悪役令嬢の執事様 破滅フラグは俺が潰させていただきます
緋色の雨
第一章
プロローグ
俺が前世の記憶を取り戻したのは物心がついた頃だった。
前世の俺は魔術を専攻する普通の学生だったのだが、その世界はここよりも科学や魔術が発展していたので、前世の知識はこの世界において貴重なものばかりだった。
その事実に気がついたとき、俺はそれなりに驚いたし興奮もした。
だが俺がなにより驚いたのは、前世の世界で流行っていた乙女ゲームと、この世界が酷似していることだ。
姉が好んでいた『光と闇のエスプレッシーヴォ』という乙女ゲームで、子爵家の娘であるヒロインが、王子を始めとした殿方を射止める物語だ。
隠れオタクだった姉は乙女ゲームの感想を共有する相手がおらず、姉の趣味を知っていた俺にプレイするように勧めてきた。
そんな事情でプレイをしたことがあるのだが、明るく元気なヒロインは自分で操作するキャラでありながら人気が高く、俺もわりと気に入っていた。
でもって、そんなヒロインに悪役令嬢として立ちはだかるのがソフィア。ローゼンベルク侯爵家の令嬢で、王子の許嫁でもある生粋のお嬢様だ。
彼女は出会ったときからずっと王子を想い続けていたが、王子が自分ではない少女――物語のヒロインに惹かれていることに気付き、嫉妬に狂ってしまう。
「……どうして、わたくしを見てくれないのですか?」
彼女はこのセリフを切っ掛けに闇堕ちする。
もう一度王子に振り向いて欲しくて、恋敵であるヒロインに様々な嫌がらせをするのだが、行き過ぎた行為を王子に知られてしまい、実行役の執事とともに処刑されてしまう。
ちなみに、ヒロインが別のルートを選んだ場合でも王子はヒロインに恋い焦がれるので、ソフィアが嫉妬に狂うことに変わりはない。
ゲームの彼女は処刑される運命から逃れられない。
そんなソフィアだが、幼少期から両親が仕事で家におらず孤独を抱えていたり、メイドから嫌がらせを受けていたりと、なかなかに同情を誘う設定が揃っている。
嫉妬に狂ったのも王子への愛ゆえで、それ以外のところでは優しい一面も見せる。だから悪役令嬢でありながら、彼女の評価は意外と高かった。
俺もまた、悪役令嬢を気に入っていた者の一人だ。
話を少しだけ戻すが、悪役令嬢と共に処刑される執事というのが、どうやら俺のようだ。
シリルという名前が同じで、代々ローゼンベルク侯爵家に仕える使用人の家系に生まれた俺は、将来ソフィアお嬢様の執事になることが決まっている。
俺は近い将来、ソフィアお嬢様と一緒に処刑される運命にある。
冗談じゃない。
せっかく第二の人生を手に入れたのに、処刑されて終わるのはごめんだ。俺はゲームの知識を使って処刑エンドを回避することにした。
自分だけが処刑エンドを回避するのは容易いが、俺は悪役令嬢のソフィアを気に入っていた。出来ることなら、彼女も処刑エンドから救ってやりたい。
そのためにどうすれば良いか考えを巡らす。
ソフィアお嬢様を処刑エンドから救うにはいくつかのポイントが考えられる。
まずは性格を歪める原因を取り除くこと。
幼少期の環境が原因で、嫉妬に狂ったときに道を踏み外してしまう。幼少期の問題を取り除くことが出来れば、最悪の事態は免れることが出来るだろう。
次にソフィアお嬢様の魅力を磨くこと。
お嬢様がヒロインを圧倒するほどに可愛ければ、王子がヒロインになびくこともない。王子を奪われなければ、そもそも嫉妬に狂うこともない。
最後にもう一つあるが、これはお嬢様とは直接関係がない。
その時期が来たら、俺が内々に対処する予定だ。
そんなわけで、差し当たっての目標は最初の二つを達成すること。
そのためには俺がお嬢様の側にいる必要があるのだが、作中のシリルが専属執事になるのはゲーム開始直前だったので、おそらくは十五、六歳の頃だろう。
それまで待っていたら手遅れになる。
ゆえに、俺は執事としての能力を全力で伸ばすことにした。
ただの子供が執事になりたいと願っても認められるはずがないが、優秀な成績を残せば、幼くとも専属執事として認めてもらえると思ったのだ。
死ぬほど努力した俺は現当主の執事である父に直談判をして、たった六歳でソフィアお嬢様の執事見習いという地位を見事に勝ち取った。
