殺す
古新野 ま~ち
第1話
君は息を止めたけれど体温の流出は免れられないようで、足の小指から順になくなっていく感覚、そこで冷えた血が巡り心臓が凍えるような感覚におびえている。身動きがしづらいほど窮屈で、うつ伏せになっているから、呼吸もままならない。
君に構うことなく鈍重な雲が月を隠して流れていく。夜はふけていくが、君は正確な時の流れを知らない。山中に投棄されたクローゼットの中に閉じ込められた君は、体温を奪うだけで、まるで棺のようだと君は考えているけれど、黴が生え虫が住まうその中の切り離された空間では君こそが侵入者だ。
君は昨日の夕方から最終電車まで中学時代の友人と居酒屋で同窓会をしていたようだけれど、幹事をしていた女が選んだ店は飯の質を優先していたようだね。君は頭部への強烈な打撲で意識が薄らいでいるけれど、その人への恨みで胸を焦がしている。紛れもない殺意、君はここを逃れれば、犯人を殺してやると考えている。
そのたぎる熱さもまた外気に冷却される。その繰り返しをずっとだね。でも根本的なことを言えば、その人たちは今日の君の不運とはあまり関係がない。君の運命とそのクローゼットが重なりあっている事実に、この世界で一人しか知らない。
コツンと音がする。それは烏が羽を休めるために降り立ったからだけれど君は今自分が山の中の廃棄されたクローゼットに押し込まれていることを知らないので、暗黒世界の音は際限なく反響しているけれど、それは君の頭の中だけのことだ。烏の趾が天辺を引っ掻くだけでも、君には不気味な存在が掠れた声で自分を嘲笑しているように聞こえる。その存在とは、夜道で君を背後から襲い掛かった暴漢のことかな? 君には、心当たりがあるはずだ。そう、君は今、記憶を蘇えらせようと映像を構成しはじめる。けれど夜の砂の城のように押し寄せた波にさらわれて暗闇のなかに埋没する。それでも君は諦めない。
――夜、酔ったままアパート前。オートロックを解除、ドアを開けた。その背後にッッ。
君には思い出せない。見ていないから、本当に誰の仕業か分からない。殴られた拍子に記憶がとんだと君は結論づけているけれど、それは不十分な現状把握だ。君が知らないのも無理ないけれど、君が倒れて運ばれている間に精神安定剤を何錠も流し込まれている。それにアルコールはまだ完全に分解されていない。そもそも君はまともな思考ができる状態ではない。
しかし、君はただそこで寝転んでいるような柔な人間ではなかった。君は自分を殴ったのが誰なのかを考えはじめた。犯人像を思い浮かべるくらいなら可能であった。
まずひとりめ。同窓会で一緒になった桜庭。理由は、途中まで帰路が同じ方向であったためだ。つまり君と最後に言葉を交わしたという薄弱な根拠であるが、これは君もすぐに棄却した。なぜなら桜庭を含め同窓会のメンバーの殆どと会うのは10以上年ぶりであったからだ。
そこで君はふたりめに、自分を同窓会に誘った柳下を犯人だと仮定した。しかしこれも信じがたいことだ。柳下と自分の関係は良好であり、また、お互いに偽りや隠し事などない。何より、いつでも接触できるのが柳下と君の関係であるから、わざわざ同窓会の帰りに自分を襲う必要などない。
烏が飛び立った。君はクローゼットの中でびくりと震えた。
ズボンの裾から白蟻が入ってきて君の脛の辺りを這いまわっているが、凍れる体で体表の感覚はなかった。しかし先にも述べたが君の聴覚は厄介なほど研ぎ澄まされていた。
君はいっそのこと気絶してくれればと自暴自棄になり頭を思い切り持ち上げた。殴られた箇所を天辺にぶつけて露出した神経に痛みを直接あたえてやれば、その衝撃に意識がとぶはずだと。
まるで芋虫のように君はじたばたと狭いクローゼットの中でもがいた。しかし絶え間ない痛みも虚しく意識がとぶことはない。当然、眠れるはずがない。いつまで続くのかわからない地獄のような悠久にいることを、君は思い知らされた。
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