IKOKU
しろめしめじ
第1話 迷界
直進車を一台遣り過ごすと、俺はハンドルを右に切った。
週末深夜のドライブ。
リアウインドウを開けると、初夏の生暖かい夜風が車内になだれ込んで来る。
白衣をロッカーに放り込んで大学の研究室を出たのが五分前。中古で買ったRV車の、心地良い排気音に心を躍らせながら、ステアリングを切るまでに十分もかかっていない。
急いでいる訳じゃない。
プライベートな時間を一緒に楽しむ彼女はおろか、友人すらろくにいない俺にとって、プライベートでの時間の制約はあってないようなものだ。
国道からはずれたその道は、整然と立ち並ぶ新興住宅地を通り、やがて海岸線を走る産業道路へと通じている。海岸に沿って果てしなく続くコースは、一人身の俺が有り余る時間を費やすにはもってこいの定番のストレス解消だった。
これといった趣味の無い俺が、空いた時間をバイトに勤しみ、苦労の末、購入した黒いボディカラーのRV車は、今となってはかけがいの無い相棒――というより、暇つぶしのおもちゃだ。
いつもなら、このまま定番のコースを走り、コンビニで弁当を買って帰るパターンなのだが、今日の俺は、何故かその選択に気分がのらなかった。意識下に潜む気紛れが騒ぎ立て、お決まりの道筋に難色を示していた。
ルーティンは守ることでプチ達成感が得られる。それはそれで精神的にリフレッシュできるしプラスにもなる。だが、たまには冒険も必要だろう。
悩んだ末に左にウインカーを出し、ゆっくりと左折する。ここから先は住宅地が続き、やがて幹線道路へと舞い戻る。
滅多に通る道じゃない。よく似た家並みの続く道で、単調で面白みがなく、実際、ここ何か月も走った記憶が無い。
ま、いいか。
いつも通っている道とは違う何かがあるかもしれない。
ドラマチックな出会いとか、ショッキングなシーンとか、そんなエキセントリックな出来事との遭遇に期待しているわけじゃない。でも、身近な街並みに潜む普段は見落としがちな風景の発見に、何か心躍るものがあったりするかもしれない。
何となくわくわくしながら十字路を更に左に折れ、民家の間を抜ける――否。行き止まりだった。
妙だな。確かここは直進で国道に抜けられたはず。カーナビも間違いなくあるべき進路を映し出している。データが古いって訳じゃない。先月更新したばかりなのに、いきなり家が建つなんて。
訝しげに車窓から外を見る。目前に迫る家庭菜園。その小さな畝に等間隔に植えられた菜の葉が揺れている。どうやら、何故か民家の庭先に入り込んでしまったらしい。
総二階の木造建築物。みるからに古びた板張りの外壁は、モダンな建物の多い住宅地の中で、何となく異質な存在感を醸している。
どう考えても昔からここに建っていたような家屋だ。なのに何でナビに映らないのか?
不意に、全身を刺す妙な感覚が俺を襲う。
反射的に目でその発生源を追った。
家の二階だ。古びた木枠の窓。カーテンのない窓から、今時珍しい裸電球の光が洩れている。
何か見える。黒い人影が一つ。逆光になっており、ここからじゃ表情までは分からない。だが、裸電球の放つ光が造影したそのシルエットは、細身ながらも角ばった体躯を浮かび上がらせており、そのボディラインからは男性のように見える。流石に年齢までは分からないが。
予期せぬ不法侵入者に対する警告なのだろうか。なんとなく俺をじっと見つめている様な気がする。警察に通報されたら厄介だ。早々に退散するのが賢明だろう。
ギアをバックにいれ、ゆっくりと車道へ戻ると、再び何事もなかったかの様に車を発進させる。ミラーで後ろを見るが、俺を咎めようと追ってくる様子は無い。悪気の無い珍入者として見逃してくれたようだ。
案外、俺以外にも迷い込む者がいるに違いない。ひょっとしたら、ここの住民にとって珍入者は日常茶飯事なのかもしれない。
とりあえず面倒な事にならなくて良かった。
安堵の吐息をつくと、俺はそそくさと住宅街を後にした。
わき道から幹線道路に合流する。
静かだ。住宅街とはまた質の違う、不気味なほどにひっそりと静まりかえった光景が俺を包み込む。
静か過ぎる――その異変に気付くのに、ほんの数秒もかからなかった。
妙だ。
車が一台も走っていない。同じ車線は勿論、対向車線もすれ違う車は一台も無い。深夜とはいえ、さっきまでは乗用車やトラックが必ずと言っていい程視界に入っていたのに。あれからさほど時間は経過していないにも係わらず、この環境の変化は何なのか。
しかも車だけじゃない。不夜城ともいえるカラオケやゲームセンター、ネットカフェ、コンビニ――その全てが暗黒と沈黙の淵に沈んでいる。まるで俺一人を残して、全ての住民が神隠しにあったかのように。
否、そうでもなさそうだ。
数十メートル程先の路肩で、いくつもの誘導灯が揺れている。道路工事じゃない。警察の検問の様だ。飲酒か? それともシートベルト?
警官の誘導に従い、自動車を路肩に寄せ、ウインドウを空ける。
「貴様、今何時だと思っている!」
のっぺり顔の警官が、ぶっきらぼうに俺を叱咤した。
「えっ?」
呆気にとられる。何時って言われても。小学生じゃないんだし。見かけは頼りないかもしれないかも知れないが、これでも先月二十三歳になったばかりだ。
「戒厳令中だぞっ! 忘れたのか? 二十時以降の外出は禁止だ。本来なら容赦無く射殺だぞっ! おい、免許証だせ」
俺は無言のまま、仕方なく理不尽な命令に従った。
警官の横柄な態度には腹立たしいものがあったが、彼の余りにも非現実的な発言への驚きの方が、遥かにそれを凌いでいた。
戒厳令、そして容赦無く射殺――日本の警官の台詞とは思えない。
警官は俺の免許をひったくるように受け取ると、食い入るように凝視した。
刹那、瞬時にして彼の表情が硬直する。
「し、失礼いたしましたあっ、気をつけてお帰り下さいっ!」
警官はさっきまでとはうって変わって丁寧な口調で、恭しく俺に免許証を返すと、背筋をぴんと伸ばして敬礼した。
「あ、どうも」
極端な対応の変貌にどぎまぎしながら答え、車を走らせる。
身体が震えていた。得体の知れない恐怖心が、俺の意識を支配していた。
あの警官が言っていた、戒厳令って何なんだ?
そんなのニュースでやってただろうか。否、やっていない。テレビや新聞はおろか、学校でも誰も話題にしていなかった。
それにしても無茶苦茶な話だ。戒厳令だの、射殺だの。
不意に、視界を人影が過る。
慌ててブレーキを踏む。
タイヤが悲鳴を上げ、止まった。人はいない。気のせいか?
突然、誰かが車のドアをノックした。振り向くと車窓に黒い人影が映っている。
警官ではなさそうだ。
だが、その風貌は異様だった。
フードを目深におろし、おまけに顔を黒いマスクで覆っている。小柄で、細身の体躯だが、車から降りて反撃に出る気にはならなかった。
俺は、奴の右手に釘付けになっていた。
銃だ。リボルバー式の古びた銃。澄み切った静寂の中で、それは俺から反撃の意思を根本からそぎ落とす冷酷な覇気を孕んでいた。
路面に響く複数の足音とただならぬ気配に周囲を見回すと、何人もの人影がこの車を包囲しているのに気付いた。
「降りろ」
機械的な甲高い声が俺に命令を下した。ボイスチェンジャーを使っているようだ。こいつら何者なのか。強盗、もしくはテロリスト?
どちらにせよ、とりあえず従うべきか。
「早く降りろっ」
躊躇する俺に、黒マスクが苛立たしげに吠えた。俺はシートベルトを外すと、渋々車から降りた。
「悪いけど、金は持っていな――」
「喜多尚人さんですね」
黒マスクは、俺の台詞を遮ると、聞き覚えのある氏名を口にした。
こいつら、なんで俺の名を知っているのか。
只の強盗じゃない。こいつら、最初から俺が目的なのか? まさか、誘拐?
呆然と立ちすくむ俺に、奴は白い光を放つペンライトのようなものを翳した。眩しくはないが、光量が微妙に強弱を繰り返しているのが気にかかる。
「スピリチュアルスキャナーに反応無し。生身の人間だ。間違いないようだな」
そう言うと、黒マスクは顎先で仲間に合図を送った。
スピリチュアルスキャナー? なんだそれは?
訝しげに奴を凝視した瞬間、不意に視界が奪われる。目の周囲に柔らかな布の感触。アイマスクか。
「あなたには、車の後部座席に乗ってもらう」
反論の余地もなく、俺は両脇をいかつい男に挟まれ、無理矢理車の後部座席に押し込められた。その直後、運転席に何者かが乗り込む。
車が勢いよく動きだす。その反動で、俺は後頭部を思いっきりッドレストに叩き付けられた。
「俺を何処へ連れて行くつもりなんだ?」
憮然とした態度で奴らに話し掛ける。
返事は無い。それどころか、仲間同志で会話をする訳でもない。皆、誰一人として一言もしゃべることなく沈黙を固持している。聞こえるのは車のエンジン音だけ。ただ重苦しい静寂だけが、吐息の様なか細い時を刻んでいる。
小刻みに右折と左折を繰り返し、小一時間のドライブ後、車は停止した。
ドアが、開く。
「降りろ」
黒マスクの男の声が低い旋律を刻む。
シートベルトをはずし、手探りで車から降りる。大地を踏みしめると、堅い感触が足裏にかえってくる。ざらつきのある感触はアスファルトか。
両脇を挟まれるようにして歩みを進める。
不意にドアのきしむ金属音が響き、取り巻く周囲の空気に動きが無くなる。同時に、どんよりとした濁った空気が俺を呑み込む。
足裏の感触が、ざらざらから滑らかなつるつるに変わった。何処か室内に入ったらしい。
通路を幾重にも折れ、エレベーターらしきものにも乗せられて、下へ下へと進んでいく。
下降が停止し、エアーの排出音が低い旋律を奏でる。エレベーターのドアが開いたのだ。同時に、恐ろしく澄んだ空気が肺を満たしていく。
不意にマスクを外される。瞬間、まばゆい光の洪水が目に流れ込み、視神経を激しく刺激した。
広い。何処かのホテルの結婚式場を彷彿させる巨大なフロアー。紅い絨毯が敷き詰められたその奥に、豪奢な白い円卓があり、一脚だけある白い椅子に腰を下ろしている初老の紳士が一人。
否、実のところはもっと若いのかもしれない。白髪交じりの毛髪の割には、顔に皺はなく、むしろつやつやしている。年の割には濁っていない、柔らかな輝きを湛
えた澄んだ瞳、高く通った鼻筋。薄い唇。ほりの深い顔って、こんな感じなのだろうか。
「お連れしました」
黒マスクの男は、初老の紳士にうやうやしく深々と頭を下げた。
初老の紳士は顔に深く皺を刻みながら、満足気な笑みを浮かべた。
「皆さん、ご苦労様です。彼と二人きりで話をしたいので、しばらく部屋の外でお待ち願いたい」
男は、俺を拘束してきた輩に柔らかな言葉使いで指示を下した。同時に、無数の衣擦れと床を撃つ靴音が、無機質な不協和音を奏でながら俺から離れていく。
輩達は、無言のまま足早に部屋を退出した。敬礼もせず、動作に統制が取れていない。訓練を受けた兵士ではないのは一目瞭然だ。
男は、輩達が部屋から退出するのを見届けると、椅子から腰を上げた。思ったよりも背が高い。百八十センチ位はありそうだ。身体細身だが筋肉質で、引き締まった体躯を包む黒い背広は、あえて肉体に潜む狂気をカムフラージユしているようにも見える。
このじじい、只者じゃない。
「ご無沙汰しております、喜多准教授」
年齢不詳男は目を細めると、うやうやしく会釈した。淀みのない明朗な声が、広いフロアーに朗々と響く。
「あなたは?」
俺は怪訝な表情で彼を見据えた。
「私の顔をお忘れですか? いやに他人行儀ですね。まあいいでしょう。ここでは、私は皆から『案山子』と呼ばれています。あなたもそう呼んでくだされば有難い」
男は苦笑を浮かべた。
「少々手荒い真似をしてしまった事についてはお詫び致します。こうでもしなければ、あなたとお会い出来る機会がないのでね。何しろ、あなたは進出奇抜であらせられる。国民の税金で雇われている御自身の優秀なSPですら、あなたを見失うのもそうざらじゃない――これは言葉が過ぎました」
男は眼を細めながら温和な表情で笑みを浮かべた。
だが、その表情とは裏腹に、奴の眼は、まるで深層心理までもを探るかのような鋭い光を放ち、俺をまっすぐ射抜いている。恐らく、この男を前にすれば嘘をつく事がとてつもなく愚かで無意味である事を思い知らされるだろう。
「残念ですが、私はあなたが探している人物じゃない」
俺はあえて真っ向から案山子を凝視した。奴なら分かるはずだ。俺が微塵も偽りを並べている訳では無い事を。
「ほう、生真面目なあなたからそんなジョークが出るとはね」
案山子は口元に皮肉めいた笑みを浮かべながら、俺を見据えた。
期待外れだった。彼は完全に俺をターゲットと思い込んでいるらしい。
「あなたが研究し続けている時空操作の事で、お伺いしたいことがある」
不意に、案山子の口調が威嚇するかのような強い声色に転じた。
ジクウソウサ? 何だそれは。
俺は、無言のまま奴のとぼけた顔を凝視した。
意味不明だった。俺が大学院で研究しているのは応用化学。ましてやジクウソウサって何? 漢字で書けば時空操作なのか? そんなSFじみた非現実的な空想科学に真面目に取り組んでいる奴がいるのか?
