決着と新しい勝負

 刻が弁当箱を横に置いて立ち上がった。亜貴も立ち上がろうとするのを刻が止める。

「亜貴は体調悪いんだから座ってな。

俺から言わせてもらう」

 亜貴は刻を見つめ返し、先を促した。

「俺はもちろん始めから勝つつもりだったけど、亜貴が兄貴を好きなのを知ってから、兄貴に自分が劣ってるようで悔しかった。昔から兄貴と比べられてきては悔しい想いをしてきたんだ。だから、何が何でも勝ってやろうと思った」

 ここで刻は大きく息を吸い込んだ。そして、しっかり亜貴の目を見た。

「亜貴。でも、俺は亜貴を好きになったよ。だから、この勝負、負けでいい。あの日、酷いことを言って悪かった」

 亜貴は大きく目を見開いた。

「え?」

「笑いたくば笑え! その覚悟も出来ている。

もう一度言うぞ。俺はお前が好きだ。だからこれから兄貴より俺を好きになって欲しい。これが俺の本心だ」

 刻の顔が真っ赤になっていた。刻を見つめる亜貴の頬も風邪でではない熱で桃色になった。

「……。刻。でも、私とじゃなくても、付き合ってみれば好きになったかもよ?」

 亜貴は一抹の不安を口にした。

「仮定の話は無駄だ。

俺は亜貴を好きになったんだぜ? 本当は臆病なのに、気が強くて、お節介で無鉄砲なお前に惚れたんだよ」

 亜貴は刻の言葉に胸が熱くなり、目を潤ませた。刻の真っ直ぐな気持ちが伝わってきて、嬉しくて、そして申し訳なかった。亜貴は自分も偽りない気持ちを告白しなければならないと思った。

「刻。ありがとう。刻の気持ち凄く嬉しいよ。

私、今なら分かるよ。刻を好きになったあの女の子の気持ち。刻は凄くいい奴だから。一ヶ月前に言ったこと、私も悪かったわ」

「そりゃあ、ありがとう。それで? それで、亜貴の気持ちを教えてくれよ?」

 刻の目は真剣な光を帯びていて、亜貴は苦しくなった。でも、逃げるわけにはいかない。

「刻。私の心には樋口先輩がいる。それは変わらないの」

 亜貴の言葉に刻が顔を歪ませた。亜貴はそんな刻に手を伸ばした。

「待って!

でもそれだけじゃないの。私、心には一人しか入れないと思ってた。なのに、今は半分刻がいるの。長く想ってた樋口先輩を押しのけて、一ヶ月しか一緒にいなかった刻が半分、私の心を占めてるの」

「え?」

 刻は今度は目を見張った。

「ごめん。これが私の本当の気持ち。半分て言うのが半端な気持ちだと受け取られたらそれは悲しい。でも、刻に嘘はつきたくないから」

 亜貴の目からぽとりと涙が落ちた。

 刻はそんな亜貴を見て少しの間考え込んでいた。

 亜貴の涙は止まらない。そして言葉も止まらない。

「でもね、私、我儘だから、半分しか刻に心をあげられないのに、一緒にいられなくなることが悲しくて、寂しくてしょうがないの。ズルイよね。ずっと刻と一緒にいたいなんて、彼女じゃなくなるのに図々しいこと思ってるの」

