーアの身体から離れる。


 サンの手からは逃れたものの、フィーアは息を荒らげてその場にへたり込みそうなくらいにクタクタになっている。


 スキンシップは結構だが、これ以上くたびれられたら後の授業に支障がでる。


「それじゃあそろそろ授業だから一旦戻るぞ。二人とも一度着替えてこい」

「ふぁ、ふぁい……しつれいしましゅ……」


 フィーアはろれつの回っていない声でそう答えると、ふらふらと揺れながら屋敷の方へと歩いていった。


「ほら、サンも早く着替えてこい。しっかり授業を受けるならまた明日からも見てやるから」

「はーい……」


 授業という単語に露骨に嫌そうな表情を浮かべ出したサンも促すと、渋々とフィーアの後を追って屋敷の方へと向かって行った。


 想像していたよりも早く五人中の二人と、ある程度の関係を構築出来た手応えを感じながら二人の背中を見送る。


「さて、俺も一旦着替えてくるとするか……」


 一人になってからそう呟いて、自室へと戻った。

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