6節「兵隊崩れ 1」

 詳しく聞かせれくれと言われても、初対面の顔も名も知らぬ男にいきなり打ち明けられるような類のものではない。

「あんたは誰だぇ? こっちは込みいった話をしてんだ。首突っこまんね」

 志ずゑかっと喉を鳴らしてたんを吐く。男は飛びのいて、

「やめてくれ婆さん、俺の足はたんつぼじゃない。俺が用心棒をしようかって話だよ」

「あんたみたいなどこの馬の骨ともしれん男に用心棒が務まるのかね?」

 と、上から下までじろじろと無遠慮に男を見る。

 髪はぼさぼさで中途半端に長く、薄白いのは雲脂ふけのせいだろうか。いかにも不潔で、払えば雲脂や埃がたっぷり飛び散りそうだ。土埃にまみれた服は元の青地がすっかりかすれて白っぽくなっており、ところどころに糸のほつれも見える。ズボンも似たようなもの。すねにゲートルを巻いてきっちり締めている。その足だけは革製の立派な半長靴はんちょうかをはいていて、そこより上と整合が取れていない。

 志ずゑが足をじっと見ているのを察し、

「人となりは足を見ればわかるという。だから足元はいつもきっちり整えている」

「へん、あんたぁそれ以前の問題だね」

「よく言われますよ」

 男がすかさず応じると婆さんが呵々かかと笑ってから、ぺっと痰を吐いた。

「あんた大物かよほどのバカだ!」

 他の者も気を許さないで正体のわからぬ男を怪訝に見ている。

 飯屋だけが、「うちの床に痰を吐くのはやめてくれよ」と小声で訴える。

 男は一同から差し向けられる視線を意に介さず、

「ああ、店主、酒代は机の上に置いといたよ。このご時世に本物の清酒を味わえるとは思わなかった」

 志ずゑににらまれていた飯屋は、「あれの味がわかりますか」と笑顔をみせる。

「三増酒との違いぐらいはね。銘柄まではわからない。でも清酒なら癇にするのはちょっともったいなかったかなぁ」

 男はげっぷをして口元をぬぐう。

「銘は幸誉ゆきほまれです。さて、お客さん飲み終わったみたいだし俺は洗いものしなきゃ」

 これ幸いとばかりに飯屋はそそくさと離脱してしまった。

「で、結局あんたは何者なんだ? 腕に覚えはあるのか?」

 らちが明かないと、道重が回りくどいのを抜きでずばり聞く。志ずゑが何も言わないので彼しか状況を進める者がいなかった。

「失礼だがあなたは身なりも少々汚れている。人となりは足元を見ればと言ったが、どうにも私には信用できる部分がないように思われる」

 戦後の困難な時分、みんなで助け合っていかねばならない大変な時節だというのに、この男は明るいうちから酒をあおっている。しかもぼろぼろの浮浪者ふろうしゃのような身なりで。

 戦中は何をしていたのかもしれない格好だ。こんな男に用心棒など務まるのだろうか。信用する方が難しい。前払いと言って適当な金だけちょろまかしていく気ではないだろうか。

 道重は疑いを隠さない。

 暴力や暴動といった荒事などの面における治安の乱れは当然のことながら、同じように金儲けの話を持ちかけて財産をだましとる詐欺、ちょっとした隙をついての盗みなど、各種の犯罪も頻繁に起こっている。一人が暴力にもの言わせる悪漢に殴られるその間に、十の詐欺と百の盗みが発生していると言われていた。