「私は気の長い人間です。ですが、無限にではない。仏ではありませんからね」
自分の事を気が長いなんて奴は、大抵其の真逆が真実の姿だ。それを証拠に、彼は口元に笑みを浮かべているものの、眼は少しも笑っちゃいなかった。知れぬ憤怒の炎が、決壊寸前の理性の壁の向こうで猛狂っているのを、鈍感な俺でもはっきりと見て取れた。
「短刀直入に申します。あなたは何故、あの家に出入りしているのです?」
「あの家って……?」
「我が同志達が目撃しているのですよ。君が、あの家から車で出て来るのをね」
案山子は、勝ち誇った表情で俺を見据えると、今までになく力のこもった口調で言い放った。
「あっ、あの古びた板壁の」
「そう、君が幼少時代を過ごした生家ですよ。今は様々なセキュリティシステムに守られて、我々では侵入不可能ですけどね」
案山子は頬を強張らせると、忌々し気にそう吐き捨てた。
不意に、携帯の呼び出し音が響く。案山子は上着の内ポケットに手を滑り込ませると、額に皺をよせながら、携帯を取り出した。
「何っ? そうか……分かった」
彼は携帯をしまうと、困惑した面持ちで俺を見据えた。
「今、君を拘束した者とは異なる別動隊から連絡が入った。喜多准教授はSPに守られて無事自宅に着いたそうだ。君は、一体誰なんだ?」
案山子は憮然とした表情で俺を見据えた。
「喜多尚人。氏名は同じみたいだけど、ただの大学院生です」
「そんな、馬鹿な……スピリチュアルスーツでもなく、生身の人間で、しかも容姿が似ているだけでなく氏名も一緒だと? ありえない」
案山子は唸り声を上げた。
スピリチュアルスーツ?
容姿が似ている?
氏名だけじゃなく、その准教授とは見掛けもそっくりってことか。
「俺の言った通り、人間違いだったんですよね? ならすぐにでも解放してもらえませんか」
俺は憤る感情を押さえつけながら、相手を刺激しないよう、なるべく温和な言葉遣いで案山子に懇願した。
「待てっ」
案山子が語尾を荒げ、俺を制した。
「ここを知った以上、帰すわけにはいかないっ!」
案山子が叫ぶ。同時に、無数の靴音がフロアーに響く。
俺を拘束した武装集団だ。
「緊急警戒態勢をとれっ! 政府軍の罠かもしれない」
武装集団の中にざわめきが起きる。
「この男を独房に入れておけ。色々と調べてみる必要がある」
案山子はそう言い残すと、小柄な男に守られながら足早に姿を消した。
「行け」
ボイスチェンジャーの不自然な声と共に、二つの銃口が俺に向けられた。さっきの小柄な男よりも二回りはでかい体格の猛者達が、俺の両端に寄り添っている。
やむなく両手を上げ、それに従う。
何が何だか皆目見当がつかなかった。自分でもよく分からないうちに、テロに巻き込まれている――そうなのか? ここは世界に名だたる法治国家日本だぞ。
不意に、凄まじい地響きと共に足元が激しく揺れた。
地震? 否、違うな。振動は頭上からだ。
俺は耳を澄ませた。内耳の奥がじいいいいいんと耳鳴りしている。短時間のうちに繰り返される想定外の緊張に、交感神経が過剰に反応していた。 。
刹那、凄まじい粉砕音と共に、視界が砂埃で閉ざされる。
「くそっ、何だってんだっ?」
俺は咄嗟に床に身を伏せた。
立ち込める粉塵の中で、何かがゆっくりと蠢いている。
うちっぱなしのコンクリート面を打ち据えるかのように、無機質な足音がゆっくりと近付いて来る。
メインの照明が消え、かろうじて灯る非常灯の明かりが、粉塵の舞う視界にその正体を映し出した。
ダークスーツに同色のワイシャツ。そして同色のネクタイ。スリムで長身の体躯に、涼し気な目に高く筋の通った鼻。まるでギリシャ彫刻のような整った顔立ちは、世間一般でいうイケメンすらはるかに凌駕する完璧な美が咲き誇っている、しかもダブルでご登場だ。
但し、その細身の体躯には不釣り合いな獲物を携えて。
巨大なバズーカ砲らしきもの。それも、片手で軽々と掲げている。
敵? 味方?
俺は戸惑いながら、息を凝らしたまま二人の来訪者を凝視した。
テロリスト達は一斉に銃口を二人に向けると、容赦無く引き金をひいた。銃声が立て続けにこだまする。
だが、二人のイケメンはひるむことなく、何食わぬ顔でこちらに近づいて来る。あれだけ弾幕を張っても一発も当たらないのか。
否、当たっている。時折ジャケットやスラックスの表面で白い埃がはぜるのが見える。だが弾は貫通していない。新型の防弾チョッキなのか。見た目は普通の生地と変わらないのに、弾丸の貫通を食い止めるだけでなく、衝撃も吸収してしまうのか。奴ら、いったい何者?
二人の男は面倒臭そうにバズーカ砲を構えると、無造作にトリガーを引いた。
砲声がしない。
玉切れ?、不発?
刹那、水風船が弾けたような破裂音が間近で響き、生暖かい飛沫が俺に降りかかった。。
俺の右横に立っていたテロリストの上半身が消えていた。原形とは程遠い肉片となった上半身の残骸が、その後方に点々と散在していた。
左横のテロリストが悲鳴を上げる。が、次の瞬間、彼の叫び声は鈍い粉砕音にかき消された。頭が消えていた。彼は首から鮮血を撒き散らしながら、二、三歩前に進むと、前のめりに倒れた。
二人のイケメン達に砲口を向けられた途端、テロリスト達の首や手足が次々に吹き飛んでいく。
彼らのバズーカからは、発射音はおろか、煙一つ出ていない。唯一聞こえるのは、トリガーを引く音だけだ。にもかかわらず、その砲口と対峙した者の身体は、水気を帯びた粉砕音をぶちまけながら肉片と化していた。
おぞましい光景に耐え切れず、俺は激しく嘔吐した。
何なんだよ……。
俺は這いつくばったまま、眼前の光景を凝視した。膝ががくがく震えていう事を聞かない。腰が抜けるってこうなんだ。立ち上がろうにも、逃げようにも、下半身はまるで他人のもののように俺の意志を拒絶していた。
あのバズーカ砲から、何かが撃ち込まれている。
いったい、何が……。
押し迫る死を実感しながらも、俺の頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。
不意に、二人の男は動きを止めた。
同時に、強烈な力が俺の襟首を引っ掴む。俺は抗う隙すら与えられぬままに、無理矢理上へと吊り上げられた。少しばかり足が宙に浮く。
俺は顔を捩りながら、吊り上げている奴の姿を追う。
長い黒髪の若い女だ。吸い込まれそうな大きな黒い瞳が俺を捉えている。なんて馬鹿力なんだ。六十三キロの俺を軽々持ち上げてやがる。
もう一人いる。栗色のセミロングの女性が、俺の右横で腕を組んで立っている。
二人とも二十歳前後か。それも、揃いに揃って超美人。服装も白いブラウスに灰色の決して短過ぎる程でもない膝までのミニスカートといった超地味な装いが、かえって彼女達自身の美しさを際立たせていた。
愕然とした表情で、俺は二人を凝視し続けた。
場違いだった。
重装備のテロリスト達がうようよしている中で、無防備なその風貌は何処か異質だった。
「こいつを探しているのか?」
彼女は、デスマスクのような表情で、眼前の二人に話し掛けた。
だが、男の一人は面倒臭そうに無造作に片手で砲筒を構えると、少しの躊躇もせずにトリガーを引いた。
空気の弾ける様な鈍い音が空を裂く。
同時に、水気を孕んだ粉砕音が間近で響く。
愕然としたまま、俺は彼女を凝視した。
彼女の腹部に、巨大な穴が開いていた。
俺を拘束していた指が、急速に力を失い、引き剥がされていく。と、同時に、彼女の体がゆっくりと後方に崩れて行った。
俺の傍らを何かが猛スピードで通り過ぎる。
もう一人の女子事務員だ。
ダークスーツの男が、すかさず砲の照準を定める。
だが、彼女の動きの方が数倍速い。
躊躇する男の顎に、彼女の蹴りが容赦無く炸裂。男の身体が、大きく後方へ吹っ飛ぶ。が、その砲口は確実に彼女を捕えていた。飛びながら、男は引き金を引いた。
鈍い破裂音と同時に、彼女の首が弾け飛び、頭部がごろりと床に転げ落ちる。頭部を失った彼女の身体は、ゆらゆらと揺らめくと、崩れる様に跪き、倒れた。
立ち竦んだまま、俺は二人のパワードイケメン達を凝視した。
動けなかった。
思考を埋め尽す驚愕と恐怖の呪縛を受けて、動こうにも、どうすればよいのか、足をどう動かせばよいのかすら判別不能に陥っていた。
男は首を二、三軽く横に振ると、何事も無かったかのように身を起こした。
見る限り大したダメージは受けていない。圧倒的な強さだ。
男達は俺を見据えると、互いに首を傾げた。俺をターゲットか否か判断しかねている。
が、それはほんの一瞬に過ぎなかった。
人瞬きもしないうちに、二つの砲口は真っ向から俺を捕えていた。彼らは、どうやら俺を排除すべきものと判断したらしい。
生唾をごくりと飲み下す。
不思議と、もはや恐怖心は消え去っていた。開き直りの精神が生んだ傍観者的現実逃避なのだろうか。これから自分の身に訪れる信じがたい現実を、恐ろしく醒めた眼で見つめていた。まるで、B級映画のワンシーンを横目で垣間見ているかのような感覚。
イケメン達の指がトリガーに掛かる。
俺の瞳孔が、目いっぱい広がる。
刹那、視界を遮る人影。黒いフードを被ったテロリストの一人――拘束される時、俺に銃口を突き付けた奴だ。
奴は俺の前に躍り出ると、正面から二人を見据え、対峙した。だが、俺を恐怖のどん底に陥れるきっかけとなった銃は、今の彼の手にはない。あったところで、立場が優勢になる要素は皆無に近い。どうやって戦うつもりなのか?