 刻は、亜貴の涙を優しく手で拭った。そして、

「この勝負、亜貴の勝ちだな。でも、でも一ついいか?」

 と聞いた。

「なあに?」

「勝ったら言いたいことがあるって前言ったよな?」

 亜貴は記憶を手繰り寄せて、頷いた。

「負けたけど、言わせてほしい」

「分かった」

 亜貴は両手で涙を拭ってから再び姿勢を正した。

「亜貴。俺と付き合ってくれ。半年でいい。亜貴の心から兄貴を追い出してみせるから。もし、それができなかったら俺を振っていいから」

「刻……」

「どうだ? この勝負、乗ってみないか?」

 刻が真剣ではあるものの、楽しい悪戯を思いついたように言った。亜貴はそんな刻を見て、泣きながら笑った。

「本当に勝算はあるの?」

「あるね。今でも亜貴は俺に惚れそうになってるんだから」

 亜貴は自信満々な刻を見て、

「いいわよ? でも半年は長すぎるわね。三ヶ月。三ヶ月で私の心を刻だけに出来たら、その後も付き合ってあげる」

 とふふんと笑って言った。

「いいぜ! 三ヶ月な! 『刻、私、貴方がいないとダメみたい!』って言わせてやるぜ!」

「そんな台詞は好きになっても言わないわよーだ!」

 言いながら、亜貴は刻の提案に心では感謝していた。そして予感していた。近い将来、刻のことを焔よりも好きになるに違いないと。今は刻には内緒だけれど。


 春の柔らかな風が気持ちいい。あまり好きではなかった春の風。亜貴はこれからは少しだけ好きになれるかもしれないと思った。

「ようし、決まったな! 今日は亜貴の体調が悪いから、家にとりあえず送るよ。

映画に行けなかったから、近いうちにいかねーとな!」

「そうね。あとブルームーンにも行きたい! 今ならアールグレイ、飲めそう」

「アールグレイ?」

「そう」

「ふーん?

……そ、それでさ」

 刻がチラチラと亜貴の様子を伺うように見た。

「何?」

「付き合ってんだから、キ、キスとかは……」

 赤くなって言った刻に、

「な、何言ってんの?! ダメに決まってるじゃない!! 刻のエロ! 変態!」

 と亜貴は真っ赤になって刻を叩いた。

「いてーな!  分かったよ!  分かった!  暴力反対!」

 すっかりしょげた刻に、

「で、でも、手を繋ぐのと腕を組むのは許そうかな」

 亜貴は恥ずかしげにそっぽを向いて言った。刻は思わず亜貴に抱きついた。

「やった!」

「ま、待って、抱きしめるのは……」

「ありでしょう!」

 刻に強く言い切られ、亜貴は仕方なく抱きしめられるのも許可した。刻に触れている部分が熱い。心臓が早鐘を打っている。刻にそれが伝わらないか亜貴は不安になるが、刻は亜貴を離そうとしない。

 刻はもう一度ぎゅっと亜貴を抱く手を強めると、やっと亜貴を解放した。亜貴は胸を撫で下ろしたが、ちょっと残念にも思った。

「これからもよろしくな、亜貴!」

「こちらこそ、これからもよろしく、刻」

 二人は固い握手を交わした。


「病人なのに無理させて悪かったな」

「今日が終わったから、この後しばらく寝込んでもいいや」

「おいおい」

 決着がつくまでの不安が嘘のようだ。亜貴は幸せそうに笑った。刻はそんな亜貴に目を細める。

「帰るか」

「うん」

「寒くねえか?」

「うーん。少し寒いかな」

 刻は自分の学ランの上着を亜貴にかけた。学ランからは刻の体温の名残りと匂いがした。

「でも、これじゃ刻が寒いんじゃ……」

「大丈夫。俺、小学生のとき、年中半袖だった人だから」

「教室に何人かはいたわね。そういう人。刻もそうだったの?」

 二人は談笑しながら道を歩いた。


 亜貴の家の前に着くと、奈津がちょうど家から出てくるところだった。

「あら、亜貴。今日は早いのね? 具合がまだ悪いの?

……えっとそちらは?」

「樋口 刻と申します。亜貴さんとお付き合いさせて頂いてます。亜貴さんが具合が悪かったのでここまで送らせて頂きました」

 亜貴が答えるより先に刻が前に出て答えた。亜貴は刻の脇腹をつつく。奈津は意味ありげな笑みを浮かべて亜貴と刻を見比べた。

「あら、亜貴がご迷惑をおかけして……。わざわざ送って頂きありがとうございます。ぜひ家に上がってちょうだい?」

 奈津の言葉に、

「いえ、今日は亜貴さんの体調が悪いので失礼します」

 と刻は答え一礼し、亜貴に、

「それじゃあ、また明日な!」

 と言うと駅の方向に走っていった。亜貴はその背中を見送った。

「友達以上彼氏未満じゃなかったの?」

「まあ、色々あって……」

「ふうん。

いい子みたいじゃない」

「それは、認めるわ」

 亜貴は頷いた。

 亜貴の耳にはまだ刻の言葉が残っていた。


 ーーそれじゃあ、また明日な!


 明日もまた会える。一緒に昼食を食べられる。

 それがとても嬉しい。

「なににやけてるの?」

 奈津に言われて、亜貴は慌てて、

「にやけてなんかいないもん」

 と返して家に入った。




 その夜、亜貴は久し振りにゆっくり眠ることができた。

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