そして――
ソフィアお嬢様の六歳の誕生日。
両親は仕事が忙しくて彼女の誕生日を祝うことが出来ない。淡い色のドレスを身に纏い、使用人に囲まれる彼女は愛らしく――とても寂しげだった。
温室育ちの薔薇が、雨風に晒されているかのような歪さがある。このまま放っておけば、ソフィアお嬢様の心は少しずつ歪んでいく。
だから、俺はソフィアお嬢様の前に跪いた。
「初めまして、ソフィアお嬢様。私はシリルです」
「……しりる、くん?」
「シリルで構いません」
「……しりる?」
「はい、お嬢様。今日からお嬢様の専属執事の見習いとなりました」
「……ひつじさん?」
お嬢様がこてりと首を傾げる。アメジストのごとき瞳には純粋な疑問が浮かんでいる。
「執事とは、ソフィアお嬢様のお世話をして、ずっと側にいる者のことです」
「ソフィアの側に……いてくれるの?」
「います。お嬢様が楽しいときはもちろん、お嬢様が寂しいときも、苦しいときも、どんなときだって側にいます。お嬢様の味方として、お嬢様をずっとずっとお守りします」
お嬢様はぱちくりと瞬いた。少し言い方が難しかっただろうか? そう思ったのだが、しばらくして、アメジストの瞳がキラキラと輝き始めた。
「じゃあじゃあ……ソフィアのおたんじょうび、一緒にお祝い、してくれる?」
「ええ、もちろん。今年も、来年も、この先ずっと、お嬢様のお誕生日をお祝いします」
俺が用意したプレゼントは、ローゼンベルク家を象徴する深紅の薔薇。
気高くも可憐で、丁寧に世話をしなければ途端に枯れてしまう。そんな薔薇を温室で育て上げ、トゲを丁寧に処理して、レースの布でラッピングを施した。
俺の決意を込めた一輪をソフィアお嬢様に贈る。
「六歳のお誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう、しりる。ソフィア、すっごくすっごく嬉しいよ~」
幼いお嬢様には、薔薇に込めた俺の意思なんて分からないだろう。だけど、それでも、彼女は深紅の薔薇をそっと抱きしめて、つぼみが花開くように微笑んだ。
幼い彼女を微笑ましく思い、この愛らしい少女をいつまでも護り続けようと誓った。
お嬢様の心を開くことには成功した。けれど、お嬢様の心を歪める原因は依然として残っている。幼少期のお嬢様に嫌がらせをしたメイドの存在だ。
残念ながらゲームに該当の回想シーンはなく、そういう過去があったとしか分からない。どのメイドが、どのような嫌がらせをしたのかは語られていない。
俺が自力で調べて防ぐ必要がある。
だが、いくら俺に前世の記憶があったとしても、俺は新人の見習い執事で、周囲からは生意気な六歳の子供にしか見えない。そんな俺が独自に調査をすることは不可能だ。
だから俺は、当主の専属執事である父の力を借りることにした。
使用人の中に素行のおかしい者がいると訴え、父の名を借りて使用人の素行調査を秘密裏に行う。そうしてお嬢様に嫌がらせをするメイドに当たりをつけていったのだ。
月日は流れ、ある穏やかな陽差しが降り注ぐ昼下がり。中庭でお茶を飲んでいたはずのお嬢様が、目に大粒の涙を浮かべて駆け寄ってきた。
その後ろを、少し顔をしかめたメイドが追い掛けてくる。
「ふえぇん。シリルぅ~」
「お嬢様、どうかなさったのですか?」
お嬢様のプラチナブロンドに葉っぱが付いている。まずお嬢様の目元をハンカチでそっと拭い、それから髪に絡まった葉っぱを一つずつ丁寧に取り払う。
最後にお嬢様の頭を撫でて、「なにがあったのですか?」と愛らしい顔を覗き込んだ。
「あのね、あのね。メイドさんが、ソフィアにイジワルするの」
「イジワルだなんてとんでもない。お嬢様が足を取られて転ばれたんですわ」
追いついたメイドが困った顔で無実を訴える。
お嬢様は酷く傷ついた顔をして、それからメイドをキッと睨みつけた。
「どうしてそんなこと言うの? ソフィアの足を引っ掛けたじゃない!」
「まあ、どうしてそのようなことをおっしゃるのですか? あぁ、もしかして、躓いて転んだと言うのが恥ずかしいからでしょうか?」
反論するメイドは落ち着いていて、やましいことなどなにもないと言わんばかりだ。
