無銘剣士の幻想無双譚

幕ノ内豊

無銘の剣士編

第1話 無銘の剣士

 鬱蒼としげる密林に、命の吐息がこだまする。

 草をかき分けるガサガサという音、大地を蹴る蹄の足音が密林の樹々に溶け込み、そして緩やかに消えていく。

 密林を走るのは巨大な猪だ。三メルはあろう巨体、大きく歪曲した鋭い牙、血液を想起させる赤黒い体毛。

 その巨体がジャングルを駆け、空間を揺らしていた。

 だが巨大猪は、いつからかかけられていた大きな縄に躓き、巨体を支えることが叶わなくなる。

 そして一際大きな音を立てて、その場に倒れ込んだ。

 無論、猪も起き上がろうと必死にもがく。

 ——が。


「それっ」


 小さく声が上がると、どこからともなく人影が現れ、素早く猪の頸椎に刃を突き刺す。

 首の骨を断ち切られた猪は、やがて糸が切れたように沈黙した。その巨体は未だ熱を保ち、つい先ほどまで生きていたことを想起させる。

 人影——俺は刃を首から抜き取り、それを消す・・

 良質な獲物を狩れたことを喜びながら、俺は森の帰路に着く。


 この世界の人間は皆それぞれ、何かしらの特殊な力——異能を持っている。

 そしてその中でも限られた人間は、自身の魂を世界に現出させ、これを武器として操ることができる。

 曰く、その刃のを《しん》。

 人の心を、魂を見定める、人の持つ可能性だ。

 そんな特殊な能力者の一人が俺、リゲル・ツヴァイヘンだ。そして俺の《心器》の銘は《月影つきかげ》。汎用型の刀の形状を取る《心器》だ。


 巨大な猪を連れて町に行けば、どうしても目立つものだ。

 なので俺は森で猪を狩った後、速やかに血抜きをして捌き、部位ごとに分けて移送する。そうすると品質が上がって値段も上がるし、持ち運びもしやすい。

 肉の三割を手持ちにして持ち帰り、残り七割を売るのだ。

 俺は近くの街、コルデーに着いた。ここに、いつも贔屓にしてもらっている肉屋があるのだ。

 町の街道は石敷きで、建物は煉瓦造り。ただ外には簡単な造りの商店が並び、人々は活気に溢れている。

 そんな商店街の一角、とある建物に、その肉屋はある。


「よう、リゲル! また良いものを仕入れに来たのかい?」


 俺の到着に気付いた店主が、豪快な笑顔を俺に向ける。


「おう、アングさん。今日は猪を差し入れだ。いくら出せる?」


 俺も笑いかけて、今日の商談に乗り出した。


 かなりの大金を勝ち得て野菜などを買い込み、俺は家に向かう。

 家は深い森の中。まさに人目から隔離するための屋敷。

 一見獣道にも似た、気付く者にしか気付けない、そんな秘密の通路。

 俺はそれをなれた足取りで軽々と登っていく。

 何故こんな山奥に隠れているかというと、それは俺の同居人が隠居しているため。

 本当に隠れるために、まさに秘境のような場に屋敷を建てたのだ。


「ただいまー」


 屋敷は巨大な邸宅。中央に玄関があり、扉は重苦しい木造。

 いくつも窓があり、幽霊屋敷と形容するのが相応しいようにも思える。


「おう、お帰りー」


 のんびりと、完全にリラックスした呑気な声が、屋敷の奥から聞こえて来る。

 屋敷の玄関から、真っ赤なカーペットが広がる廊下を進んでいって、突き当たりの戸を開けば、リビングが広がっている。

 そこにある大きなソファに、同居人は寝転んでいた。

 新聞を広げながらくつろいでいるのは、まさに絶世の美女。

 堕落の限りを尽くしているように見えるのに、その空間は彼女によって鮮やかになっている。

 来ているのは白いワンピースと下着だけ。ボサボサの髪は手入れされていないのに艶やかで、眠たげな顔は非常に整っている。

 プロポーションは完璧なので、大して手入れしなくても、その美は健全なのだ。人に存在する格差を体現していると言えるだろう。

 彼女の名はレア・ツヴァイヘン。かつて大英雄と呼ばれ、《剣聖》と呼ばれるに至った一つの人類の到達点。

 その癖現在は堕落の限りを尽くしている。今の彼女ほど生産的なことをしていない人間はいるまい。

 俺はそんな、居所が割れればとんだ大ニュースになりかねない、爆弾のような美女と同居しているのだ。

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