 道重たちの前に現れて折よく用心棒を申し出るこの男を、暴力に困る者に付けこんでだまそうとしている詐欺師ではないか、と疑うのも至当であろう。

「あんた一人で何人もの兵隊崩れに立ち向かえるのか?」

「先に名乗っておこう。俺はセイドウという。誠の道と書いてせいどうだ」

 空に指で字を書いて、

「んで、俺もまあ、戦争が終わって無職になった兵隊崩れってやつだ」

 飯屋の店主が洗っていたお猪口ちょこを取り落とす。幸いに割れはしなかったが、乾いた音を発して床を転がっていく。道重に呼ばれていた全員が一斉に顔を強張らせた。

「兵隊崩れだって」

「この人も」

 怯えを隠さないでひそひそと言いあう。

「あんたも何か取りに来たのかぇ! 帰ってくんな!」

 志ずゑだけが気丈に声を張り上げたが、

「婆さんやめなって」

「立ち向かっちゃいけないよ」

 荒物屋と鋳掛屋に口をおさえられた。

「そういう反応には慣れているよ」

 誠道は気に障った素振りもなく言って、

「兵隊崩れがみんな略奪者だと決めつけないでほしいもんだ」

「それはそうかもしれないが」

 他の者も分かってはいるが素直にうなずけない。先ほどいちを襲撃した略奪者はその兵隊崩れなのだ。それだけではない。他の市も徒党を組んだ兵隊崩れの襲撃にあっている。一人がそうでないと言ったところで些末な誤差の範囲だろう。

 誠道は畳に腰かけ、口付き煙草たばこを取り出して火をつけた。箱には帝國の国章にも用いられている柏の葉があしらわれている。

「呑むかい?」

 道重は首を振って断る。

「そうか。……連中の肩を持つわけじゃないが、戦争でゆがんじまう人間ってのもいるんだ。それはあんた方が考えている以上の数に上る」

 現に兵隊崩れだと名乗った誠道が言うと、道重にはまたあの考えが浮かんでくる。


 若い彼らを希望という圧力で戦争に送り出してしまった罪。

 未来ある若い彼らを蛮族に作り変えてしまった罰。


「あんたも、ゆがんだ側なのか……?」

 恐る恐る聞いてみる。見たところ誠道は大前一味よりも年かさだ。三〇代の前半といったところか。不精ひげや半端な髪でごまかされているが、本当はもっと若いかもしれない。

「だったら大人しく酒の代金なんて払いやしないな」

 誠道は苦笑した。

「ただ、俺はそういうゆがんじまった人間を現場でたくさん見てきた。あそこでは命令さえ守っておけば何もかもが許されたからな。人を殺すってのは、思っている以上に人間の性質を乱暴なものにゆがめちまう。どれだけいい人間だって人を殺せばゆがむ。一方で命令を守っていれば戦場じゃ多少の粗野さってのはおとがめなしですむ。そういう意味では本当の自由があったのかもしれん。もっともそんな自由など、あんたたちからすれば元兵隊が自分を正当化したいがための言い訳にしか見えないだろうが」

 道重は黙ってうなずく。まっすぐだろうがゆがんでいようが、罪のない人間を殺めれば犯罪者だ。そしていまの帝都では警察は機能していないが、無法というわけでもない。

 誠道は話を続ける。

「いずれにしても、兵士の自由なんてのは命令と死線の狭間で生みだされた仮初かりそめ、一生の自由を一時いっときに凝縮させたようなものだ。そして人間っていうのは死に面すると狂気に振りきれるようにできてるもんだ」

 紫煙を思いっきり吐き出す。やにの臭いが霧散していく。

「戦地から遠く離れたあんたらには想像もつかないかもしれないけどな」

 報道では帝國による開戦は、『〈三盟主〉からの解放者たる使命の発露』『遠く離れた友邦たる国家への愛護の精神』などと、正の面ばかりが伝えられていた。

 現地で実際に何があったのか。

 誠道の言う通り、道重には報道以上の想像ができない。

 いや、想像をする資格がないように感じられた。

 彼は戦地に行ったことなど一度たりとてない、戦争には間接的に参加したにすぎない身だ。帝都が西欧軍に包囲されたという報道に接してはじめて、戦争は恐ろしいものだと身に染みたのだ。〈城壁〉の向こう側でどんぱちやっているのを見たわけでもなく、まして帝都の街は戦火にさらされたこともない。戦争は恐ろしいという道重の実感とて、精神上のものでしかない。

 彼だけではない。

 結局のところ帝都の住民が味わった〝戦争〟なるものは、物資の欠乏と国家への奉仕という形にのみとどまる。それどころか彼らの実感からすれば、戦後の犯罪あふれる現在の方がよほど戦争状態なのである。