実際、何事かと注目していた周囲の者達は、メイドの言葉を信じそうになっている。それを理解したのだろう。お嬢様はアメジストの瞳を不安げに揺らして俺を見た。
「シリルぅ、ソフィア、自分で転んだんじゃないよぅ。ホントのホントに、メイドさんに足を引っ掛けられたんだよ。今回だけじゃ、ないんだよ……」
「大丈夫ですよ、お嬢様」
ソフィアお嬢様の頭を優しく撫でて、メイドへと冷ややかな視線を向ける。
「ローゼンベルク侯爵家にお仕えするメイドが、主を裏切るなんて許されませんよ?」
「まぁ、なんて酷い。私はそのようなことしておりませんよ。お嬢様がときどき癇癪を起こすことをご存じありませんか? ソフィアお嬢様が嘘を吐いておられるのですわ」
「ソ、ソフィア、嘘なんて吐いてないもん! メイドさんなんて嫌いっ!」
「ほぉら、また癇癪を起こしたでしょう?」
メイドは澄ました態度で言い放った。
彼女の結い上げられた髪は艶やかで、高価な整髪料を使っていることが窺える。
身なりのきちんとした模範的なメイド。そんな風に外面を取り繕ってきたのだろう。彼女は周囲の信頼も厚く、対してソフィアお嬢様はメイドの発言に取り乱している。
客観的に見れば、ソフィアお嬢様が嘘を吐いていると思われても仕方がない。
――けれど、俺はソフィアお嬢様がメイドに嫌がらせを受けることを知っている。なにより、いままで一緒に過ごしてきたお嬢様が嘘を吐くなんて思わない。
「お嬢様が取り乱すのは、あなたが嘘でやり込めようとしているからでしょう? 憂さ晴らしかなにか知りませんが、あなたのやっていることは最低です」
「――くっ。ではどうします? 誰かに言い付けますか? ですが、古くからこの家に仕えていて信頼のある私とただの子供、どちらの言葉が信じられるかなんて明白ですよ?」
メイドは自信満々に言い放った。
当主の娘であるお嬢様と、使用人統括の息子である俺に対してそのように言ってのける。まさか、本当に自分の主張が通ると思うほど愚かではないだろう。
つまり、そう言えば子供の俺達を騙せると思ってハッタリをかましているのだ。それが愚かな考えだと、すぐに思い知らせてやる。
「最初に言ったでしょう。仕えるべき主を裏切るなんて許されない、と。ここに来てどちらを信じるかなんて、実に愚かな質問です。――衛兵!」
俺の合図に、近くにいた衛兵が走り寄って、困惑しているメイドを捕らえてしまう。
「な、なによ、どういうこと!? 貴方達、なにをするのよ!」
「――あなたには横領の疑いが掛けられています」
取り乱すメイドに罪状を告げてやる。
「な、なんですって!?」
「侯爵家に仕えるメイドでありながら、自らの主を裏切ったんです。あなたには犯罪奴隷としての一生がお似合いでしょう」
「ま、待ちなさい! いえ、待って! 横領ってなんのことよ!?」
「とぼけても無駄ですよ。消耗品の仕入値を毎回誤魔化していたでしょう?」
「――っ」
メイドが息を呑む。
その反応は、横領の事実を認めるも同然だった。メイド寄りの態度で成り行きを見守っていた使用人達からも驚くような気配が伝わってくる。
「そ、そんな、あの程度の金額で……」
「あの程度……ですか。金銭感覚がずいぶんと狂っているようですね」
彼女が横領した金額は仕入値の一部でしかない。けれど、侯爵家のお屋敷で使う消耗品の仕入値は、使用人の給金から見れば大金だ。一部だとしても見逃せる金額ではない。
「そ、それにしたって、犯罪奴隷だなんて……そんな」
「横領がただ一度の気の迷いだったのなら、重すぎる罪かも知れませんね。ですが……お嬢様を嘘つきと貶めたあなたを、私が見逃すとでも思っているのですか?」
「そ、それこそ、証拠が……」
「周囲をたばかり、横領の罪を犯していた。そんなあなたが僕やお嬢様より信頼を得られると本気で思っているのですか? 子供より大人? その通りです。新人より古参? それもその通りです。だけど、あなたは当主の信頼を裏切った。だから――終わりです」
「そん、な……」
がくりと項垂れるメイドを、衛兵が連行していく。それを見届けることなく、俺はソフィアお嬢様へと向き直った。
「お嬢様、もう大丈夫です。あなたを虐めた悪いメイドはもういません――とっ」