二人の刺客の指が、確実にトリガーを絞り込む。
俺は眼を逸らした。得体のしれない武器を使いこなす刺客相手に、丸腰で立ち向かうなんて自殺行為だ。
凄まじい振動が空気をびりびりと震わせる。
黒マスクの男は?
恐る恐る顔を上げる。
立っていた。何事も無かったかのように。
どういうことだ?
狐につままれたような表情を引っ提げたまま、俺は言葉を失っていた。
戸惑っているのは俺だけじゃない。パワードイケメンの二人も同様だった。
二人は顔を見合わせると、再びトリガーを引いた。
目に見えぬ砲弾が、再び黒マスクの男を襲う。
次の瞬間、凄まじい重低音の粉砕音と共に、壁が崩れ、床に無数の亀裂が走った。
まさか、弾き返したのか。
そのようだった。男達が立て続けにトリガーを引き続けているにも係わらず、彼女の身体は宙を舞うどころか、微動だにしていない。ただ、周囲の壁に巨大な弾痕が立て続けに無秩序な彫刻を施していた。
奴が動く。
二人の男達に向かって、軽快なステップで瓦礫だらけのフロアーを疾走する。
速い。
全く目で追えない。
狂ったようにトリガーを引き続ける男達。
多分、奴らも俺と同じ状況にある。
奴の姿が見えていないのだ。
奴の右拳が、一人の男の鳩尾に滑り込む。
同時に、男の巨躯が大きく「くの字」に折れ曲がる。
男の背中から、何かが突出した。
奴の腕だ。奴の右腕が男の身体を貫き、串刺しにしていた。
奴は獲物から腕を抜くと、簡抜を入れずにもう一人の腹部に回し蹴りを放つ。
男の動きが停止した。彼の腹部が消えていた。まるで鮫に食いちぎられたかの様に、半月型に腹部が大きくえぐられていた。
二人は、砂塵を巻きながら瓦礫の中に転倒した。
徐に、奴が踵を返す。
まるで、何事も無かったかのような、平然とした態度で。
不意に、瓦礫から微かな金属音が冷酷な音色を奏でる。
男の銃口が、真っ直ぐ此方を狙っている。
標的は奴じゃない。
間違いなく、俺を。
我に返った奴が、右脚で腕ごと砲を蹴り落とす。
だが、トリガーは既に曳かれていた。
地面すれすれから放たれたそれは、えぐる様な弾創をフロアーに刻みながら、猛スピードで接近してくる。
仄かに何かが見える。透明ながら何かもやもやした陽炎のようなゆらぎが、ソフトボールの玉くらいの球体を成している。
それがバズーカから放たれたものであることは確か。でもいったい何なのか。
不意に、誰かが俺の左腕を思いっきり引っ張った。
助かった。いったい誰が俺を?
思いもよらぬ救世主の出現に戸惑いながらも、その正体を追う。刹那、目前で動く影。
俺の思考から言語表現力が瞬時にしてフリーズした。
セミロングの事務員。首から上を吹っ飛ばされた方だ。案の定、頭はない。但し、定位置じゃない場所に、それはあった。
彼女が左手から下げていた。無造作に髪を引っ掴んで。
にこりともしない、無表情な顔で、俺をじっと見つめている。
彼女は徐に自分の頭を持ち上げると、首にぐっと押しあてた。ぐしゃぐしゃにうじゃけていた首の皮膚が見る見る間に接合し、同化していく。
何事も無かったかのように、彼女は手を放した。
首は落ちない。それどころか、接合部の痕跡すらない。
「何なんだよ……」
それが、今の俺にとっての精いっぱいのリアクションだった。
感情も思考も恐怖心も、何もかもが凍てついていた。
奴に腕を落とされた男の上半身は、続けざまに放たれた蹴りに吹っ飛び、二十メートル程後方の壁にめり込んでいた。
徐に、俺を助けてくれたセミロングの事務員が身体を俺に密着させて来る。
温かい体温と息遣いを間近に感じる。
戸惑う俺を抱擁すると、彼女はそのまま後方へ跳んだ。
同時に、凄まじい爆音と噴煙が空間を埋め尽くす。
濛々と立ち昇る粉塵。
その中で、ゆっくりと蠢く人影があった。パワードイケメンのもう一人――寿々音に腹をぶち抜かれた男だ。ぽっかりと空いた腹部の穴から、どろどろしたゼラチン質の半透明の体液を滲出させながら、奴は再び砲口を俺達に向けた。
黒い影が視界を過る。
靡く長い黒髪。さっき腹を撃ち抜かれた方だ。
俺は驚愕の眼線を彼女に注いだ。
穴が、塞がっていた。まるで何事も無かったかのように、貫通していた風穴は白い肌にとって変わっていた。再生したのか。それとも首を飛ばされた彼女の様に、再び融合したのか。但し、ブラウスの生地だけは再生出来ず、肌を曝けだしたままになっている。
風穴男の銃口が、彼女を追う。
が、彼女はそれを遥かに凌ぐ速さで空を駆る。
男の指が、トリガーに掛かり――止まった。。
彼女が奴を見下ろしている。
彼女の太腿級の太さを誇る銃身の上に、まるで鳥のようにそっと降り立って。
男の眼が、恐怖でかっと見開く。
彼女の右脚が、大きく弧を描く。爪先は男の喉にめり込み、そのまま容赦無く喉笛を掻き切ると、頸椎を瞬時にして粉砕した。男の頭部は引きちぎれ、ライナー性の軌跡を宙空に刻みながら真っ直ぐに滑走していく。
不意に、凄まじい粉砕音が周囲の空気をびりびりと震わせる。
夥しい水が上空から降り注ぎ、埃の舞う空間を強制的に沈静する。
スプリンクラーか? 否、そうじゃなさそうだ。
天井が抜けていた。遥か上空の最上階まで。
水は階上の高架タンクが破壊されて流れ出したものらしい。その水が原因でショートしたのか、かろうじて点灯していたオレンジ色の非常灯が次々に消え、見る見る間に闇が空間を支配していく。
「おい、何がどうなってるんだ?」
奴がいると思われる辺りに、俺は声を押し殺して話し掛けた。
「声を立てるな」
抑揚のない事務的な声が耳元で囁く。セミロングの方だ。高慢にすら感じられるその態度に、一瞬、不条理さに対する不満と嫌悪が爆裂しそうになる。が、次の瞬間、その忠告の意味の適正だったことを目の当たりにした。
無数の光の筋が、一斉に頭上から降り注いだのだ。
サーチライトだ。その向こうに無数の人影が蠢いている。
「逃げる」
俺のすぐ耳元で、セミロングの女が口早に囁く。
「逃げるって何処へ?」
問答無用だった。問い掛けの返答を待つまでも無く、俺は二人の異能女子に両脇を抱えられたまま、猛スピードで埃の舞う通路を滑走していた。
俺自身、足はついていない。この二人は瓦礫だらけの通路をもろともせず、俺を抱えながらも巧みに障害物をかわしながら疾走しているのだ。何キロくらい出ているのか。視界は真正面のみで両サイドは完璧に線と化している。
不意に、爆音と共に視界が膨大な粉塵で遮られる。
同時に、二人は俺を抱えたまま跳躍。
次の瞬間、視界が晴れる。遥か眼下にまたたく無数の照明。建ち並ぶ高層ビル群。行き交う車の合間を縫うように、無数の消防車と警察車両がパトライトを回しながら俺達の足元に集結して来るのが見える。
ここは、遥か上空――おかしい。確かここに連れ込まれた時、俺はひたすらエレベーターを下り方面に進んだはず。でも、間違いなく空から地上へと落下している。
何故だ?
疑問が愚問であるかのような現実に身を晒しておきながら、それを納得出来ずにいる自分が余りにも滑稽だった。本来なら、恐怖が全ての感情と思考を先行支配し、酷ければ狂気に走るのも否めない状況であるにもかかわらず、俺は恐ろしく冷静に現状把握に努めていた 。その成果というべきか、俺は不可思議な現況に気が付いた。真っ逆さまに落ちているのではない。緩やかに水平移動しながら、少しづつ座標を下げているのだ。
滑空している。ハンググライダーで空中を闊歩しているかのように。
両サイドの超人女子に眼を向けた刹那、思いもよらぬ光景が両眼に飛び込んでくる。
羽だ。手が薄く平たく伸び、パラセルのそれのように空気を受けて膨らんでいる。
この二人、いったい何者?
