第2話「召喚士、助けられる。」

 固い地面に背中が痛み、目を覚ました。

 ゆっくりと目を開くと、ただどこまでも広がる荒野とぼんやりと靄がかった地平線が見える。

 空はどんよりと暗い雲で覆われていて、太陽や月は見えない。


「ここは――」


 言い掛けて、記憶が鮮烈に流れ出す。

 慌てて口を噤み、できるだけ体を動かさず目だけを動かす。


「ひっ」


 悲鳴が漏れそうになって、私は口を抑える。

 少し離れた場所、荒野にぽつんと転がる岩に腰掛けた悪魔がいた。

 黒い山羊を無理矢理人の形に押し固めたような、歪な構造をしたそれは、金色の目を爛々と輝かせ、牙の並んだ口から青い炎を吹き出していた。

 それを見て、私は確信する。


――私は、魔界へ来てしまった。


 魔界から悪魔を呼び出し、契約する魔法である召喚術。

 私はそれに失敗し、逆にあの上級悪魔によって魔界へと引きずり込まれてしまった。

 あの悪魔がなぜ私を寝かせていたのかは分からないけれど、絶体絶命の危機には変わりない。

 まだあいつが、私が気を失っていると思っている間が私に残された唯一の時間だ。

 必死になって考える。ここからどうやれば、死を回避できるのか。

 学院では召喚魔法科に居たけれど、攻撃魔法や治癒魔法、強化魔法も一通り履修した。攻撃魔法はあまり得意じゃ無いけれど、それでも一般的な魔法使い程度には扱えるはずだ。

 幸いにして、身につけていたものはどれも取り上げられていない。魔導書も手の届くところにある。


「……よしっ」


 目を開く。

 早くなる鼓動を抑え、荒い呼吸を努めて静める。

 ここで失敗すれば、私は死ぬ。どうにかしてこの状況から抜け出さないと、私はここで死んでしまう。


――それだけは、嫌だ。


「詠唱短縮、魔力回路解放。赤き血を注ぎ、我は我に施す。万難を阻む鉄の皮膚、百里を駆ける風の足、我よ我に与えよ」


 起き上がる。

 どれほど気を失っていたのか、節々が錆び付いたように痛む。

 けれど、大丈夫。走れる。


「ふっ――!」


 地面を蹴りつけ、疾駆する。


『ゴァァアアアッ!』


 怒気を孕んだ声が背中を焦がす。

 あの悪魔が、大きな足音を立てて追いかけてくる。


「振り返っちゃ駄目、振り返っちゃ駄目」


 恐怖に身を焦がしながら私は一心不乱に走る。

 どこへ行けば良いのかは分からない。けれど立ち止まった瞬間に私の人生が終わることだけは明白だ。

 強化された足は軽快に動く。これならば逃げ切れるのでは、と期待が湧き出す。


『ガァッッ!!』


 私の頬を、青い灼熱の炎が焼いた。


「ひぐっ!?」


 鋭いナイフで削がれたような痛みが頬に走る。

 反射的に振り返ると、山羊頭の悪魔がすぐそこにいた。

 その醜悪な顔が、愉悦に染まった。

 私はそこで初めて、彼が何故私が目を覚ますまで放置していたかを知った。


――悪魔は、絶望の顔が見たかったんだ。


 きっと私は恐怖の表情を浮かべていた。

 それは彼の驚喜する表情にありありと映っていた。

 獲物が逃げ、一縷の望みを見出したところで、追い詰める。絶望に染まった顔を見ながら、その命を刈り取る。

 残虐で、残酷で、乱暴で、とても悪魔的で。


「嫌だ……。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」


 力を振り絞って走る。

 思い通りになんてなってやるものか。

 私は絶望しない。

 絶対に。

 絶対に!


「ふっ、ふっ」


 走る。奔る。駆る。

 じわじわと距離が詰められる。

 だんだんと魔力が目減りする。

 限界は、もうすぐそこまで迫っていた。

 きっとあの悪魔は遊んでいる。

 その気になれば、私のこの速さなど優に飛び越えて、一瞬で狩ることもできるはずだ。

 けれどそれをしないのは、私が限界を迎え、足を止めるところを待っているから。


「嫌だ。絶対に、生きる!」


 叫ぶ。

 私は私を鼓舞して叫ぶ。

 そして――


「それじゃあ、助けてあげる」


 そんな声が聞こえた。

 黒い影が頭上を通り過ぎる。


『ゴッ!? ォァアアアアアアッ!!!?!』


 次の瞬間、悲鳴が聞こえた。

 それは私の声じゃ無い。さっきまで愉悦の表情を浮かべていた、悪魔の野太い声。

 混乱と恐怖と怒りがない交ぜになった声だ。

 それと同時に、鮮血の飛沫が私の背中に飛び散った。


「――え?」


 立ち止まり、振り返る。

 そこには、脳天から股まで一直線に貫かれ、真っ二つになった悪魔がいた。

 強靱な生命力によって、体を断裂されてもまだ意識があるようだった。

 爛々と光る、離ればなれになった二つの目が私を見ていた。

 何故だ、とそれが語りかけてきた。

 そんなもの、私にも分からない。


「大丈夫。もう、安心して良いよ」


 ゆっくりと悪魔が倒れる。

 その先に、彼女はいた。

 漆黒の髪と、血のように赤い瞳。白い肌を黒い服で包み込み、その細い手に赤い直剣を持って。

 彼女は静かな優しい笑みを浮かべて、私をまっすぐに見ていた。


「……貴女は?」


 呆然と立ち尽くして、なんとかそれだけの言葉を押し出した。


「わたしはシスティナ。メリアと出会うため、ここに来た。貴女はわたしを、きっと退屈から救ってくれる」


 彼女は、私の名前を知る少女は、そう言って雪のように微笑んだ。

 私は力が抜け、地面に崩れ落ちる。もう魔力は空っぽで、限界はもうとっくの昔に突き抜けていた。


「まさか、魔界にも人間が居たなんて。知らなかったわ」


 息も絶え絶えだったけれど、私は呟く。

 目の前に立つ黒衣の少女は、悪魔のようには見えなかった。恐ろしい形相もしていないし、筋肉が膨れ上がっているわけでもない。

 一見すれば、ただの可愛らしい少女。

 けれど、その言葉にシスティナは首を横に振った。


「わたしは人間じゃないよ」

「えっ? でも……」


 システィナは手に持っていた赤い直剣を軽く振る。

 すると剣は形を失い、液体のように変化する。それはひとりでに動き、彼女の手の中へと吸い込まれていった。

 呆気にとられる私をよそに、彼女はおもむろに人差し指を口に突っ込み横に引っ張る。

 唾液に濡れ白く光る、真珠のような歯が露わになる。

 その綺麗に並んだ歯の中に、目立つものが一つ。

 彼女の犬歯は鋭く尖り、長く伸びていた。


「私は吸血鬼。魔界に住む、魔族だよ」


 吸血鬼。

 聞いたことはある。召喚魔法を志す者なら、きっと一度は耳にする存在だ。

 人間より遙かに強い悪魔を、いとも簡単にねじ伏せるほどの圧倒的な強さを誇り、闘争の絶えない魔界において常に上位に君臨する絶対的な存在。

 不死者の頂点に座す、血の王者。


「吸血鬼……」

「そう。私は吸血鬼。その始祖オリジナルだよ」


 こともなげにそう言って、目の前の少女はこくりと頷いた。


「――きゅぅ」


 暗転する記憶の中で最後に覚えているのは、突然気を失った私に慌てて駆け寄る彼女の、花のような甘い香りだった。

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