最後まで言い終えるより早く、ソフィアお嬢様が俺の腕の中に飛び込んできた。
「シリル、ありがとうっ! ソフィアのこと信じてくれてありがとう!」
「……当然です。言ったでしょう、私はいつだってお嬢様の味方だって」
俺はそれからもずっとソフィアお嬢様の側にいて万難を排し、ローゼンベルク家を象徴する高貴な薔薇のごとく育つようにと彼女の成長を促していく。
「今日は美しいたたずまいを身に付けるレッスンです。背筋をピンと伸ばして、手足を動かすときには指先にまで神経を張り詰めてください」
「えっと、えっと……これであってる?」
「ええ、とても綺麗ですよ、お嬢様。もう少し静と動の境界に緩急を……えっと、重い荷物を持っているつもりで手足を動かしてください」
「うん、分かったぁ~」
ある日は侯爵家の令嬢に相応しい立ち居振る舞いを学ばせ――
「アン、ドゥ、トロワ、アン、ドゥ、トロワ。腰の高さを変えず、頭も揺らさない、優雅に、美しく歩く。はい、そうです。とても綺麗ですよ」
「えへへ、ありがとう。ソフィア、もっともっと頑張るね」
またある日は美しい歩き方の指導をする。
そんな調子で来る日も来る日もお嬢様の教育を続けた。
お嬢様が年を重ねるにつれ、声楽にヴァイオリン、ダンスなどを学べるように手配し、刺繍や紅茶の淹れ方など、令嬢としての嗜みも教えていく。
幼い子供に厳しすぎると思うかもしれないが、ソフィアお嬢様は一度たりとも弱音を吐いたことはない。
それどころか――
「ねぇシリル。わたくし、あなたの期待に応えられるように頑張ります。ですから、これからもずっと、わたくしに色々なことを教えてくださいね」
もっと色々なことを教えて欲しいと願う。十歳の誕生日を迎える頃には、いつデビュタントを迎えても恥ずかしくないほどの教養を身に付けていた。
正直、悪役令嬢として破滅する彼女のスペックがここまで高いとは思っていなかった。
……いや、彼女の学習能力はそこまでずば抜けたものじゃない。おそらくは平均より上くらいで、もっと学習能力の高い者はいくらでもいるだろう。
だが、ソフィアお嬢様は俺が教えたことをひたむきに練習して身に付ける。決して弱音を吐かず、出来るまで何度も何度も頑張り続ける。
彼女は努力の天才だ。
そんな彼女が破滅しないように、俺は様々な知識を教え込んだ。
貴族の迂遠な言い回しや交渉術を教え込み、自分の身を護れるように護身術を教え込み、俺が前世で学んだ魔術の知識も教え込んだ。
そして――
立ち居振る舞いは侯爵令嬢に相応しく、ボイストレーニングを施した声は他者を惹きつけてやまない。毎日欠かさず梳いた髪は銀の光沢を放ち、エステを毎日施したことで肌も艶やか。
十二歳の誕生日を控えたお嬢様は、才色兼備の天使に成長していた。
「シリル、わたくしの髪を梳いてくれますか?」
「ええ、もちろんです、お嬢様」
サラサラのプラチナブロンドを櫛で丁寧に梳かしていると視線を感じた。顔を上げると、お嬢様が鏡越しに俺の顔を見上げていた。
「どうかなさいましたか?」
「ふふっ、ただシリルの顔を見ているだけよ」
「私の顔なんて見ていても面白くないと思いますが……そういえば、もうすぐお嬢様の十二歳の誕生日ですね」
「そうね。お父様やお母様はお祝いしてくれるかしら?」
「お祝いのメッセージとプレゼントは預かっています。ただ、パーティーには……」
侯爵と侯爵夫人。彼女の両親はなにかと忙しく、お屋敷にいることの方が少ない。別の日にお祝いをしてくれることはあるが、誕生日のパーティーに参加することは滅多にない。
これが、ソフィアお嬢様を悪役令嬢に貶めた原因の一つ。
お嬢様の心理状態を心配したのだが、鏡に映るのは穏やかな笑顔だった。
「お父様もお母様も忙しいのだから仕方ありません。それに、今年もシリルはお祝いをしてくれるのでしょ?」
「もちろんです。私だけじゃなく、使用人一同、心からお祝いをいたしますよ」
作中、悪役令嬢であるお嬢様は使用人に嫌われていた。
これは俺の予想だが、メイドに虐められたと主張したお嬢様の発言が嘘として認識されたことで、使用人との関係が壊れていったのだろう。
だが、この世界のお嬢様は使用人からも愛されている。