いや、それよりも、目に見えない砲弾を弾き返したあの男は――そうだ、あいつは何処へ行った? まさか逃げ遅れたか。
いた。
俺達より遥か先を滑空している。羽が生えている訳でも、パラシュートを開いている訳でもない。そのままの格好で落ちて行く姿が見える。
「心配いらない。大丈夫」
俺の心中を察したのか、セミロング女子が淡々とした口調で呟く。
コンマ数秒後、奴が着地体制に入る。それも綺麗に脚からだ。
着地。凄まじい地響きと共に、半径十数メートルにわたってアスファルトの路面がめり込み、半球型のクレーターを築く。
地面がへこむって……それも、完璧に舗装された車道が。並大抵の衝撃じゃないことを物語っている。
だが、奴は立っている。
信じられない。何事もなかったかのように、ごく普通に佇んでいやがる。
俺達はゆっくり旋回しながら、奴のやや後方に着地した。両サイドの超鳥人女子二名の完璧なサポートのおかげで、俺は衝撃をほとんど体感する事無く、無事地上へと降り立っていた。
静か過ぎる。見た感じはオフィス街の様だから、この時間帯は無人と化してもおかしくは無いのかもしれない。それにしても静か過ぎるような気がする。
「行くぞ、政府軍が来る前に」
奴が口早に叫ぶ。二人の超女子は黙って頷くと、再び俺を両サイドから支える様に抱え込んだ。
「お、おい、行くって、何処へ?」
俺の質問は置き去りのまま、奴は踵を返すといきなり駆けだした。同時に、超女子二名も彼女に続く。
水銀燈の白い光が照らす車一台走っていない車道を、猛スピードで滑走する。風景がめまぐるしく通過し、周囲の装いが次第にオフィス街の高層ビル群から繁華街の雑居ビルへと変貌していく。だが相変わらず俺達以外は人っ子一人いない無人の街並が続いていた。
寿々音は車道をはずれ、路地へと滑り込んだ。俺達もそれに続く。
薄暗い、人気の無い路地を減速する事無く突き進む。
九つ目の角を右折した瞬間、突然、喧騒が俺達を呑み込む。
絶え間無く行き交う人影。人いきれと排ガスの無機質な匂い、それに無数の食物の匂いが入り混じり、妙に懐かしい、それでいて汚物的な臭気となって俺達を呑み込んだ。
不意に、閉店していた店のシャッターが、がらがらと派手な音を立てて開く。小さな古書店だ。丁度その店が昼と夜との選択時間の異なる店舗の境目となっているかのように、古書店から先では、既に店の明りを落としているショーウインドウが、翌日の営業時刻まで静かな眠りについている。
薄暗いシャッターの奥から、黒いTシャツにジーパン姿の一人の若い女性店員が顔を出す。そのいでたちとは対照的な雪の様に白い肌が、まるで貼り絵のようにぽっかりと闇に浮かんで見える。
「さあ、此方へ!」
長い髪を束ねたその女性は、周囲をさりげなく伺いながら、俺達を中に招き入れた。店内は、おぼろげな非常灯がかろうじて闇の支配下に陥るのを防いではいるものの、足元を確認するには余りにも頼りなげで、所狭しと積み上げてある古書の一群が、俺達の進行を容赦なく妨げる。だが流石にその女性店員は状況を把握しているらしく、何の苦も無くスルーしていく。
「靴のままでどうぞ、案山子は既に到着しています」
女子店員は俺達を何もない四畳半程の洋室に部屋へ案内すると、再び薄暗い店舗へと消えた。
俺達は彼女に言われた通り、靴のままで部屋に上がり込んだ。フローリングの、家具一つない部屋。従業員の休憩室にしては殺風景すぎる。
「到着してるって? 誰もいない――わっ!」
不意に、足元が下がった。
床面が下に沈んでいる。それも結構な速さで下方に移動しているのだ。
「部屋全体がエレベーターってかよ」
俺は上を見上げた。まだ一分もたっていないのに、天井が遥か彼方に見える。
エレベーターは下降を停止すると、今度は横にスライドし始めた。今までかろうじてあった仄かな灯りも此方方面には全く届かず、空間は完璧に闇の支配下に落ちていた。
そこから更に数分進んだ所で、床は停止した。正面の闇が、大きく左右に分かれる。同時に、夥しい光の洪水が俺達を呑み込んだ。
此処は何処だ?
愕然としたまま、俺は眼前の光景を凝視していた。
広大なレタス畑が広がっていた。それも、多段式の棚にびっしりと栽培されたそれは、巨大なドミノの様に理路整然と空間を埋め尽くしていた。
「この都市の胃袋を満たしている野菜プラントの一つだ」
「凄いな。もっと規模の小さいやつはテレビのニュースで見た事あるけど、これだけ大規模なプラントは初めて見たよ」
俺は素直に興奮していた。離農者が増加傾向にある現在、それを補うだけの技術がこれだけ躍進的に進んでいるとは驚きだ。
「世間に公表されてないからな。この街自体」
奴は先を進みながら振り向きもせずに答えた。
「公表されてない? 何故?」
「此処の住民は政府がセレクトした者だけ。知的富裕層とか、権力者とか」
奴は忌々しげに台詞を吐き捨てると、何もない壁の前で立ち止まった。
壁が、揺れ始める。否、揺れるというより、壁の表面だけ波打ちだっている。
俺は我が眼を疑った。壁に、ドアが現れたのだ。壁と同色のスチール製のドアが。
「フェイクウォールだ。私達はこういった仕掛けをあちらこちらにセットして、いざという時に利用している」
奴は黙って右手をドアにかざした。同時に、右手が蒼い光に包まれる。
「個人情報を識別している。心配無い」
驚きの表情で凝視する俺に語り掛けるかのように、奴はぼそぼそと呟いた。
「指紋? 静脈?」
「オーラの波調」
俺の問い掛けに、奴はぽつりと答えた。思わず唸る。そんなセキュリティシステムなんて聞いた事が無い。
困惑する俺が納得する余地も無いままに、ドアは徐に開いた。オレンジ色の柔らかな光が俺達を包み込む。ホテルのフロントの様なカウンターが正面に設置されており、その向こうで、これでもかと言わんばかりに整った面立ちの超美人受付嬢が二人、俺達に向かって深々と頭を下げた。
「お疲れさまでした。ミストシャワーを浴びてからお進みください」
栗毛色の長髪の受付嬢が、俺達をカウンター横のドアへと誘った。
マスク男は軽く会釈をすると、ドアの向こう絵と消えた。俺は相変わらず二人の超女に挟まれたままそれに続く。
度の向こうには、青い光に満たされた柔らかな霧が降り注ぐ不思議な空間が続いていた。
距離にして数メートル。正面に見えたドアを開く。
刹那、俺は言葉を失い、立ち竦んだ。
俺達は吹き抜けの巨大ホールの前にいた。スケルトンのエレベーターが超高速で上下し、それを中心にして目視した限りでは十数階以上のフロアーが上方に広がっており、縦横に張り巡らされた通路を無数の人影が行き交っている。
「すげえ……」
それ以上の台詞を、俺は思い付く事が出来なかった。
反勢力部隊が潜むというイメージから、薄暗く埃っぽいアジトを想像していた俺の思考は根本からひっくり返されていた。
「今の通路は身体に就いた汚れや異物を取る施設になっている。盗聴器や隠しカメラとかも機能を失う。体を見てみろ」
奴に言われるままに、体を見回してみる。驚いた。散々浴びたはずの血が、痕跡すら見えない位にまで消えていた。
「これに乗る。ついて来い」
奴は呆然と立ちすくむ俺を促すと、スケルトンのエレベーターを顎先で示し、振り向き
もせずに乗り込んでいく。
とりあえず奴の指示に従うしか術がないので、俺は金魚の糞の如く後に続いた。
エレベーターは、加速に伴う不快感を微塵も感じさせずに高速で上昇すると、不意にぴたりと停止した。
最上階だ。微かな圧搾空気の排出音とともにエレベーターのドアが軽やかに開いた。
グレイに近い金属光沢の壁――否、天井も、床面も全てが、というより、区切りがはっきりしない。空間そのものだけが、そこにはあった。
俺は思わず怯んだ。もし一歩踏み出せば、先の見えない深淵の縁に真っ逆さまに落ちて行くのではないか――そんな錯覚にとらわれ、俺は最初の一歩が踏み出せずに躊躇していた。だがそんな俺には少しも目を暮れずに、奴は迷う事無く進んで行く。その後に続く超女子二名。そうなれば、俺も否応無しに一歩踏み出す状況に追い込まれていった。何しろ今だ超女子の両脇を拘束されているわけで、俺としては観念するしかなかったのだ。
歩き出した刹那、しっかりとしたフロアーの質感が靴底を通じて伝わってくる。床面の存在を認識した刹那、巧妙な錯覚を齎していた内装デザインの幻術が解けた。
フロアーを進み、少し眼線の角度が変わると更に視覚からの情報が細分化され、俺の思考はより明確な空間座標の分析に成功していた。
錯覚とは恐ろしいものだ。誤った視覚情報の齎す思考の歪と潜在意識の取りなす思い込みが、現実の虚構を更にシュールリアリズムに裏打ちされた現実以上に現実的なフェイクを創造していたのだ。もはや、眼に映る風景は、ビル等で見受けられるごく普通の通路に過ぎなかった。
奴はおもむろに歩みを止めると、壁に向かって右手を突き出した。掌が壁すれすれで止まる。
壁が、ゆっくりと横にスライドする。
白一色の、窓一つ無い部屋。その中央に案山子が立っていた。
「ただいま到着致しました」
男が深々と会釈をする。
「よくぞここまで。残念ですが、あのアジトで助かったのは私とあなた達だけの様です」
案山子は眼を細めながら静かに語った。と同時に、側面の壁が、天井が、床が、瞬時にして闇に沈んだ。
否、闇じゃない。闇の中に崩壊したコンクリートの瓦礫やねじ曲がった鉄骨が見える。仄かに立ち上る水蒸気と煙が、濃紺色の夜の帳に怨恨の調べを刻んでいた。
廃墟だ。それも、たった今廃墟と化した建造物の姿。俺達がさっきまでいたこいつらのアジトだ。これは映像なのか。
ふと足元を見る。刹那、俺は慌てて後方に退いた。俺の脚元に人が倒れていた。こいつ、俺を拉致した男の一人だ。マスクで顔のほとんどを覆ってはいるものの、顔の輪郭といかつい肩に見覚えがあった。下半身が瓦礫に埋もれ、身動き一つしない。否、違う。胴から下が無いのだ。無残にも胸部から引きちぎれ、もはや瓦礫の一部と化していた。
彼だけではなかった。闇を走るサーチライトに照らされ、もはや元形を留めていない反乱分子達の姿が闇夜に浮かびあがっていた。
彼らは復活しないのか。二人の超女子みたいに。
よく見ると、闇の中を蠢く無数の人影が見える。ダークスーツ姿の長身の男達。ワード・イケメンの仲間の様だ。
「新型のスピリチュアルスーツです。戦闘能力はスタンダードタイプの十倍は遥かに凌ぐ性能です」
セミロングの超女子が抑揚の無い事務的な口調で淡々と語った。
「厄介な新型だ、攻撃を弾き返してもリターンしなかった」
黒マスクの男が、忌々し気に呟いた。
「確かに。今までの木偶に比べると見違えるほどの攻撃力でした。でもまだまだ君や私の秘書達にはかなわない」
案山子は疲れた表情を浮かべながらも何処か満足気な笑みを浮かべた。
俺の両脇に佇む超女子達が深々と頭を下げた。この二人、案山子の秘書なのか。
「まだ紹介していませんでしたね。私の秘書、沙由良と稀羅羅です」
「沙由良だ」
「稀羅羅だ」
ロングヘヤーとセミロングが無表情のまま交互に俺を見た。超シンプルな自己紹介。それも愛想笑い一つ浮かべずにだ。
「秘書といっても、彼女たちの任務は多種多様です。今回のように実戦の最前線に立つこともあれば、工作員として敵地に潜入したり、それこそ本来の秘書業務もこなします」
