閑話 王都に広がる光と闇の…… 1
王都ロンドベルにあるローゼンベルク侯爵家の別宅。ソフィアお嬢様が暮らすお屋敷はとても立派で、お嬢様がレッスンをするための部屋がいくつも設けられている。
ある休日の早朝。
そのうちの一部屋にあらたな楽器――グランドピアノが運び込まれた。
ピアノは前世の世界には普通に存在していた楽器で、光と闇のエスプレッシーヴォにおけるエンディングのスチルにもピアノが描かれていた。
だが、俺が前世の記憶を取り戻したとき、この国にピアノは存在していなかった。
ゆえに、この近々ピアノが生まれる――もしくは他国から持ち込まれると予測した俺は、専属執事として許される範囲であらたな楽器の探索をおこなった。
そうして明らかになったのは、見た目はオルガンに似た、けれどまったく違う楽器が隣国で広がりつつあるという事実。
俺はすぐさまグレイブ様に相談した。
ソフィアお嬢様に相応しい楽器が、隣国で生まれたようです――と。
隣国の技術を手に入れるためには相応の対価が必要となるはずだが、グレイブ様の行動は早かった。すぐさま技術者達を派遣してピアノの製作技術を学ばせた。
その技術者達が帰還しておよそ1年、ようやくグランドピアノが完成した。
設置を終えたグランドピアノを技術者が調律していく。この国でピアノの構造を理解する人間が彼らしかいないため、調律も彼らしかおこなえない。
お嬢様がピアノを弾けるようになればピアノの知名度が爆発的に高まるのは目に見えている。今のうちに後続の育成を進めておくべきだろう。
「調律、完了いたしました」
「ご苦労でした。グレイブ様もお喜びになるでしょう」
「もったいなきお言葉です。ですが、まだ使い方の説明が終わっておりません。このピアノという楽器はパイプオルガンと同じように見えて、その実まったく異なっております」
「あぁ……そうでしたね」
もちろん、前世でピアノに触れたことのある俺はそのことを良く知っている。だが、彼らはその事実を知らない。俺に使い方を教えるまで帰る訳にはいかないだろう。
だから――と、俺は調律を終えたばかりのグランドピアノの前に座る。
前世の俺は、少しだけピアノに触れたことがある。姉に少し教えてもらっただけだが、基礎的なことであれば理解していると言うことでもある。
つまりは――と鍵盤に指先を落とせば、ポーンと懐かしいピアノの音が響く。それを切っ掛けに、馴染みのある曲を奏で始めた。
ソフィアお嬢様に教えるために、俺は様々な楽器をたしなんでいる。その中にはパイプオルガンも含まれているために指は綺麗に回る。
とはいえ、パイプオルガンが管楽器に分類されるのに対して、ピアノは打弦楽器と異なる。
大雑把に言うと、鍵盤を押しているあいだ鳴り続けるのがパイプオルガンで、鍵盤を叩いた瞬間に音を響かせるのがピアノである。
ゆえに、俺の演奏はお世辞にもピアノの特性を引き出せているとは言えない。
――だが、ほうっと溜め息がどこからともなく聞こえてきた。搬入に来ていた技術者や手伝いの使用人達の視線を感じる。
グランドピアノという、あらたな楽器の音色に魅せられているのだろう。
なんとなく止めづらい空気を感じる。
だが、お嬢様を差し置いて俺が初演奏というのは褒められた行為ではない。適当に演奏を中断しようと思ったそのとき、どこからともなく透明感のある歌声が響いてきた。
言わずとしれたソフィアお嬢様である。
初演奏はお嬢様がなさった方がいいのではありませんかと視線で問い掛けると、彼女は透き通った声を甘えるように響かせた。
初演奏よりも初伴奏をご所望のようだ。お嬢様の伴奏を務めるにはまるで技量が足りていないんだが……お嬢様が望むのなら仕方がない。
俺はお嬢様の歌声に耳を傾けながら演奏に没頭していく。
――だが、お嬢様の要望が鬼畜だと、曲の折り返しになった辺りで気が付いた。
ピアニストとしての技量は素人に毛が生えたレベル。そんな俺の伴奏に対して、ソフィアお嬢様は伸びやかに歌声を響かせる。ギリギリで技量の差が目立たないレベルだが、もう少し差が開くとちぐはぐに聞こえてしまうだろう。
だから俺が必死にその差を埋めると、お嬢様は容赦なくレベルを引き上げてくる。
早くわたくしの全力に応えてくださいと言いたげな歌声。さすがに無理ですよと睨むと、シリルなら大丈夫ですよとばかりに微笑み返された。
ソフィアお嬢様は、俺が天才かなにかと勘違いしてるんじゃなかろうか?