「そう、とても嬉しいわ。でも……忘れないでね。わたくしにとって、あなたがお祝いしてくれることがなにより嬉しいのよ?」
「光栄です、お嬢様」
お嬢様はこうやってお世辞を口にするまで成長した。最近ではお茶会で彼女を見かけた他家から、見合いの話が山のように舞い込んでいるらしい。
だが、それらは全て当主がお断りしている。
ローゼンベルク侯爵家には相応の力があり、下手な政略結婚なんて必要としていない。更にいうと、両親は忙しくて家にいないだけで、娘に対する愛情は強いらしい。
ゆえに、ソフィアお嬢様の望む相手と結婚させるつもりのようだ。
もっとも、彼女はもうすぐ第二王子のアルフォースと出会って恋に落ちる。それを知った当主が王子との婚約を取り付けるのがゲームの設定。
そう考えれば、他家からの見合い話を断るのは当然だ。
更にいえば、美しく成長したいまのお嬢様であれば、第二王子を射止めることも容易い。むしろ、黙っていても第二王子の方から求婚してくるだろう。
いまのお嬢様に闇堕ちする素養はなくて、第二王子を惹きつけるだけの魅力もある。ソフィアお嬢様が破滅する未来から救うために、俺が進めていた当初の目標は達成した。
だから、残る不安要素はあと一つ。
ヒロインと第二王子が恋に落ちる切っ掛け、二人が初めて出会うイベントだ。
第一王子の誕生パーティー。
ソフィアお嬢様が第二王子に恋をするそのパーティーでは、貴族のどら息子に絡まれたヒロインが、お忍びで参加していた第二王子に救われるシーンが存在する。
第二王子がお忍びだったこともあり、二人は互いの素性を知らずに別れてしまう。だが、学園で再会した二人は、ふとした切っ掛けにそのことを思い出して恋に落ちる。
だから、俺はそのイベントを――潰す。
王子とヒロインの劇的な出会いを阻止してしまえば、才色兼備のソフィアお嬢様が第二王子を奪われる可能性は万に一つも存在しない。
いよいよ、俺は悪役令嬢が破滅する未来を変えるのだ。
――という訳で、第一王子の誕生日のパーティー。
俺はソフィアお嬢様に同行していた。
ただ、執事としてではなく、何故かエスコート役として同行している。
本来、エスコートは恋人や婚約者がするものだが、子供であったり、そういった相手がいない場合、家族の誰かがエスコートするのが一般的だ。
順当にいけば、家族の誰かがソフィアお嬢様のエスコートをするべきなのだが……両親は忙しく、兄弟にはエスコート相手が存在している。
そこでお嬢様は家族のように慕っている相手、俺にエスコートを頼んできたのだ。
――普通に考えてあり得ない。
俺はローゼンベルク侯爵家に代々仕える名門の生まれだが貴族ではない。そんな俺がお嬢様のエスコートというのは普通に考えてあり得ない。
ただ、俺もお嬢様もまだ未成年の子供だ。
当主もお嬢様が引く手あまたないま、下手な相手にエスコート役を任せて既成事実を作ってしまうより、執事に任せた方がいいと思ったのだろう。
そういった思惑が交錯した結果、普通に考えるとあり得ない状況が実現した。
「ねえ、シリル。いまのわたくしは美しく見えますか?」
「もちろんです、ソフィアお嬢様。あなたはこの会場のほかの誰よりも輝いています。いまのあなたに見惚れない者などいませんよ」
「……それは、シリルも?」
隣を歩くお嬢様が俺の顔を見上げる。その横顔には、子供の頃の泣き虫だったソフィアお嬢様がちょこっと顔を出していた。
「私、ですか?」
「エスコートはほかの誰でもない、あなただもの。他の殿方がどう思うかなんて関係ない。あなたは、いまのわたくしに……その、見惚れてくれているかしら?」
「……お嬢様」
どのようなときでも、エスコートの相手を優先する。
……お嬢様、成長したなぁ。
「もちろん、私も見惚れていますよ」
「……そっか」
お嬢様は呟いて、無邪気な微笑みを浮かべた。それだけでお嬢様に注目していた者達から溜め息が零れる。いまのお嬢様は、紛れもなくこの会場のヒロインだ。
美しく成長したお嬢様のもとに、あちこちの貴族が挨拶にやってくる。だが、貴族には階級が存在しており、下級貴族が上位貴族の会話に割り込むことはない。