案山子は誇らしげに秘書を見つめた。彼にとっては自慢の部下なのだろう。ただ、普通の人間ではないのは確かだ。
徐に、案山子は俺に温和な眼線を向けた。
「私はあなたに謝罪しなければなりません」
「えっ」
「本物の喜多准教授の存在を確認した時、てっきりあなたは政府軍が遣わしたデコイだと思ってましたから。でもどうやらそうではなさそうだ」
「デコイ? 囮ってことか?」
「そう。政府軍が我々の隠れ家に潜入する為の囮だとね。でも、彼らはあなたの事を認識していなかった。それどころが、彼らはあなたを我々が自分達を陥れる為に仕掛けた罠だと思い込んでいます」
「何故、そんな事が分かったんです?」
「スパイですよ。と言っても人間じゃない」
「?」
「政府のスーパーコンピューターに協力者を忍ばしていますから」
コンピューターウイルス? か。
「と、言う事は、俺は全くの無関係だったという事ですよね」
「そう言う事です」
「じゃあ帰ってもいいだろ? ここの事は誰にも言わないと約束する。何なら、あんたの力で俺の記憶を消してもらってもいい」
俺はたたみかける様に案山子に迫った。恐らく重要機密を目の当たりにした以上、そのまま素直に解放される事はないだろう。多少のリスクがついてまわるのは覚悟の上だ。
それでも、俺としてはこんな常軌を逸した世界からさっさと脱出したかった。出来れば、このまま記憶があやふやになり、気がつけば自室のベッドの上で爽やかな朝を迎えていましたという感じの夢落ち的展開を渇望していた。
「残念ながらそれは出来ません」
案山子は優しげなフェイクスマイルを満面にたたえながら、俺にそう断言した。
「出来ないって……?」
「本当に出来ないんです! 私の力ではね」
案山子はこめかみに血管を浮かべながら俺の訴えを遮った。
「どう言う事、です?」
俺は愕然としたまま案山子を凝視した。
「ここを出ても、あなたに帰る場所はないんです」
「えっ?」
「あなたは存在していないんです――この世界ではね」
案山子は、困惑した表情を浮かべながら、静かな口調で答えた。
俺は言葉を失っていた。
意味が理解出来ない。存在しないとは、どう言う事なのか。実は、俺、何かの事故に巻き込まれて死んじまっているとか。
そんなはずはない。
俺は間違いなく生きている。
「あなたの個人データを検索してみました。出生場所、生年月日、家族構成、その全てが何一つヒットしないのです。不思議でした」
「え、どうやって調べた?」
俺は驚きながらも疑いの目を案山子に注いだ。拘束されてからの間、俺は一切プライベートについては聞かれていないし、免許証や財布、携帯もテロリスト達に取り上げられたりはしていない。調べようがないはずだ。
「あなたをここにお連れしたときに毛髪を一本拝借して調べました」
「え、いつの間に?」
「ミストシャワーですよ。通過されている間にね」
案山子は、呆気にとられる俺が愉快なのか、さも楽し気に笑みを浮かべた。
「そんな……そうだ、戸籍があるはず。俺の個人情報を教えるから調べてみてくれ。あんた達なら出来るだろう?」
「戸籍? そんな事務レベルのものじゃない。現在、行政が管理しているのは生誕と同時にデータベースに登録される遺伝子情報ですよ。どんな身分の者でも、くまなく登録管理されている究極のデータバンクなのです。あなたのDNAのデータはいくら探しても見つからなかった」
「え、そんなのあるのか?」
驚きと懐疑の声が喉から迸る。
だが同時に案山子も俺と同様の表情を浮かべた。
「ほう、面白い事もあるものですね」
案山子は妙に感慨深げに呟くと、何度も一人で頷いた。
「君と全く同じリアクションをした人物が、もう一人いるのですよ」
「それは?」
「あなたのすぐそばにいる女性です」
俺は左右に佇む超女子二名に眼線を走らせる。
「残念ですが、彼女達ではありません。とはいっても、二人とも出産データはありませんから、ある意味近いかもしれませんが」
案山子の意味深な言い回しに、俺の思考は消化不良を起こし掛けていた。
だが、俺の近くにいる者を消去法でリジェクトしていくと、答えは言うまでも無く。
奴は徐にフードを上げた。途端に押し込められていた長い黒髪が零れる。唖然とする俺を尻目に、顔中を覆い隠していたマスクを外す。大きな眼、高い鼻筋。意志の強そうな澄んだ瞳がおれを見つめていた。日焼けしていない色白の肌は、ほんのりと主に染まっており、妙にそそるものがある。
女子だったのか……それも、若い。十代後半くらいか。
「月島寿々音。寿々音でいいよ」
寿々音は俺を見つめると、淡々とした口調で呟いた。
「彼女もあなた同様、個人データが存在しないんです。我々があるエリアを調査した時、ある古びた民家の庭先で彼女を発見したんです。呆然自失の状態で蹲るところをね」
「それって、ひょっとして」
「心当たりがある様ですね。古びた日本家屋の裏庭――家庭菜園の中でね。所有者は、もう一人の貴方、喜多尚人准教授です」
古びた板壁とオレンジ色の強烈な照明が、鮮明な画像となって脳裏に蘇って来る。
あの時、窓越しに見えた人影――あれは、喜多准教授だったのか?
「図星の様ですね。あなたもあの場所に?」
案山子は俺の表情から思考を読み取ったのか、満足気に頷いた。
「迷い込んだんだ。偶然。今までにも通った事のある道なのに、初めて見る場所だった」
「ほう」
案山子は眼を細めた。
「あの家、何かあるのか?」
「彼は、あの家で時空を操作する実験をしているのです。あなたと美寿々さんはその実験に巻き込まれて、こちらの世界に迷い込んだのですよ」
俺は息を呑んだ。既に非現実的な状況に置かれているにもかかわらず、更に飛躍した超非現実的発言に、俺は戸惑いながらも受け入れざるを負えない現実を反芻していた。
つじつまが合うのだ。強引ではあるが、案山子の発言には、全ての疑問と違和感を裏打ちさせるだけの説得力が秘められていた。
ここが、俺の住み慣れた日本とは異なる世界であるなら、あらゆる非日常的出来事も、現実としてとらえてもおかしくないのかもしれない。
普通なら、こんな馬鹿げた思考に囚われたりはしないだろう。
普通じゃないのだから。
どう考えたって、今までの常識の当てはまらない、理解出来ない領域に俺は放り出されているのだから。
「あの家の近くにある化学工場で、先月大規模な火災が起きたのを覚えていますか?」
「いえ」
俺は言葉短く答えた。事実、そんなニュースなんか聞いた事も無いし、化学工場があったことすら知らない。
僕のそんなリアクションに、案山子は驚く事も無く、むしろ納得したかのように頷きながら再び口を開いた。
「野球場程の建屋が半焼して鎮火したんですが、その家屋の損壊状況が譜に落ちない」
不意に、風景が変わった。
焼け崩れた建造物。高温でねじり曲がった無数の配管が地面をのたうち、散乱するコンクリート片の中に埋もれながら沈黙を守っている。鎮火しているにもかかわらず、流出した何かしらの薬剤が化学反応をおこしているのか、所々で白煙が立ち昇っている。
でも、妙だ。何となく不自然な気がする。何がどうおかしいのかは、うまく説明出来ないけれど、明らかに変な光景だった。
「その顔は、あなたもこの光景の不自然さに築いた様ですね」
案山子はうれしそうに頷きながら困惑顔の俺を興味深げに見つめた。
「ええ、何となく」
「ヒントを差し上げましょう。お皿の上のプリンをスプ―ンで一口分すくいとった画像を想像して見て下さい」
「あっ!」
俺は思わず声を上げた。案山子が差し伸べた救いのヒントは極めて適切で、俺の思考に足枷となっていたストレスを一瞬にして粉砕した。
案山子の言葉通りだった。
建造物が、まるで巨大スプーンでえぐり取られたかのように綺麗に消失しているのだ。消失した断面は、常識では考えられない程に綺麗な曲線を描き、想像を絶する何かが生じた事を明白に物語っていた。
「あの時、時空操作で工場の一部が消失しました。でも、工場は巻き添えを食らっただけで本来のターゲットではなかった」
「じゃあ、何だったんですか?」
「核ミサイルです。狙いはあの家でした」
「え?」
躊躇いもなく即答で答える案山子を、俺は驚きの眼差しで凝視する。
案山子はそんな俺の反応を満足げに受け止めると、微笑みながら目を細めた。
「ステルス的な機能を兼ね備えた長距離型大陸弾道ミサイルTR8782。表面はカメレオン構造になっていて周囲の風景に溶け込む為、レーダーはおろか肉眼でさえ捕え辛い。弾頭は勿論核が装備されている厄介な代物です。何しろ、何処から発射され、何処に向かって飛んでいくのか、熱源探査装置でも装備しない限りは全く追撃出来ないのですから」
「それは、いったい……?」
「発射したんです。連合軍の潜水艦がね。まあ、あくまでも推測ですが。しかも実に二回も同じ場所に撃ち込まれています。一回目は、化学工場が火災になる一か月前でした。恐らく連合軍もあの家について何かしらの情報をつかんでいるようです」
「連合軍? 二回?」
「日本は今、戦争中なんですよ、まあ、公表はされてませんし、地上の連中もそんな事全く自覚していません。何しろ、あくまでも水面下での話ですからね。表立っての外交じゃあ、笑顔で握手したりしていますし、外国人観光客も普通に行き来していますから」
俺は呆気にとられた表情で案山子を凝視した。言っている事が無茶苦茶だ。余りにもエキセントリックで非現実的な発言に、俺は戸惑いを覚えていた。
ひょっとしたら。俺は騙されている? これはテレビの特番のロケで、案山子や寿々音達も、実は役者で……じゃあ、パワードイケメンや超女子の首がぶっ飛んだり、ビルから飛び降りたりしたのは、催眠術でもかけられた?
「信じられないようですね」
案山子は苦笑を浮かべた。
「余りにも突拍子過ぎて」
「無理もありません。この事実に気付いている者はほんの極僅かですからねえ」
案山子は間延びした口調で答えると、くぐもった笑声を上げた。
どういう事だ?
ますます信じられない。そんな現実味の無い戦争だなんて、やっぱりあるわけない。
「ミサイルはどうなった?」
「飛ばされました。何処かの空間にね」
案山子はにやりと笑みを浮かべた。
「何処かの……空間って……」
俺は訝しげに案山子を凝視した。
常軌を逸している。余りにも非現実的過ぎる。ミサイルを別の空間へ飛ばしてしまったって? そんなふざけた事が実際にあるなんて、信じろって方が無理がある。じゃあ、あの化学工場の破損状況は、どう言えば説明がつくのか。
そうか。深く考えるまでも無い。あれはフェイクだ。画像処理した偽りの画像だ。
でも。
ごくり、と喉が鳴る。
そこまでして俺をはめて、何の得になる? なりゃしない。俺は一般人だ。芸能人でも、政界の実力者でもなければ、大富豪でもない。なのに、何故?
俺は案山子の話に翻弄される中で、同時に潜在意識の中に埋没している記憶の一つを抽出し、咀嚼していた。
あの時――あの家屋で何者かが佇んでいるのを窓越しに見かけた時、俺は既に此方の世界に引き込まれていたのか。
前兆は無かった。そればかりか風景が変わる事も、異音も、異臭も全くなかった。
ただ、世界だけが変わっていた。
でも、そんなこと、本当にあるのか?