 国家への奉仕という点での帝都市民の参戦といえば、軍事演習の見学や、出陣式、壮行会への参列などが含まれる。道重たちが送りだした中にこそ、誠道や大前がいたのだろう。

 無邪気と熱気で、「勝ってこいよ」と告げて戦場に送りだされた彼らのゆがみ。

 それがどのようなものなのか、帝都に残った道重にはわからない。

 しかし、帰ってきた彼らがゆがんでいるのは、帝都の各地で起きている犯罪を聞けばわかる。ゆがみを生みだした者はその影響を大人しく受けるしかないのだろうか。

「ゆがんじまった奴らにも理由がないではないんだがな」

 物憂げに言って、誠道は煙草の火を踏んで消した。

「道重さん、あんたが用心棒を雇うと言った時、ずいぶんと震えていたね?」

 提案をするだけなのになぜ震えているのか。彼自身にも見当がつかなかった。

「あんたには後ろめたさがあったんじゃないかな」

「後ろめたさ?」

「そうだ。戦地から帰ってきた彼らをただ排除するだけでいいのだろうか。それは彼らの切り捨てになるんじゃないだろうか。そんなことを考えていたんじゃないかな」

 言われて道重の疑念は氷解する。

「あ、ああ。言われてみればその通りだ、しっくりと来た。兵隊として彼らを送りだしたのは国民の俺たちだ。勝って来いよと勇ましく、なんて頼んだんだ。希望の世代なんていう、今となっちゃ白々しい呼び方までしてな」

 そうして、自分たちで生み出したゆがみを、自分たちが被害を受けるからという理由と都合で対処しようとしている。

「それは傲慢なんじゃないか。その後ろめたさがあったんだな」

 一同を見回すと傘屋はうんうんとうなずいた。

「傲慢だろうが、わしらにも生活ってもんがある」

 そろそろ老境にさしかかろうという畳屋が口を挟んだ。

「我慢して高い金を払ってたら俺たちが飢えてしまう」

「自分たちを守るには追い払ってもらうしかないだろう」

 他の者が続く。たとえ自分たちがゆがみを生みだした側だとしても、被害が及ぶのなら排除もやむを得ないのではないか。それは傲慢ではないと。

「ぼくらは用心棒を雇うって道重さんの案を否定しているわけじゃないんです」

 と、荒物屋。

「ただ、それで本当に追い払いきれるのかどうかが不安なんだ。連中が一度や二度の撃退でめげてくれたらいいけど、そうじゃなかったらと思うと……」

 もっと大きな力で報復されるのではないか。大前一味が人殺しも厭わない連中だというのは米売りの件で十分に証明されている。

「そうなるくらいなら、彼らに大人しく金を払って、いっそ用心棒として居座ってもらうのも、案外と悪くはないんじゃないかって。米売りの人だって他の市から逃げて来たのに、連中は追いかけて殺したんだろう? だから大人しく済ますのも手じゃないか……」

 下手な反撃を試みたら、最悪全滅の目に遭うかもしれない。

 たとえそれが過剰な想像だとしても、米売りが死んでいるという事実がある以上は全滅もありえるかもしれない。恐れが諸手を挙げての賛成を躊躇ちゅうちょさせていた。

 荒物屋の吐露を責める者は誰もいないのは、他にも少なからずそういう考えをしている者がいることの証明だった。

 ただ、志ずゑ婆さんだけが、「軟弱者め」と吐き捨てた。そう思う者もまた、少なからずいる。

「ただ、雇うにしても誠道さんだっけか、あんた一人で複数の兵隊崩れを追い払えるとは思えないね。相手は何人もいるんだ。しかもその、連中はバル・ベルデ帰りだ」

 鋳掛屋は誠道の方をちら、ちらとうかがう。相手も大前一味と同じ兵隊崩れだという恐ろしさがあるのだろう。下手を打てば誠道自身が大前一味の仲間で、事情を探りに来ているのかもしれない。それでも鋳掛屋は訥々とつとつと言いきった。

「バル・ベルデか。植民地だったり盟友だったり激戦区だったり、大変だな」

「はぐらかさないでくれ。あんた一人雇って勝ち目があるとは思えない」

 言いきったために恐れを払拭ふっしょくできたのか、鋳掛屋が突っこむ。

 しかし誠道はにやっと笑ってこう言った。

「俺もそのバル・ベルデ帰りなんだ」

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