ソフィアお嬢様とほかの貴族との顔合わせは優雅に進められた。
ほどなく、そんな流れをせき止め、妙にキラキラとした少年が挨拶にやってくる。
その姿はゲームのスチルそのままだった。
「……第二王子のアルフォース様です。お忍びのようですね」
ソフィアお嬢様に耳打ちをする。さすがに王子に話しかけられるのは予想外だったのか、お嬢様は「まあ」と小さく声を零した。
だが、俺が育てたソフィアお嬢様は突発的な状況にも即座に対応する。洗練された所作でカーテシーをして第二王子を出迎えた。
「あ、えっと……ぼ、僕はアルといいます。えっと……あなたのお名前を、き、聞かせていただいてもよろしいですか?」
「……はい、アル様。わたくしはソフィア。ローゼンベルク侯爵家のソフィアと申します」
今度はカーテシーはせず、屈託ない微笑みを浮かべた。
アルフォース様は顔を真っ赤に染めてしまう。社交界で数多の美しい蝶を見てきたはずの王子も、天使の祝福を受けるのは初めてなようだ。
ちなみに、カーテシーは自分と同等かそれ以上の身分の相手におこなうものである。つまり、ソフィアお嬢様は相手の身分を知っていると最初に態度で示した。
だが第二王子がお忍びの態度を貫いたために、今度はそれに合わせたというわけだ。
もっとも、第二王子の方はソフィアお嬢様の美しさに舞い上がっているようで、そこまで気が回っているかは微妙なところだ。
だが、王子は年相応なだけで未熟なわけじゃない。むしろ、十二歳の子供であることを考えれば十分に大人びていると言える。
ソフィアお嬢様が年齢に似合わずしっかりしすぎているだけの話である。
お嬢様はこの六年ずっと、死ぬほど頑張ってたからなぁ……
俺が手塩に掛けて育てたお嬢様の初恋がようやく始まると思うと感慨深い。
「あの、ソフィアさん。良ければ僕と踊ってくれませんか」
「え、それは、その……」
ソフィアお嬢様が困ったように俺を見た。
ダンスの相手はまずエスコート相手から。だが、相手はお忍びとはいえ第二王子。頭ごなしに断るのもやはり外聞がよろしくないと考えたのだろう。
初恋の相手からダンスのお誘い。本当はいますぐお受けしたいだろうに、そこをぐっと抑えてマナーを優先させて考えている。
いままでずっと頑張ってきたんだから、こんなときくらいわがままになっても良いのにな。
「せっかくのお誘いですから、踊ってくると良いですよ」
「……そう、ですね。シリルがそう言うのなら一曲だけ」
お嬢様が少しだけ寂しげに微笑んだように見えた。だが気のせいだったのだろう。次の瞬間には侯爵令嬢に相応しい微笑みを浮かべていた。
「……シリル。すぐに戻ってくるので待っていてくださいね」
「ええ、もちろんです」
俺はかしこまり、第二王子に手を引かれてダンスホールへと向かうお嬢様を見送った。
金色の王子様に、銀色のお姫様。
愛らしくも美しい二人の登場に、自然と周囲の視線が集まっていく。皆の注目を全身で受け止めた二人は最初の三拍子で抱き合い、音楽に合わせて踊り始める。
第二王子は年相応――少しぎこちなさの残るリードだが、ソフィアお嬢様はその意図を汲み取り、優雅に踊り始める。その美しさにどこからともなく感嘆の溜め息が漏れた。
魔導具による間接照明はホール全体を明るく照らしている。
そんな明かりの下で、お嬢様は殊更輝いて見える。まるで神々の気まぐれかなにかで、光がお嬢様のもとに降り注いでいるかのようだ。
ゲームにおける彼女は、悪役令嬢として処刑される運命でしかなかった。けれど、いまの彼女は紛れもなくこの会場のヒロイン。お嬢様は運命を打ち破ったのだ。
お嬢様が闇堕ちしなければ、必然的に俺も処刑から逃れられる。
俺の当初の目的は果たされた。
――だけど、俺は執事だ。俺の仕事は彼女を幸せへと導くこと。そのためには、まだやるべきことがある。それを成すために、俺は踵を返した。
お嬢様はすぐに戻ってくるなんて言ってたが、初恋の相手との語らいがすぐに終わるはずがない。というか、戻ってきて俺がいなければ、ゆっくり二人で話せるだろう。
そんな風に考えながら、俺は会場を歩き回る。
この会場のどこかに、光と闇のエスプレッシーヴォのヒロインがいる。第二王子はソフィアお嬢様に夢中っぽいので、絡まれているヒロインを助ける相手がいない。