俺は前世の記憶というアドバンテージがあるだけで、決して天才ではないんだが……再びお嬢様の歌声が一段と艶を増す。
初めてピアノに触れる――実際には初めてではないが、ピアノ初心者に無茶な要求である。だが、お嬢様にとっては初めてピアノを伴奏に歌うという経験。
その思い出がお粗末な内容では可哀想だ――と、俺はピアノを弾き続けた。
――結局は三曲ほど続けて演奏することになった。最終的にはかなりピアノの特性を活かせるようになっていたが、同時に慣れないピアノの演奏で指がつりそうだ。
雨のように降り注ぐ拍手は、明らかに最初よりも観客が増えていることを物語っている。その中にグレイブ様や父の姿があったのは……気のせいだと思いたい。
いつの間にか二人ともいなくなっているので、おそらくは気のせいだったのだろう。
それはともかく――と、俺は技術者達へと視線を向けた。
「おおよその使い方は見ての通り理解しているので問題ありません」
「そ、そのようですな。……貴方は、ピアノを以前にも触ったことがあるのですか?」
「いえ、制作過程を何度か見せていただきましたから」
だから、ピアノの特性を理解している――とほのめかして誤解させる。下手に触ったことがあると口にすると、屋敷にいる者達に矛盾がバレるからな。
そんな俺の嘘を信じた技術者は遠い目をした。
「それよりも、グランドピアノのお披露目は以前にも通知したとおり、ソフィアお嬢様の誕生パーティーでおこないます」
「……はい、もちろん存じております。それまでは口外いたしません」
現実に戻ってきた技術者が応じる。
ソフィアお嬢様が演奏できるように練習を重ね、次の誕生日――13歳の誕生日は学園に入学してほどなく終わっているので、14の誕生日でお披露目することになっている。
それまではピアノの存在を広める訳にはいかないが、同時にお披露目後は一気に知名度が高まるであろうことを考え、量産する必要が出てくる。
ゆえに、今のうちに量産体制を整えておくようにと指示を出した。
そうして技術者達が帰って行くのを見送り、俺はソフィアお嬢様に向き直った。
「ソフィアお嬢様、素敵な歌声でしたよ。ですが、せっかくの歌声を披露するのなら、私の伴奏がもう少し上達してからの方が良かったのではありませんか?」
「それじゃダメです」
「……ダメ、ですか?」
頭ごなしにダメ出しされるとは思わなくて戸惑ってしまう。そんな俺に向かってソフィアお嬢様は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だっていつも、わたくしがシリルに学ぶばかりじゃありませんか。たまには、わたくしがシリルの練習に付き合ったって良いでしょう?」
「……お嬢様」
さっきのは俺がピアノを弾く練習を兼ねていた――いや、むしろ、お嬢様にとってはそれがメインだったようだ。どうりで、どんどん要求レベルを引き上げてくる訳である。
「ダメ……だった?」
素のお嬢様が顔を覗かせた。
戯曲、光と闇のエスプレッシーヴォのヒロインや悪役令嬢を立派に務め上げた彼女はいまや、名実ともに学園における有名人で憧れの的だ。
それでもなお、俺の言動に一喜一憂するお嬢様が愛らしい。
「ダメではありません。お嬢様のおかげで早くコツを掴むことが出来ました」
ピアニストに怒られそうな伴奏だったが、短時間でスキルアップしたという充実感はたしかにある。俺の技量を引き出したのは間違いなくソフィアお嬢様だ。
それを口にして笑うと、ソフィアお嬢様は「嬉しいです」と無邪気にはにかんだ。
アルフォース殿下辺りが見たら、胸を押さえてうずくまるくらいの破壊力がありそうだ。最近、ますます人たらしスキルに磨きが掛かっているな。