「案山子さん」
「案山子で良いですよ」
「教えてほしい。なんで戦争になっちまったのか」
「きっかけは、日本に対する妬みでした」
案山子は遠くを見つめながら静かに語り始める。
「産業や経済、そして文化に至るまで、日本は高度経済成長以降、目まぐるしい発展を遂げ、ついには情報と流行の世界的発信基地とまで言われる様になりました。先進諸国、特に大国にとっちゃ、ちっぽけな島国が世界の中心的存在になるのは疎ましくて仕方が無かった。又、周囲の近隣諸国もしかりです。彼らもまた、アジアの覇者どころか世界の指導者的存在にまで発展した日本を常に敵視してきました」
朗々と語る案山子の話を、俺は無言のまま聞き入っていた。
俺が存在していた日本も、第二次世界大戦以降、急速に成長し、世界経済に多大な影響を与える存在にまで成り上がっている。共通点はあるようだが、科学の進歩は遥かにこちらの日本の方が進んでいるようだ、。それ故に、世界に与える影響度も、俺の想像以上に計り知れないものがあるのだろう。
とはいえ、その先の選択肢が世界大戦というのは、正直のところ腑に落ちなかった。
科学が飛躍的に進んだ世界だ。兵器の類も、恐らくとんでもないくらい強烈な進化を遂げているに違いない。
賢明な指導者なら、自ずと分かるはずだ。抑止力の枠を超え、実践に踏み切ったら最後、全てが灰になる可能性が極めて高い事を。
「他国の財界や政界の重鎮達は国内にはびこる不満を解消するすべく、関税対策や輸出入規制等、どう考えても理不尽な手段を用いて日本を弾圧しました。だが日本は屈しなかった。あらゆる規制に対して反論せずに受け入れながらも、日本は発展し続けたのです。何故だと思います?」
案山子の眼が俺を貫いている。俺の洞察力を試しているのだろうか。残念ながら、俺は彼の期待に答えられず、沈黙のまま困惑のまたたきを繰り返すだけだった。
「一つは、日本の卓越した技術です。原材料の輸入制限や厖大な関税に苛まれながらも、秒刻みで進化を遂げている技術力が全てのマイナス要因を凌駕し、柔軟に対応し続けている結果なのです。それ故に、諸外国も規制を設けつつも取引せざるを得ないのです。そしてもう一つは、各産業の根本的要因である原材料の完全自給自足に成功したことです。燃料、資材原料、食材――その全てを、日本はこの国土内で賄っています」
「ガソリンも?」
「エネルギー効率の良いバイオエタノールで代用です。鉱物資源のリサイクルは勿論、高性能の採掘システムで地下を掘り進み。至る所で無数の鉱脈の発掘に成功しました。それに伴い、採掘跡は補強され、重化学工業のプラントやアグリ関係のバイオプラント、そして住宅が整備されて地下都市が誕生しました」
「それが、ここなのか」
「いいえ、最初に貴方をご案内した場所です。言わばプロトタイプと考えていただければ言いかと。今はほぼゴーストタウン化していますがね。此処は更にその地下。その規模は最初の地下都市の千倍以上はあるでしょう。日本列島の真下に、もう一つ日本列島が隠れているのです」
立体画面が変わった。暗色に沈んだ先程の風景とはうって変わって、イルミネーションの洪水が溢れる大都会の夜景が視界いっぱい映し出されていた。
俺は吐息をついた。
吐息しか出なかった。
なんてスケールだ。ここは本当に日本なのか?
それも地下都市だなんて。
「但し、新地下都市は他国だけでなく、自国の地上人にも知られておりません。我々の潜在意識にここの住民以外には伝えてはならないという強い暗示が掛かっているのです」
「そんな、どうやって?」
「此処に訪れる際に幾つものゲートを抜けるのですが、そのいづれかに強力な催眠装置が設置されており、知らず知らずのうちに暗示の束縛を受けてしまうのです」
「それは俺もなのか?」
「恐らく。まあ、諸外国から見れば不思議だと思いますよ。地上の日本の姿はここ十数年変わり映えしないのにもかかわらず、市場は潤っている訳ですから」
「でも何でそんなことを」
「戦時中だからです。本土決戦となって地上が焦土と化しても生きのびる為に」
「選ばれた者だけが、だろ?」
「誰にそれを? よくご存じですね。まさにその通りです。我々が立ちあがった理由もそこにあります。選ばれた者の選出基準をご存知ですか? 財界、政界、優秀な頭脳の持ち主、ずば抜けた美貌の持ち主といった、いわゆる独断的判断で選出した『優性種』の遺伝子保有者だけです。全く持って愚かで身勝手な選出理由だと思いませんか? 」
案山子は頬を紅潮させながら、熱い口調で俺に訴え掛ける。
俺は肯定も否定もしなかった。弁士のように淀みなく台詞を紡ぎ続ける案山子の饒舌ぶりに圧倒され、ただただ茫然としたまま彼の顔を凝視するだけだった。
「話を戻しましょう。諸外国、それも列強と呼ばれる国々からしては、第二次世界大戦の敗戦国が世界を牛耳る存在になったのだから、これ程面白くない事はないでしょう。とはいえ、彼ら大国の首脳陣は自分達から正面きって喧嘩を売る様な、馬鹿な真似はしませんよ。日本には全く非はないですし、むしろあらゆる面で不当な圧力をかけてくる彼らの方に非があるのは、誰から見ても明確ですから。それで表面的には事故に見せかけたり、隠密のうちに処理しようとするのです」
「ミサイル撃ち込んでおいて事故はないと思うけど」
俺は思わず苦笑を浮かべた。でも案山子はそんな俺の上げ足取りには少しも動じず、再び熱弁を振るい始める。
「真っ向から訴えても彼らは絶対に認めませんし、国連も圧倒的に彼らの肩を持つでしょう。今まで、日本政府はあくまでも隠密に対応してきました。あえて受け身でね。ところが、此処に来て急に方向性を変え始めたのです。守りから、攻めへとね」
案山子の眼の奥底が、ぎらりと光る。
「対抗してミサイルを撃ち込むとか」
俺の問い掛けに、案山子は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「それはないですね。直接的には」
「どういう意味ですか」
「丁度最初のミサイルが撃ち込まれた頃、某巨大国家の原子力発電所で爆発事故がおきましてね。一つの州が吹っ飛んでしまうほどの大惨事だったのです。この意味、分かりますか?」
「まさか?」
「そのまさかです」
案山子の表情が強張った。さっきまでの笑みが消え、沈痛の面持ちを浮かべている。
「次空をコントロールできるのであれば、これ程最強の攻撃手段はありません。極端な話、武器を保有していなくても勝てるんです。敵が撃ち込んできたミサイルをそのまま送り返せばいい訳ですから。最も効果の得られる場所にね」
案山子の抑揚の無い声が静かに響く。
俺は黙って案山子を凝視した。じっと俺を見つめる彼の瞳孔は開いておらず、決して俺に虚偽を物語っている様には思えなかった。
「政府は、あえて火器の開発には手を付けてはいません。それよりも、ピンポイントで攻撃を仕掛けて国の中枢を抑える事が出来る兵器に力を注いでいます。時空操作だけでなく、私達のアジトを襲撃したスピリチュアル・スーツとかね」
「あれは、何なんです?」
「憑依型ファイティングスーツの一種です。肉体から離脱した幽体を憑依させることで、あたかも自分の肉体の様に自由に操れる代物です。少々意味合いが違いますが、遠隔操作の様なものです。自分の本当の肉体は無傷のまま、ハードなファイトが可能な訳ですから、死の恐怖に怯える事無く最前線に立てるのです」
「貴方の秘書達もそうなのか?」
「いいえ。彼女達は彼女自身ですよ。それ以外の何者でもない。あらゆる生物の特性を遺伝子操作で組み込み、私が作り上げたパーフェクトヒューマノイドです」
俺は眼線をさりげなく二人の超女子に向けた。二人は相変わらず無表情のまま、正面を向いて直立している。完璧なまでの生物兵器。簡単に表現するならそんなところだろうか。
「敵の武器、あれは何なんだ? 何だか透明な気体みたいなものが発射されてたけど」
俺の問い掛けに、案山子は一瞬目を丸くする。
「素晴らしい! あなたにはあれが見えるのですね。あれは『気』の塊です。特殊な能力者にしか見えないのですよ」
案山子は嬉しそうに何度も頷きながら語り続けた。
「あの武器はスピリチュアル・ウェポンと呼ばれています。人が保有する生体エネルギー、つまり『気』を凝縮して撃ち込むんです。用途によってバズーカやロケットランチャータイプや拳銃タイプのものまで様々な種類のものが存在します。厄介なのが、あの弾丸です。発射音が全くしないし、扱う者が疲弊して倒れるまで弾切れにならない厄介な代物です」
「これだけの科学技術があるなら、公表した方が抑止力になるんじゃないか? そうなればミサイルを撃ち込まれる心配も無くなるんじゃあ」
俺の問い掛けに案山子は苦笑を浮かべた。
「残念ながら、抑止力としての効果はほんの数カ月です。彼らはひれ伏すどころかこぞって技術を盗もうと必死になります。やがて技術のコピーに成功するや、すぐさま兵器として日本に送りこんでくるでしょう」
「悲観的過ぎる」
「悲観的? 違いますよ。用心深いのです。但し、今の政府が出した結論はもっと悲観的で極論ですけどね」
「それが、戦争ということ?」
「ええ。それも世界相手にね。政府の考えは都市機能を地下に移した上で、地上を囮にし、全面戦争終結後に世界を掌握しようとしているのです」
「無茶苦茶な……」
「無茶苦茶です。それも、独善的で理不尽な歪んだ選民思想を元に国家を存続させ、強いては世界の頂点に立とうとしているのです。我々は、この忌むべき思想構造を根本から排除し、政府が秘かに企てている野望を阻止しようと立ち上がりました。でも決して他国に屈しようとか、情報を流して日本を敗戦に追い込もうとしているのではありません。戦わずして勝つ――それが、我々の目的なのです。あくまでも平和的手段でね」
俺は黙ったまま案山子を見つめた。この男の発言は、とてつもなく常軌を逸している。
それに、平和的手段なんて言っているけど、さっきのアジトでの彼らのとった行動を見ると、決してそのようには思えない。
否、そんなことより。
俺は、これからどうすりゃいいんだ。次元の違う世界に飛ばされ(案山子の言ったことが真実ならば)、それも戦争の真っただ中に放り出された身の上だ。
「さっき話しました通り、私はあなたを元の世界へお連れする事は出来ない。ですが、全くチャンスが無い訳でもない」
「それは、どう言う事?」
「喜多准教授ですよ。彼を拘束すれば、何かしらの手段を得られる可能性がある。どうです、我々に協力していただけませんか。此処での生活は保証します」
「協力って、俺、何の取り柄も無いし」
俺は戸惑った。ごく普通の青年に、さっきアジトを壊滅状態に追い込んだ化け物どもの相手をしろというのか。
「まだ気づかれていませんが、あなたには十分過ぎる程の存在意義がある」
「俺と同姓同名のそっくりさんに成り代わってスパイでもやれと?」
「まさか。まあ、それもありかもしれませんが」
案山子は苦笑を浮かべた。
「じゃあ何です?」
「あなたには『異邦人』故のスペックが眠っているのです」
「えっ?」
異邦人? 異邦人って?