それはいくらなんでも可哀想だし、ソフィアお嬢様の代わりにヒロインが闇堕ちしないとも限らない。そういう可能性は排除しておきたい。
というか俺は、ヒロインのこともわりと気に入っている。そんな彼女が誰にも助けられず、貴族のどら息子に嫌な目に遭わされるのを見過ごせない。
この会場のどこかにいるはずだが……と、居た。ちょうどタイミング良く――と言ったら彼女に悪いが、貴族のどら息子に絡まれている。
俺はつかつかと歩み寄り、ヒロインを背後にかばうように割って入った。
「彼女が嫌がっているでしょう。その辺にしてはいかがですか?」
「あん? なんだおまえは。俺がリード伯爵の息子だって知っての発言か?」
「これはこれは、リード伯爵のご子息でしたか。では後日あらためて――リード伯爵に苦情を申し上げた方がよろしいですか?」
「なっ? そ、それは……くっ。その必要はないっ!」
リード伯爵のどら息子は慌てて退散していった。彼自身はどら息子だが、親は意外と厳しいので、告げ口をされると困るのだろう。
ちなみに、俺がそのことを知っているのは、作中のシーンそのままだったからだ。さっきの俺のセリフも、ゲームの王子のセリフを流用させてもらった。
「お嬢様、大丈夫でしたか? ……お嬢様?」
ヒロインのケアをしようと呼びかけるが、俺の方をぽーっと見たまま反応がない。
「お嬢様? あの、大丈夫ですか?」
「……え? あっ。だ、大丈夫です」
「そうですか。あなたが無事で良かった」
「――ふえっ!? あ、あぁあぁあっ、あの、その……あ、ありがとうございます」
本来であれば王子が助けてくれるはずだったのだ。その運命をねじ曲げて、彼女が不幸になったら寝覚めが悪い。
せめて学校で再会したら、彼女が好きになった相手との恋愛を応援するとしよう。ヒロインである彼女には、王子のほかにも大勢の恋人候補がいるからな。
「それでは、私はこれで失礼します」
踵を返そうとするが、ヒロインに引き留められる。
「あ、あの、私はアリシア。リンドベル子爵家の娘です。お名前を聞いても良いですか?」
……おや? ゲームではお互い名前を知らずに別れてたはずだが……俺が助けたことで少し運命が変わったのか?
まあ……ここで嘘を吐いても仕方がない。
「私はシリルと申します」
「シリル様、ですか?」
「いいえ、様は必要ありません。いまは訳あってこのような恰好をしていますが、私は貴族ではなく、ただの執事ですから」
「え? 執事さん、なんですか?」
「はい。もし不快な思いをさせてしまったのなら謝罪いたします」
「ふえ? い、いえ、うちも下級貴族ですから、気にしません!」
いや、たしかに侯爵家や伯爵家と比べれば子爵家は下級貴族だが、一般人から見て雲の上の人であるのは変わりないぞ。
なんて野暮を言うのもなんなので笑顔で受け流しておいた。
「そ、それで……私、周りに知ってる人がいなくて、その……良かったら一曲、私と踊っていただけませんか?」
「……私とダンス、ですか?」
ヒロインが誰かとダンスを踊るのは本編の中盤以降。好感度がもっとも高い相手とダンスを踊ることで、以降はその相手の攻略ルートに入る。
……とはいえ、ここはゲームの世界と酷似していても現実だ。貴族令嬢が何度もパーティーに出席していて、一度しか踊らないなんてあり得ない。
そう考えれば、他の人間とのダンスはゲーム内で語られていなかっただけだろう。
そんな差異よりも、ご令嬢が殿方をダンスに誘うという行為の方が驚きだ。この世界では、女性からダンスを誘うのははしたないと推奨されていない。
だけど、作中のヒロインはそういうことを気にしない性格だった。
前世の世界では、女性が積極的に行動することは普通だったので、ヒロインはその価値観に合わせた性格をしていたのかもしれない。
それに気付いた俺は、この世界の流儀に染まりつつあるんだろうな。
「あ、あの……ダメですか?」
青みを帯びた瞳が不安げに揺れる。
「いいえ、そのようなことは決して。――お嬢様、私と踊っていただけますか?」
アリシアに手を差し出した。
女性から誘うのははしたないと言ったものの、誘われたダンスを断って女性に恥を掻かすのはやはりよろしくない行為なのだ。