気を付けないと、前夜祭の攻略対象まで無自覚に攻略しかねない。悪役令嬢のソフィアお嬢様が、同じシリーズに存在する別の悪役令嬢に狙われるとか意味が分からない。
早めに前夜祭の詳細を姉さんから聞き出しておいた方が良いだろう。
「シリル……どうかしましたか?」
お嬢様の視線に気付いて、なんでもありませんと首を横に振った。
それからピアノを弾いてみますかと問い掛ける。興味を持ったお嬢様にピアノのレッスンを始める。そうして、とある休日の午前は過ぎていった。
「お二人とも、そろそろ休憩にしてはいかがですか?」
ルーシェが様子を見に来たのは、太陽が天頂を越えて下り始めたころだった。いつの間にか、かなりの時間が経過してしまっている。
そろそろ集中力が切れる頃だろうと判断して、今日のレッスンを終えることにした。
「今日のレッスンはこれくらいにしておきましょう」
「わたくし、まだまだ頑張れますよ?」
「もちろん存じておりますが、慣れない稽古は思ってもいない疲労がたまりますから。今日のピアノのレッスンはこれくらいにしておきましょう」
お嬢様の頑張れるは当てに出来ない。
なぜなら、俺はソフィアお嬢様が弱音を吐くところを見たことがない。
もしかしたら、扱き上げれば可愛らしく弱音を吐くかもしれない。だけどなんとなく、お嬢様は疲労で倒れるまで『まだまだ頑張れますよ』と言い続ける気がするのだ。
という訳で、今日のピアノのレッスンはこれで終わりだと繰り返した。
「少し休憩にしましょう。手がつったりはしていませんか?」
ソフィアお嬢様の手をそっと取り上げて、手のひらや指を揉みほぐしていく。
「大丈夫ですわ。ピアノは初めてですが、オルガンは何度も弾いていますもの」
「……そう、ですか? では紅茶を用意いたしましょうか」
俺が手を放そうとすると、ソフィアお嬢様が俺の手をきゅっと掴んだ。
「……ソフィアお嬢様?」
「えっと……その、やっぱり少し疲れたので、もう少しだけマッサージしてくれますか?」
「もちろんです、お嬢様」
代わりに紅茶の用意はルーシェに任せて、俺はすべすべの手を揉みほぐしていく。
決してピアノには向いていない、小さな手で一生懸命にピアノを弾いていたのだろう。俺が手のひらをマッサージすると、彼女は気持ちよさそうに目を細めた。
「シリルはマッサージが上手ですね」
「ソフィアお嬢様のために覚えましたからね」
性別的な問題があるので、俺がおこなうのはせいぜいが手足程度。本格的なエステはプロに任せることになるが、やろうと思えば全身エステが可能な程度の知識は身に付けている。
「ねぇシリル、今度はわたくしがシリルにマッサージをしてあげましょうか?」
「ソフィアお嬢様、いきなりなにを言い出すのですか。使用人にマッサージをする侯爵令嬢など聞いたことがありませんよ?」
「では、わたくしがマッサージの練習をしたいので、実験台になってください」
お嬢様は華麗に切り返して、悪戯っぽく笑う。
思わず頭を抱えそうになるが、あいにく両手はお嬢様の手を取っている。仕方なくジト目をした俺は、「どこでそんなことを覚えてくるのですか?」とソフィアお嬢様に問い掛ける。
「もちろん、アリシアさんです」
やっぱりアリシアだったかぁ……
原作のようにライバルに嫉妬するでなく、その手管を真似るところがさすが――と褒めて良いのだろうか? なんとなく、自分の首が絞まっている気がする。
ひとまず、外聞が悪いので実験をするならルーシェかエマにしておいてくださいと諭しつつ、ソフィアお嬢様の手や腕を揉みほぐしていく。
「ところでソフィアお嬢様、ジャガイモの件で相談があります」
「わたくしはじゃがバターが気に入りました」
「いえ、調理法ではなく、王都で広がりそうな気配があるので、いまのうちに量産体制を整えた方がいいのではないか、という相談です」