意味不明の説明に、俺は戸惑いながら目を泳がせた。
「私は他の時空世界からの訪問者を『異邦人』と呼び、その能力について研究をしています。何がファクターになっているのかは分かりませんが、異世界からの訪問者は、この世界を訪れると特殊なスペックを覚醒します。寿々音さんも元の世界では普通の高校生だったのですよ。ですが、今の彼女は超人的な攻撃力と相手の攻撃をはね返す高い防御力を兼ね備えています。貴方もひょっとした同様の力を覚醒するかもしれません」
奴はそう言うと、ぞっとするほど優しげな笑みを満面に浮かべた。
俺は黙って寿々音に視線を向けた。彼女は俺の眼線に気付くと黙って頷いた。
(他に頼る所は無いのだから、従った方が無難)
彼女のそのしぐさから、俺はそう悟った。
「分かった」
「有難うございます。では早速ですが、健康診断をさせて下さい。万が一、未知の世界から厄介な病原体でも侵入してきたらひとたまりもありませんから」
「その前に、一つ聞いていいかな」
「何でしょう」
「異邦人は、俺と寿々音以外にもいるのか」
「います。我々が捕捉している情報以外にも、何人かいるはずです。恐らくこれから出会う機会もあるでしょうね」
彼は特に押し黙る訳でもなく、驚く程あっさりと回答した。意外だった。極秘事項でも何でもないのか。
「それでは、私はこれで。しばらくお待ちください。迎えが参りますので」
にこやかな笑みを浮かべながら、案山子は部屋を後にした。
彼が退室したのを見届けると、俺は大きく吐息をついた。
よく分からないうちに、俺はテロリストの一員になってしまった。
不意に、背後でエアーの抜ける様な音がする。
振り向くと、市街を映し出している映像の一部が長方形に切り取られた様にぽっかりと口を開け、一人の青年が姿を現した。色白で長身瘦躯の体躯。歳は三十歳前後だろうか。銀縁眼鏡の奥に輝る細い眼が、俺を興味深げに見つめている。
「医師の呉羽です。御案内します。私について来て下さい」
彼は事務的な口調で俺にそう促すと、すたすたと歩き出した。
俺は慌てて呉羽の後を追い部屋を出る。
通路を右方向に十数メートル直進した所で、呉羽は徐に壁に手を翳した。同時に、壁がスライドし、人が一人通れるくらいの長方形の空間が生じた。
「どうぞ」
彼に言われるままに、俺は恐る恐る入室した。
窓一つない部屋。淡いブルーの光に満たされたその部屋の中央には診察台がおかれ、その周囲には無数の検査器具が取り囲むかのように並び、更にはその間をぬうように無数の配線が伸びている。
数歩進んだところで、脚先がこつんと軽く硬質の壁にあたった。ガラスがあるのか?でもそんな様にも見えない。見たところ何もないはずなのに、間違いなくそこには何かがあった。
俺は恐る恐る手を伸ばし、見えない壁に触れた。
硬い感触。やはりガラス? そんなんじゃない。何か金属に近い質感がある。
「透過性セラミックのシールドが張ってあるから、そこからは入れないですよ。どうぞこちらへ」
呉羽は徐に向きを変えると左サイドの壁に向かって歩き出した。
「こちらへって――へ?」
消えた。
俺の眼の前で呉羽は忽然と姿を消した。というよりも、壁の中にずぶずぶと入り込んで行ったのだ。
ふと真横でノッキングする音が響く。呉羽だ。優しげな笑みを浮かべながら、見えない壁の向こうから、俺に向かっておいでおいでをしている。
なんとかウォールだ。レタスの巨大プラントを抜けてここに来た時、通って来た隠し壁だ。そうと分かれば躊躇しなくて済む。。
呉羽が消えた壁に向かって、俺はずんかずんかと進んだ。壁は俺を拒絶する事無く、身体は何の抵抗も受けないままに壁にめりこむやそのまま通過した。
一瞬にして、シールド越しに見た風景が眼前に現れた。
「どうぞ、こちらに」
呉羽は俺を手招きすると、部屋の中央に設置された診察台を示した。
「靴を脱いで上がって下さい」
導かれるままに靴を脱ぎ、診察台上に身を横たえる。
「フードで覆いますがご心配なく。検査は一分程で終了します」
呉羽の説明が終わるか終わらないか位に、フードが静かに俺を覆い尽くした。同時に、しゅうううという空気の噴出音があちらこちらから聞こえてくる。
何だろう。やや重い質感のある無味無臭の気体が、ぞろうりぞろうりと身体全体を這いまわり、ずっぽりと抱擁していく。
不快感もストレスも何もない。このまま睡魔の誘惑に誘われるままに、静寂の淵へと身を委ねてしまいたい――そんな、驚く程リラックスした気分に浸るうちに、フードは静かに空間の束縛を解き始める。
「お疲れ様でした。特に問題はないようですね」
呉羽の静かな口調に安堵感を覚えながら、俺は診察台を降りた。
「今ので何が分かったんですか?」
「血液、脈拍、内臓器官の状態、その他二百五十八項目について調べましたが、異常値はありませんでしたよ。勿論、未知の病原体もね」
俺は訝しげな眼線を呉羽に注いだ。
淡々と語る呉羽の口調は実に事務的で簡単明瞭に言葉を綴ってくれたものの、俺の中で膨らむ疑念を消炎するには至らなかった。
「今の、どうやって調べた?」
「超微粒子型センサーを無害な気体の分子に固定させて体内に浸透させたんです。鼻や口だけでなく、皮膚からもね。私が開発した身体へのダメージを全く与えない最新鋭の検査システムです」
呉羽は眼を細めると得意気な笑みを浮かべた。
「退出しますよ」
そそくさと壁に向かう呉羽の後を、慌てて追いかける。
壁を抜けると、寿々音が二人の秘書を引き連れて腕を組んで待ち受けていた。
「住居棟に案内する。ついて来て」
寿々音が素っ気なく吐き捨てると、すたすたと先頭切って歩き。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ! 独房じゃねえだろうな」
「全然違う。快適過ぎるくらい」
慌てて跡を追う俺に、彼女は振り向きもせずに答えた。
通路をうねうねと巡り、エレベーターを幾つも経由した後、遮光ガラスで出来た自動ドアを通り抜ける。
同時に、空気が変わった。仄かに香るアスファルトの匂いが、妙に懐かしく感じる。
俺は自分の眼を疑った。
星空だ。星空が広がっている。
それもそうだが、それ以上の「なんじゃこりゃあ?」が俺の頭の中に広がっていた。
大きく蛇行しながら伸びる四車線の道。その道に沿ってコンビニや書店などの商店が軒を連ねている。
「ここ、本当に地下都市なのか?」
無言のまま目的地を目指す寿々音に、背後から問いかける。
「ええ」
寿々音は超言葉短に答えると、不意に立ち止まった。
「あそこ」
寿々音の指差す方向をみると、天高くそびえ立つ真新しいマンションが視界いっぱいに映っていた。淡いモノポリーの外壁が、街灯の白い光を受けて闇にぼんやりと浮かび上がっている。
「居住棟って、マンション?」
「そうよ。あのマンションは案山子が経営する不動産会社が管理しているの」
「へええ」
感嘆の吐息の後に無数の疑問符が増殖する
「案山子って、何者なんだ?」
「科学者よ。専門は遺伝子工学。その関係の事業を幾つも手掛けている実業家でもある」
「すんげえ金持ち兼実力者だってことか」
「ま、そういうこと。政府にも人脈があるらしいわ。だから軍も公安も簡単には手出し出来ない。さ、こっち来て」
「あ、待ってくれ!」
つかつかと足早に進む寿々音の後を、俺は慌てて追いかけた。
マンションの入口に立つと、意外にもドアはすんなり開いた。カードキ―も暗証番号のロックも無いなんて、何と不用心な管理。
「ただの自動ドア? セキュリティ甘っ!」
俺は呆れた口調で呟いた。
「認証されたのよ。レタスの栽培工場の時と一緒。此処のセキュリティーもオーラの波調がキ―になっているから」
ホールを抜け、突き当りに設えられているエレベーターに乗り込むと寿々音は最上階のボタンを押した。エレベーターは上昇したが瞬時にして停止する。
誰かが乗り込んでくるのか。
ドアが、ゆっくりと開く。が、誰も乗ってこない。
「何してんの、降りるよっ!」
寿々音が苛立たし気に声を荒げた。
もう着いたのか。いくらなんでも速過ぎる。乗って何秒もたっていない。こっちの世界って、技術力の発展度合いが半端ない。
俺は驚きを隠せぬまま、とぼとぼと彼女の後を追った。
しばらく進んだところで、寿々音は歩みを止めた。
「貴方の部屋はここ。私の部屋は隣だから」
俺は扉に張り付いている部屋番号に眼を向けた。
3302号室。 でも。
どうやって中に入るんだ?
俺は呆然とドアの前で佇んだ。ドアノブも鍵穴も無い、俺からしてみれば壁の延長線でしかない不可思議なドアと対峙しながら、それでもこの短期間の間で詰め込んだ信じられない様な経験と知識を超高速で反芻していく。
これしかないか、やっぱり。
恐る恐る本来ドアノブのあるべき個所に手を翳してみる。途端に、軽く冷たい金属音とともにドアが開いた。
「言わなくても分かったみたいね。このドアもオーラを読み取って開くの、さあ入って」
「あ、ああ」
寿々音に促され、俺は部屋に足を踏み入れた。それにしても、俺のオーラのデータ、いつの間に登録したのだろうか。
ドアの向こうは、いきなり長い廊下。俺が住んでいた1Kのアパートとは大違いだ。
突き当たりのドアを開ける。
俺は思わず唸り声を上げた。
だだっ広いワンフロアーの部屋。二十畳以上はあるだろうか。奥に対面式のキッチンがあり、部屋の中央には馬鹿でかい超薄型テレビが、そして一人ではでか過ぎるベッドまでも鎮座している。
「凄い……」
「VIP待遇よ。それとこれ」
寿々音がテーブルの上に分厚い封筒を置いた。
「当座の生活資金」
俺は何気に封筒を手に取り、中身を覗き見て絶句した。
万札だ。ざっと百枚はある。驚いたことに、絵柄やデザインは俺のいた世界と同じだ。
「おい、これは――?」
「協力費よ。貰っておいて損は無い」
寿々音はにべもなく言うと、窓辺に立ち、カーテンを開いた。幾つもの高層ビルと縦横に走る道路が視界に飛び込んでくる。
俺はソファーに腰を下ろすと、ぐうっと背中を伸ばした。
本当にここは地下都市なのか?