……いまにして思うと、この世界の貴族はわりと面倒くさい。
ともあれ、俺はヒロインと踊ることになった。
一礼をした後、三拍子に合わせてホールドを取る。
アリシアの顔が俺の前に迫る。青みを帯びた髪に縁取られた小顔には、吸い込まれそうな瞳や艶やかな唇など、整ったパーツが収められている。
さすがはゲームのヒロインと言うだけあって愛らしい。悪役令嬢のおまけでしかない俺が、アリシアと踊る機会なんて二度とないだろう。
ちょっとした役得だと思いながら、彼女を優しくリードする。踊るアリシアは楽しげだが、ダンスの腕前は年相応で、俺は三度ほど足を踏まれた。
それ自体は微笑ましい気持ちで受け流したんだが……よくよく考えれば、第二王子だって、ダンスの腕前はヒロインとたいして変わらないはずだ。
お嬢様は、足を踏まれてなければ良いが……と、そんなことを考えながらダンスを終えた。
その後、名残惜しげな彼女に別れを告げてダンスホールを後にする。
刹那――
「……ようやく見つけましたよ」
不意に背後から底冷えのするような声が響いた。驚いて振り返ると、何故かソフィアお嬢様が仁王立ちしていた。
「わたくし、言いましたよね? すぐに戻るので待っていてくださいって、ちゃんと言いましたよね? なのに、なぜ待っていてくれなかったんですか?」
「すみません。第二王子とゆっくりお話をなさると思っておりました」
「どうして、そんな発想になるのですかっ」
なんだか、お嬢様のセリフにトゲがある。こんなに不機嫌そうなお嬢様は初めてだ。もしかして、ダンス中に第二王子に足を踏まれまくったのかな?
「あの、お嬢様――」
「……どうして、わたくしを見てくれないのですか?」
――え? ちょ、ちょっと待って。そのセリフは、ヒロインに第二王子を奪われて、ソフィアが悪役令嬢として闇堕ちするときのセリフじゃないか?
それがなんで、いまこのタイミングで?
………………………………あ、あれ?
もしかしてこれ、俺が王子様ポジになってないか?
……き、気のせいかな?
「ねぇ……シリル。ずっとずっと、わたくしの側にいてくれるって、言いましたよね? なのに、わたくしのことを放っておいて……シリルはあのダンスの相手の方が良いんですか?」
あぁぁあぁぁぁあ、全然気のせいじゃない気がするぅ!
いやいやいや、意味分かんないよ。
俺が王子様ポジ? なんだそれ。俺がヒロインと仲良くしたら、ソフィアお嬢様が闇堕ちして悪事を働いて、俺と一緒に破滅するのか?
色々と無理がありすぎる。
「ねぇ……シリル、どうしてなにも言ってくれないんですか?」
「えっと……その、そう。彼女が絡まれていたので助けたんです。ダンスはそのお礼に誘われたので他意はありませんよ」
「……そう、なの?」
お嬢様の瞳にわずかに光が戻った。
「ええ、そうですよ。困っている彼女を放っておけなかったんです」
「そう、だったのね。シリルはやっぱり優しいんですね。……でも、出来ればわたくしにだけ優しくして欲しいかな……なんて」
「――ぐっ」
なんだ、この破壊力。恥ずかしそうに微笑む姿が天使みたいだ。育てるのに夢中で気付かなかったけど、この娘、ホントに可愛いな。
だけど……俺はただの執事で、彼女は侯爵令嬢。しかも、俺が王子様ポジだとしたら、ヒロインも関わってくるかも知れない。
お嬢様が闇堕ちからの破滅、なんてならないよな?
……いや、冷静に考えよう。
大丈夫だ。俺が育てたお嬢様は、権謀術数にだって対応できるようになってきた。仮に闇堕ちしたとしても、悪事を暴かれて破滅するなんてあり得ない。
いまのお嬢様なら、誰にも知られないように相手を破滅させられるだろう。
――って、破滅させられるの俺だよ!
あ、でも、ヒロインが俺に惚れるとは思えない。だったら大丈夫……いや、ヒロインが第二王子とくっつかないルートでも、なんやかんやで嫉妬して悪事を働いてたな。
やばい、このままじゃ俺が――俺だけが破滅しちゃう。
なんか色々詰んでるよ、どうしてこうなったっ!
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