ジャガイモは連作障害が発生しやすい反面、不毛な地でも育てやすい。芽に毒があるために保存に向いているとは言い難く、重くて輸送もそれなりに手間が掛かる。
よって、発展したローゼンベルク侯爵領で集中してジャガイモを生産する意義は少ない。だが、土地柄によってはジャガイモが大いなる助けとなるだろう。
「ソフィアお嬢様の派閥に属している方々に栽培をオススメしてみてはいかがでしょう?」
「……なるほど、良いアイディアですね。お父様に許可をいただきましょうか」
「許可は既に取ってあります。ソフィアお嬢様の判断で広めて構わない、と」
実際のところ、ピアノの一件で俺が得た功績と引き換えにしたのだがそれは割愛する。だが、ソフィアお嬢様はなんとなく察したのだろう。
ソフィアお嬢様はほんの少しだけマッサージ中の俺の手を握り返してきた。
「ありがとう、シリル。では、どこで広めるのが良いか候補をあげておいてください」
「お任せください」
そうしてジャガイモの話を終えるが、ソフィアお嬢様はまだなにか言いたげな顔をしている。少し考えた俺は「あぁ」と声を零した。
「今日の夕食には、じゃがバターを添えるように指示を出しておきましょう」
「――はいっ」
今日一番の笑顔を浮かべた。ソフィアお嬢様はじゃがバターがお気に入りらしい。はむはむとじゃがバターを食べるお嬢様を想像するとなんとも可愛らしい。
それはともかくと、マッサージを終えた俺はお嬢様から離れる。それとほぼ同時、ルーシェが紅茶を運んできた。
「シリル、午後の予定はどうなっていますか?」
「ソフィアお嬢様は礼儀作法のお稽古となっています」
休日くらいはゆっくり休ませてあげたいと思うけれど、最近は演劇の練習で時間を多く取っていたために、その他のレッスンが滞っている。
だから申し訳なく思いつつもそう口にしたのだけれど、ソフィアお嬢様は「わたくしはと言うことは、シリルは別行動ですか?」と予想外のところに食いついてきた。
「はい、午後はお暇をいただいております」
「最近……多くありませんか?」
ソフィアお嬢様の追及に、俺は少しだけ答えあぐねた。まさか馬鹿正直に、ちょっとソフィアお嬢様に仇なす敵の噂を聞いたので排除してきます――なんて言えない。
どうしたものかと迷った瞬間、ルーシェがクスリと笑った。
「ソフィアお嬢様、そのように追及してはいけませんよ。シリルくんだって、たまのお休みにデートくらいするでしょうし」
「……へぇ」
「ち、違いますよ」
感情のこもってないソフィアお嬢様の『……へぇ』がむちゃくちゃ怖い。闇堕ちする寸前のようにハイライトの消えた瞳で俺を見るのは止めてくださいお願いします。
というかルーシェのヤツ、シャレにならない冗談は止めろ。
「デートでは、ないんですね?」
「むろんです。少し気になる噂を聞いたので、その有無を確認しようと思っただけです」
「つまり、デートでは、ないんですね」
「ええ。デートでは、ありません」
繰り返して確認された俺は、ハッキリきっぱりとデートであることを否定した。二人のあいだに沈黙が流れ――ほどなく、ソフィアお嬢様の瞳にキラリと光が戻った。
「もちろん、わたくしはシリルのことを信じています。……信じていますよ?」
「ソフィアお嬢様の信頼は裏切りません」
笑顔で繰り返し、無自覚に圧力を掛けてくるお嬢様に微笑み返す。最近はソフィアお嬢様もだいぶ落ち着いてきた。これくらいの焼き餅なら可愛いものだろう。
俺は夕方には戻りますと立ち上がり、挨拶をして踵を返した。お嬢様がルーシェになにか耳打ちしているのを聞きながら、決して早足にならないようにその場を立ち去った。
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