出来れば、機会を見て地上の世界を確認したい。それに、俺の車も気になる。だけど、そう簡単に出れるものなのか? 地下都市の存在を知ったからというよりも、反政府組織の総帥と深くかかわってしまった以上、この都市からは出られない気がする。恐らくは、寿々音の様に何かしらの使命を受けない限りは無理だろう。でも出たところで、この世界に俺の帰る所は他にはないのだ。
「君は、いつから此方にいるの?」
「半年位前」
「半年?」
「そう。部活の帰りにいつもと違う道を通ったら、あの家の庭に自転車で迷い込んじゃって……気が付いたら、此方にいた」
「俺が迷い込んだ時と同じだな。案山子と知り合ったのはその時なのか」
「ええ。庭から出ようとしたら銃を構えた政府軍十数名に囲まれて」
「助けられた?」
「いえ、私が助けた。建物の影に潜んで様子を伺っていた日本改革機構の連中をね」
俺は寿々音を凝視した。
「ひょっとして、さっきみたいにか」
「何もしていない。あの時、私はまだ自分の力には気付いていなかったから」
「じゃあ、どうやって助けた? ひょっとして、あの時みたいに跳ね返したのか?」
寿々音は黙って頷いた。
「銃撃されたけど、全て撃った本人に跳ね返って行った。自動小銃だったから、たくさんの弾丸がいっぺんに飛んできたけど一発も当たらなかった。いったい何が起こったのか、私には理解出来なかったよ。気付いた時には、奴らは血まみれになって倒れていた」
「自分の意思でどうのこうのって訳じゃなさそうだな」
「うん。ただ」
「ただ?」
「死にたくない! そう思っただけ。その後の他の抗争で、自分には敵の攻撃をはね返すだけでなく、敵を破壊する超人的な力が備わっているのに気付いた」
「改革機構に入ったのは、銃撃戦がきっかけか?」
「まあね。結果助ける事になったメンバーに連れられて、案山子に引き合わされた。後は貴方と同じ」
寿々音は淡々とした口調で語ると、窓辺を離れ、ソファーに腰を下ろした。
「戦闘はしょっちゅうあるの?」
「そんなでもないよ。でも二日に一回の時もあったな」
「怖くないか?」
「えっ?」
「死ぬ事がさ」
「怖くないって言えば、嘘になる」
寿々音の眼が、遠くを見つめている。まるで、過去の殺戮の日々を振り返る老兵の様に、何処か事務的な表情で史実の記憶だけを問い詰めている様に思えた。
ふと、俺は背筋に悪寒が走るのを覚えた。
彼女は、死が怖くないのか。超常的な能力に目覚めたとはいえ、不死身と言うわけじゃないだろう。
否、それよりも。
「敵を……倒す事は?」
人を殺す事――俺が彼女に聞きたかった本当の質問。でも俺はそれを言葉に綴る事は出来なかった。
あまりにも生々しかった。
昨夜の、あの光景が。
「何も感じない……あいつら、作り物だから」
「生身の人間だったら?」
「抵抗はあるよ。でも……」
「でも?」
「状況次第では、殺るかも」
寿々音は眼をまっすぐ天井に向けると、躊躇いも無くはっきりと言い切った。
俺は、ごくりと喉を大きくならして生唾の洪水を嚥下した。
全ての追従を拒否するかのような、凄まじく明白な意思表現だった。
出来るのか。
蚊ですら潰せないこの俺に。
案山子は俺に寿々音同様の能力を期待している。
ただ俺が、異世界からの来訪者と言うだけの理由で。
でも。
もし、俺が超人的な力に目覚めなかったらどうなるか?
そうなれば、俺をここに留めるメリットが無くなるはず。ただ、
秘密を知り過ぎた以上、ただでは済まないだろう。記憶が消される位ならまだいい。下手すりゃ存在すら危ぶまれる。
身体が小刻みに震えていた。
止まらなかった。
必死で止めようとしても、まるでその行為を嘲笑うかのように震えはますます増長し、己の心の弱さを余す所無く曝け出していた。
「喜多、一言言っておく」
正面を向いたまま、寿々音が重いトーンの声で言葉を綴った。
ため口ききやがった。なんてくそ生意気な。
「何だ?」
一瞬にして沸騰し掛けた感情の暴走を何とか理性でねじ伏せる。
「やるしかない。此処で生きて行くのなら。それが、今あんたが考えている事への答え。違う?」
大きな黒い瞳が、俺の顔を覗き込む。
しっかり見透かされている。なんて娘だ。
「……合ってるよ。糞腹が立つくらい」
俺は忌々しげに台詞を吐いた。
情けねえ。完璧に心中を見透かされている。。
「私は部屋に戻る。案山子からの連絡が入るまでゆっくり身体を休めておきな」
寿々音は席を立つと、後ろ手にじゃあねと手を振りながら部屋から出て行った。
俺は大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐いた。クリーニングされた澄んだ空気が、喉から肺へと流れ込み、どんよりとした重い吐息となって喉を震わせながら体外へと吐き出されていく。
なんて一日だ。
よく分からないうちに拉致されたかと思えば、、気がつけば豪奢な部屋で札束の入った封筒を前にし、寛いでいる。
俺も、『ここ』で一カ月も暮らせば、寿々音みたいに割り切った生活が送れるようになるのだろうか。自らが生きる為に人の生命を奪うことが何の抵抗も無く出来るのだろうか。
それだけじゃない。政府軍に殺害されていく仲間の姿を日常茶飯事のように目の当たりにしながらも、平常心を維持し、冷徹に任務を遂行出来るのかどうか。
俺は兵士じゃない。
傭兵でも、自衛官でもない。唯の平凡な大学院生だ。
でも、案山子が言うには、寿々音も『ここ』に来るまでは普通の女子校生だった。
『ここ』で生きていくには、やるしかない――寿々音が、究極の緊張と恐怖に晒されながらたどり着いた、彼女なりに考え、導き出した答え。
正直、俺はまだ、そこまで決心は出来ていない。
心の準備も何もないままに此処に放り出され、ましてや反政府組織として活動しろだなんて狂気の沙汰といってもおかしくはない。例え、今の寿々音みたいに半年間『ここ』で暮らしたとしても、俺はそこまで強くなれるかどうか。
否、強くじゃない。
狂気に慣れる、とでも言うべきか。
それともう一つ。
もし、寿々音の様な超常能力に覚醒しなかったら、案山子は俺をどう扱うのだろうか。
記憶を消されて地上にほうり出されるか。それとも、存在そのものを消去するか――もともとこの世界には存在しないのだから。
その前に、死ぬぞ。きっと。
逃げちまうか。このままそっと地上へでも。
ソファーから立ち上がると、一人暮らしでは超馬鹿でかすぎる冷蔵庫の中を物色する。
缶ビールが1ダース。それも、安価な発泡酒ではなく、正真正銘のビール。他には……サンドウイッチが一皿入っている。案山子のスタッフが俺に用意してくれたのだろうか。ツナや野菜、ハムに卵と様々なバリエーションのサンドウイッチが、しかも大皿にびっしりと並んでいる。明らかにパーティーサイズ。一人で食べるには多過ぎる。
とてつもなくアンバランスな冷蔵庫の外身と中身のギャップに苦笑しつつ、俺は缶ビールを一本取り出すと、すかさずプルタブを引き上げた。
弾ける様な軽い開封の調べと共に、仄かな苦みのある爽快な香りが鼻腔をくすぐる。
寿々音のどや顔に乾杯。
刹那。
ドアがゆっくりと開く。
「寿々音か――?」
視界にとらえたのは見知らぬ女性一名。俺の眼は、吸い込まれるように彼女の姿にくぎ付けになっていた。凄い美女だ。
高い鼻。おかっぱのようなショートヘアーに切れ長の眼。「御帰りなさいませ、御主人様」とでも今にも言いだしそうな黒基調のメイド服をきている。歳は二十代前半か。
「私は璃璃華。案山子よりこのマンションの管理と貴方達の世話をおおせつかっている。そのサンドウイッチは私が用意したものだ。寿々音の分は彼女の部屋に用意してある。遠慮なく食べるといい」」
「あ、ありがとう。君はひょっとして、案山子の秘書?」
「ああ。そのうちの一人だ」
璃璃華は無表情のまま、淡々とした口調で俺の問い掛けに答えた。メイド服から想像したイメージとは一八〇度異なる高飛車命令口調が、妙にアンバランスだ。案山子の秘書の一人だとすると、この御方も超人的な能力を駆使する不死身人間なのか。
「何か要望は無いか? 遠慮は無用だ」
「じゃあ、すっぽんぽんになって俺と添い寝してくれ」
俺は至って真顔で璃璃華に答えた。あくまでも冗談のつもりで。が、即座に後悔の淵を彷徨った。相手は案山子の秘書の一人。てこたあ、想像を絶する再生能力とパワーを兼ね備えた超女子ってことだ。つまらない冗談で怒らせたら、きっとただじゃ済まない。
李璃華は憮然とした表情で、手を動かし始めた。。
俺は直立不動のまま、彼女の行為を食い入るように凝視する。平手打ちが来るか、拳が飛んでくるか。
が、俺の予想に反して、彼女のとった行動はそのどちらでもなかった。
彼女は手際良くブラウスのボタンを外すと、何の躊躇いも無いままにするすると脱ぎ捨てたのだ。白いブラジャーが無防備にさらけ出されても少しも臆することなく、更にはそれを何の躊躇いもなく取り外すと、たわわに実った豊満な乳房がぷるんと顔を出す。
ごくり、と、派手に喉を鳴らして生唾を呑み込む。
このままいけば、ひょっとして、ひょっとするぞ。
俺の期待に添うかのように、彼女の両手は実に働き者の側面を見せる。休める事無く彼女の手は今度はスカートのウエストに手を掛けた。
と、不意に、ドアが勢いよく開く。
「忘れてた!、後で管理人の――」
寿々音が、かっと見開いた両眼でおれと璃璃華を凝視している。
軽い衣擦れと共に、璃璃華のスカートが床に落ち、白いパンティーに包まれた下半身が露わになる。
驚愕に凍てついていた寿々音の眼が、瞬時にして憤怒に歪んだ。
「ええっと、そのう……」
俺は事情を説明しようと懸命に思考をフル回転させるが、努力虚しく舌はスリックタイヤのように空回りする。
「馬鹿っ!」
寿々音は憎悪に表情を歪めながら、勢いよくドアを閉めて再び部屋を出て行った。
ドアが、派手な音を立てて倒れる。
「何なんだよ……」
ドア、ぶち壊しやがった。蝶番が見事に弾け飛んでいる。
否、それよりも。
何なんだ、この虚しさ。まるでカノジョに浮気現場を抑えられたみたいな情けねえ展開だった。いやでも、別に俺がうろたえる必要は無いんじゃないの? 寿々音が俺のカノジョって訳ではないし、どちらかと言えば、人の部屋にノックも無しにずけずけと入って来ること自体が非常識だ。
でも、なんで寿々音は入ってこれたんだ? 管理人の璃璃華が自由に入室できるのはわかる。いったいここのセキュリティはどうなってるんだ!
なんとなく腹が立つ。
それでも、何か煮え切れない。歯切れの悪い淀んだ気が、俺の中で不快感に満ちたしこりとなって重く立ち塞がっている。と、同時に、それでも妙なやっちまった感が俺の意識をぐらぐらと揺さぶっていた。
「修理する」
唖然とする俺を尻目に、璃璃華はパンイチのままで表情一つ変えずに外れたドアを軽々と持ち上げた。
ドアを壁に立てかけると、クローゼットの片隅から工具箱を持ち出して来て、てきぱきと修繕体制にスイッチしていく。
俺はビールを一気に飲み干すと、ベッドにひっくり返った。
これからどうなっちまうんだろう、俺。
あれからどうなっちまったんだろう、俺の車。
バイトして苦労して買ったんだぞ。
吐息とともに、強烈な睡魔と虚脱感が俺を襲う。
抵抗するものの、重い鉛の様に前進にのしかかって来る心地よい虚脱感を前に、俺は早々に白旗を振ると、ゆっくりと眼を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます